第2話
第2話
世界から存在が消えている。
一度はそう感じて口にした言葉だったが、よくよく考えてみなくても意味不明な話だ。
俺はずっと頭を抱えるしかなかったが、こういう時女は図太いという事か、それとも単に彼女が変わっているだけなのか。
俺達はなぜか、近所のショッピングモールに来ていた。
「制服のままだと、補導とかされそうだし」
と言うのは、神谷の提案だった。
確かにそれは有り難い。
女子高生を連れ回す怪しい男が居る、なんて通報されるのも厄介だ。
もっとも、既に身に降り掛かっている出来事に比べたら、わずかな誤差かもしれないが。
「ヨッシーも服買ったら?」
「俺はいい」
「うーん、て言うか、一緒に歩く私が良くないんだけど」
「何がだよ?」
「スーツはヨレヨレ、シャツもシワシワ、髪もボサボサでおまけに無精髭」
「だから?」
「私までダサいって思われたくない」
「知るか、大体な……」
一緒に居る必要なんてないだろ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「……ッチ、俺の事はほっとけ」
「だから『俺の事』じゃないんだけどなー……あ、何あれ超かわいい」
こんな状況でも買い物を心から楽しんでいないだろうか、すごいと言うべきか呆れると言うべきか。
種類の異なる服をいくつか抱えながら、今年のトレンドが何だのと書かれたポスターを食い入る様に見ている。
電話を終えたあの後、あんなにも不安に押しつぶされそうな顔をしていたのに。
その時の神谷が言った言葉がある。
「助けて」
それは多分、俺に向けた言葉じゃない。
例え俺に向けられたとしても、こっちだってその言葉を使いたい当事者だ。
厄介事は御免だし、もう充分にそうなっていたとしても、少ないに越した事はない。
他人の分まで背負わされたくない。
だから俺は「無理だ」と言って立ち去ろうとした。
「私にはァ!」
向けた背中に、悲鳴の様な声を浴びせられる。
「お金がある。キミには、無いでしょ」
何を言い出すかと思えば、子供の小遣い程度で駆け引きのつもりだろうか。
「見て」
相手にせず足を進めようとすると、また大声で「見てッ!」と言われる。
これ以上騒がれて人が来ても厄介だから、俺は振り返って鼻で笑い、「そんな端金」と言おうとした。
「私はこのお金でヨッシーを助ける。だからヨッシーも、このお金で私を助けて」
口が開けられたカバンの中には、見ただけでは数え切れない程の万札が入っていた。
* * * * *
とどのつまり、俺は金に釣られて神谷と行動する道を選んだのだ。
「チクショー!」
厄介事は御免だと言っておきながらこの体たらく、自分でも情けないと思う。
そもそも何だあの大金は、百万どころじゃない、むしろ輪ゴムで留められた束すらあった。
本当にどうなっているんだ、最近の女子高生は大金を持ち歩くのがトレンドなのか?
何だそのトレンドッ!
ああ、でも、何をするにも金は要るゥ……。
いざという時にあれだけ在ると無いとでは、雲泥の差が生じるゥ……。
「まーた独り言してる」
「うおっ!」
気付かない内に神谷が戻ってきていた。
「どお? かわいい?」
かわいいかと聞いているのは顔の事か?
それとも着替えた服の事か?
そうだな、どっちもかわ……違うッ。
「まー、普通だな」
「普通かー。まいっか、別にヨッシーに気に入られなくても」
「おお、そーだそーだ」
危うく犯罪臭のする台詞を言いかけた。
……苦手だ、こういうのは。
女とは無縁の人生だったから。
「はい、これヨッシーの」
そう言って神谷は黒のダウンジャケットを渡してきた。
「なんだこれ」
「せめてそれくらいは無いと、夜とか凍えちゃうよ」
「そ、そうか……ありがとな」
「ねね、色違いのおそろい。私のはピンク」
「し、知らねーよ」
……苦手だ。
それからしばらくはショッピングモール内をうろついた。
神谷がところどころで店を覗いては、結局何も買わずに戻ってくるのを繰り返す。
腹が減ったからどこかに入ろうと言ってからも、結局4軒くらいは見て回った。
……一体これは、何の時間なんだろうか。
「こういう時だからこそ、いつも通り過ごすべきなの」
やっと腰を落ち着かせたレストランで、ハンバーグを頬張りながら神谷が言った。
「あれがいつも通りなら、人生の大半は買い物してんだな」
「そうだよー」
俺も注文したカレーを口にする。
壁の時計を見ると、午後3時を過ぎていた。
朝から動きっぱなしで、そもそもが起きた瞬間から意味不明な出来事の連発だった。
だから腹が減っていたし、疲れてもいたのだろう、カレーが妙に美味く感じた。
「ねえ、サラダいつ食べるの」
「勝手に付いてきただけだし、別にいらねー」
「え、まかさ野菜……嫌いなの?」
「好き好んで食うもんでもねーだろ」
「うーわ、子供だー」
「子供に言われたくねーよ、それより」
この話題を反らしたいが半分、残りはもっと重大な話をするべきだと思って切り出した。
「……これから、どうすっかな」
「ん、そうだねー」
「とりあえず整理するぞ。朝起きたら俺は部屋じゃなく外に、お前はG県じゃなくA県に居た」
「うん」
「そしてなぜか、荷物を何も持っていない状態だった」
「それは違うよ」
そう言いながらカバンを引っ張り上げ、中から何かを取り出した。
「ヨッシーはこれを持ってた」
「……あの写真か」
そうは言っても見覚えの無い写真だ、俺の『私物』としては何も持っていないが正しい。
「そして私は、これを持ってた」
「カバンか。いや、カバンそのものよりも、中身の方が重要か」
「うーん、中身の方は私も良く分かんないけど」
「ん? どーゆう意味だ?」
「だから、カバンは私のだけど、お金の方は私のじゃないの」
「はぁー!?」
思わず身を乗り出して大声を上げてしまった。
とっさに周りを見渡す。
客の少ない時間帯で良かった。
声を落として、感情的にならず、大人として話をせねば。
「お、おま、どーゆう事だ! おい!!」
……店員に注意された。
「あのね、最初の駅でカバンを開けた時に気が付いたの。なんだろう、これーって」
「……なんだろうのレベルじゃねーだろ」
「で、ヨッシーが困ってたから」
「そーだった。俺、その金を……、どこの誰の物かも分からない金を使ったんだ。最悪だ、厄介事の深みにはまっていく」
「でもねヨッシー、このカバンは私のなの。すごく、すごーく大切なカバンなの。それに入っていたお金は、誰かが私を守ろうとしてくれてる気がする」
「それは勝手な妄想だ」
「そうだけど……」
神谷があまり生意気を言わず、妙にしおらしい事に気が付いた。
彼女なりに、金を使うのは罪悪感があるという事だろう。
……手を切るべきだ。
今ならまだ、俺は事情を知らずに使ったという言い分が通る。
でもここから先、俺はこの金の意味を分かって使う事になる。
後から持ち主が出てきて、俺まで責められるなんて厄介事は勘弁して欲しい。
神谷とはここで、手を切るべきなんだ。
「……めなの」
「なんだって?」
「生きていくためなの」
生きていくため、か。
「……妥協すべき所かもしれねーな。それこそ本当に、誰かがお前のために用意した金かもしれねーし」
「そうだといいな」
「とりあえずそう思っとこう、その方が気が楽になる」
「うん、分かった」
話に一旦区切りを付け、カレーを平らげて水を一気に飲み干した。
区切ってしまって良かったのだろうか。
手を切るべきだという考えは間違っていないと思う。
でもそれ以上に、生きていくためという言葉に重みが在った。
その事に関して自分も当事者だと、俺は理解できていなかったのかもしれない。
「……カバンは他に、何も入ってねーのか」
「うーん、無いと思う。どこまで掘ってもお金ばっかり」
「あまり人に見られるなよ」
「はーい先生、分かってまーす」
神谷がカバンを調べている間、手持ち無沙汰になったので机に置かれた写真を手にしてみた。
最初目にした時の印象通り、誰も居ない寂れた公園の写真だ。
裏も特に変わった所は……あった。
「おい、これ」
「ちょっと待ってー」
カバンの中を調べる事に夢中で、神谷がこっちを向こうとしない。
仕方がないので、この写真の裏はまず俺ひとりで確認する事にした。
見つけた変わった所、それは裏に書かれた文字だった。
『願いを叶える』
マジックペンか何かで、そう書かれている。
……待てよ、この字、俺の字に似ているような気が。
「お金しか無かったよ。で、どうしたの」
「え、ああ。これ」
「何これ、写真のタイトル?」
「さーな。……なあ、これ本当に俺が持ってたのか?」
「うん。ヨッシーが、遅刻ゥ、遅刻しそうなんだァーの時に落としてった」
「そ、そうか」
そしてその唇を突き出した顔は、やっぱり俺のモノマネなんだな。
「ねえ、なんか動揺してない?」
「ど、よ、ししてねーよ」
「いやいやいや」
動揺している。
見覚えの無い写真の裏に、俺が書いたかもしれない文字がある。
これは一体、どういう事なんだろうか。
「この写真は、俺が預かっとく。さーて、そろそろ店でも出ーるっかなー」
「うーわ、露骨に怪しい」
「いいからー、行きますよーお嬢さーん」
「……ねえ、ヨッシー。私もひとつ、気になってる事があるの」
「お、おお。何だ?」
「でもヨッシーが隠し事するなら、私も言わなーい」
「隠し事なんて、お前バカそんな」
「それに、まだ確信がある訳じゃないし。もっとちゃんと分かってから言うね」
「そ、そうか」
それは俺も同じだ。
この写真の文字を書いたのが俺だと決まった訳ではない。
別に隠す程の事でもないと思うのだが、動揺の余りに言いそびれてしまった。
「じゃ、ヨッシーこれお願い」
そう言って神谷は、伝票と千円札2枚を渡してきた。
「俺が払うのか」
「その方が自然じゃない?」
「そーか? つか、やっぱりこの金を使うんだよな」
「妥協したんじゃないの、もう」
「そーだけど、うーん」
「はー、いい。私が払ってくる」
「ごちそうさまです」
「ウーイ」
露骨に嫌な返事をされた。
ああ、そして間接的にとは言え、あの金を分かってて使ってしまった。
……もう後には引けない。
「ねえ、これからどうしよう」
場所が外に変わっただけで、話は一周して元に戻った気がする。
顔に当たる風が冷たくて痛い。
「私この街に知り合いなんて居ないし」
「俺もそんなに居ねーよ」
「居るには居るんでしょ」
「ひとりだけな」
そう、あいつは俺の数少ない高校からの友人で、唯一親友とも呼べる相手だった。
2年前のあの日までは。
仮に世界から俺の存在が消えていなくても、おいそれと会える様な相手ではない。
「会いに行こうよ」
「なんでだ」
「こんな事になってる私達だけじゃなくて、他にも協力してくれる人が必要だと思うの」
「それは、そーだけど。……あいつは無理だ、2年前にケンカ別れして、それっきりだ」
「いいじゃん、どうせ私達居ない事になってるんだし、行ってみよっ」
とんでもない理屈をぶち込んできた。
……やっぱりこの女は、俺に厄介事しか与えてこない地雷だ。
見上げた空には星が出かかっていて、そこに幾つかの風船が浮かんでいる。
どこかで祭りでもやっているのだろうか。
今はそんな日常の風景が、すごく遠い出来事の様に感じていた。