第15話(終)
第15話(終)
この世界に起きた、俺の存在が消えるという現象は、俺自身の願いによるものだった。
その願いは、叶えられていた。
俺がこの世界に居たという証拠は跡形もなく消えていて、誰も俺を覚えていない。
そして、彼女は戻ってきた。
あの日の姿のままで。
俺の願いが叶ったこの世界で、彼女は再び笑ってくれる。
ずっとそこに居てくれる。
そのはず、だった。
……俺は、何かを間違えている。
消したはずの俺がどうしてここに居る。
どうしてまだ生きている。
どうして。
俺は君の笑顔を望んだはずなのに。
泣いて、いるんだ。
屋上に姿を現した彼女の名を呼んだ。
最初に出会った姿のままの彼女に向かって。
最後に会った時に呼んだ彼女の名を。
七葉。
彼は私に向かってそう言いました。
その後に続く言葉はありません。
私の目を真っ直ぐに見て、そう言ったのです。
私の名前を呼んだのです。
どうしてでしょう。
その名前を思い出さない様に、せっかく写真を奪ったのに。
この人を守ると誓ったのに。
どうしてでしょう。
もう二度と会わないと思っていた彼の顔を見たら。
もう二度と呼ばれないと思っていた私の名前を呼ばれたら。
とても、嬉しかったのです。
そうならないように、頑張ったのに。
どうしてここに居るの。
どうして私の名前を呼ぶの。
そんな疑問を口に出せないほど。
溢れる涙を手で抑えられないほど。
嬉しいんです。
でもダメなんです。
喜んじゃダメなんです。
私の願いが壊れてしまうから。
私はそんな事を、望んじゃダメなんです。
その名前を呼んだらダメだよ。
ヨッシー。
俺は七葉に聞きたい事が山ほどあった。
俺を襲った理由。
写真を奪った理由。
ここに来た理由。
ありがとうの言葉を残した理由。
ごめんねの言葉を残した理由。
さよならの言葉を残した理由。
でも何よりも聞きたかったのは、涙を流す理由だった。
それを聞いても答えてはくれない。
どこか具合が悪いのかと聞いても首を横に振る。
どこか怪我をしたのかと聞いても首を横に振る。
俺は分からなかった。
涙の理由が。
俺は分からなかった。
七葉を笑顔にする方法が。
ヨッシーは私の事を心配してくれました。
あんな事をした後なのに、怒る事もせず、ただただ私の事を考えてくれました。
私が最初に助けてと言った時、無理だと返してきたあの人がです。
すぐに逃げていたあの人がです。
すぐに言い訳していたあの人です。
人に思いやりを向けてくるのです。
私の大好きなヨッシーがここに居ます。
だからこそ、やっぱりダメなんです。
私もね、ずっと心配していたんだよ。
写真を奪って逃げるつもりだったのに、ヨッシーを怪我させてしまったから。
すごく、すごく、後悔したんだよ。
でもその気持ちを向けると、やっぱりキミはこう言うんだね。
自分の事はどうでもいい、って。
どうでも良くないんだよ。
やっぱりキミは、戻ってしまう。
私のせいで、ボロボロだったキミに戻ってしまう。
だから、だからね、私は、この願いの間違いを正しに来たんだよ。
七葉は俺に言った。
この世界は七葉の願いが叶った世界だと。
その願いによって、世界から七葉の存在が消えたのだと。
なぜそんな事を願ったのか。
それを聞くと、俺のためだと言った。
自分の人生を生きて欲しいからだと。
俺はそれを否定した。
自然と涙が溢れていた。
そんな事は気にも留めず、声を荒げて否定した。
俺が望んだのは、七葉、お前なんだから。
この世界は、俺の願いが叶った世界だから。
俺はお前を願っているんだ。
私はキミを願っているよ。
でもね、きっと間違えちゃったんだ。
少しでもキミに、会いたいと思っちゃったんだ。
また一緒にお話ししたいって。
また一緒にご飯を食べたいって。
また一緒に並んで歩きたいって。
でもそれは、間違いだったんだよ。
その間違いのせいで、私はこんな所に居る。
あの頃の姿のままで。
これは私の未練なんだね。
それを消さないと。
私の願いは壊れてしまう。
キミが私を忘れられない。
だから私は私を消すよ。
ちゃんと頑張れるから。
頑張るから。
俺は間違えている。
何かを間違えてこうなっている。
そのせいで。
七葉がまた消えようとしている。
この世界から居なくなろうとしている。
どれだけ泣き叫んでも。
どんな言葉を使っても。
それがお前に届かない。
屋上の縁に立った七葉がやっと見せてくれた笑顔。
その笑顔をずっと見たかった。
その笑顔で世界を満たしたかった。
そのために俺は自分を消したんだ。
お前は間違ってなんかいない。
そこに居なきゃだめなんだ。
俺の願いを壊さないでくれ。
間違っているのは俺なんだ。
俺がここに居るせいだ。
俺がまたお前を好きになったせいだ。
そのせいで、お前はまた。
消えてしまう。
ダメだ。
消えるべきなのはお前じゃない。
消えるべきなのは。
俺なんだ……。
「違うッ!」
……違う。
俺の口から出たこの言葉は。
あの風船は。
俺の胸の内にあるこの言葉は。
お前のものだ。
お前がここに居る証拠だ。
俺がここに居る証拠だ。
この言葉は、俺達のものだ。
お前が俺を願ってくれたから。
俺は今、ここに居る。
俺がお前を願っていたから。
お前は今、ここに居る。
お前は間違ってなんかいない。
俺は間違ってなんかいない。
間違っているのは、俺達なんだ。
俺が今、それを証明してやる。
ここへ何をしに来たのか思い出したよ。
風船を探して。
神谷を探して。
七葉を探して。
そしてこれをしに来たんだったな。
さあ、最後の実験を始めよう。
俺は深く息を吸い込んで、一気に解き放った。
「自分を捨ててまで、
叶えていい願いなんてないんだ!
願いが叶ったこの世界に、
俺達が居ないとダメなんだ!」
ダメだよ、ヨッシー。
来ちゃダメ。
私は消えないと。
ヨッシーを守らないと。
私の願いを叶えないと。
お前を消させてなるものか。
例えそれがお前でも、それをさせてなるものか。
願いを叶えるために。
七葉が離れていく。
伸ばした手が間に合わない。
落ちていく。
逃げない。
諦めない。
お前が好きだ。
この手が届かないと言うのなら。
この体の全てをお前に届ける。
私は、空を見ている。
私は、キミを見ている。
どうして、ヨッシー。
どうしてキミが、ここに居るの。
消えるのは私なのに。
落ちるのは私なのに。
キミまで、消えちゃう。
そんな事私は、望んでないのに。
こんな事私は、思っちゃいけないのに。
キミに抱きしめられて。
嬉しい。
気持ちが、まとまらないよ。
なあ。
俺達はどうして、お互いの願いが叶ったこの世界で、泣いているんだろうな。
ねえ。
私たちはどうして、お互いが望んだこの世界に、居るのかな。
俺はお前を願って、そこに俺を願わなかった。
私はキミを願って、そこに私を願わなかった。
俺はずっと、お前の笑顔が見たかった。
ずっとこうしていたかった。
ずっとお前を願っていた。
私だって、ヨッシーを願ったんだよ。
それなのに、それなのに。
どうしよう、ヨッシーが消えちゃう。
ヨッシーが居なくなっちゃう。
大丈夫だ、消えたりしない。
そんな事のために、俺はここに居るんじゃない。
願いを叶えるんだ。
願いを?
そうだ、俺達の願いを叶えよう。
自分を捨てる必要なんてない。
俺達はここに居るんだから。
お前にもその願い、あるんじゃないか。
ある、あるよ。
でもそんな事、お願いしていいの?
いいに決まってるだろ。
それが俺達の間違いだったんだ。
それに気づかせてくれたのは、お前じゃないか。
私が?
そうだ。
お前がくれた言葉が、気づかせてくれた言葉が、それを証明している。
お前の言葉は、ここに在る。
俺達の言葉は、ここに在る。
それを今、俺達のために使おう。
……うん。
俺の願いは。
私の願いは。
お前と、
キミと、
「一緒に生きたい」
――風船が、見える。
――俺達の、私たちの、願いを込めた風船。
――届くと、いいな。
* * * * *
目を開けると、そこに見慣れた天井があった。
けたたましい音を鳴らすそれを手に取る。
自分の携帯だった。
随分と久しぶりに見る気がする。
ボタンを押すと、知っている声がした。
その人の言葉を最後まで聞かずに、俺は着替えもせず、家を飛び出していた。
太陽の眩しさを感じて、顔を上げる。
俺は空を見ている。
この空に、もう風船は浮かんでいない。
でもそれを、寂しいとは思わない。
これからはその風船を、直接届けられる。
これからはその風船を、直接受け取れる。
その事が今は待ち遠しい。
どんな言葉がいいだろう。
君にどんな言葉をかけよう。
ありがとう。
ごめん。
おかえり。
どれも合っていて、少し違う気がする。
贅沢な悩みだ。
こんな言葉はどうだろう。
少し、キザったらしいだろうか。
意地悪な笑顔で茶化されるだろうか。
それも悪くない。
君を願う君がいて、俺は…………。
* * * * *
「やっと電話に出ましたね」
「いつも出ないみたいに言うなよ」
「事実、そうでしょう」
「そーか? で、どーした」
「いえ、無事にお店に着いたかと思いまして」
「子供じゃねーんだ、今もう店の前に居るぞ」
「本当ですか? お店の名前は、合っていますか?」
「お前なー」
「……しかし、あれからもう1年でしょうか。随分と経ちましたね」
「そーだな」
「今でも忘れません、突然電話してきたあなたが、意味の分からない事を口走りだしたのですから」
「直前まで一緒だったからな」
「2年ぶりでしたよ。僕とはもう縁を切るような事を言っておきながら、あなたという人は全く」
「俺もまさか、もう1回お前に謝る羽目になるとはなー。でもお前が興味湧きそうな話してやっただろ」
「……あなた達の体験したというその現象は、誰も覚えていません。実際に起きたという根拠もありません」
「そーだな。でも、ま、それでもいーや」
「どうしてですか?」
「それを証明できるからだよ」
「話が噛み合わないのは元からですが……。でも、僕も、そう信じていますよ」
「ああ、知ってる」
「僕達はもう少しかかりそうです、先におふたりで中に入っていて下さい」
「ああ、分かった。そうだ修平、ちゃんとカメラ持ってきたか?」
「ええ、もちろんです」
「これでまた1枚増えるな」
「何がですか?」
「俺と七葉が、恋人だという証拠がだよ」
「恥ずかしげもなく、良くその様な事が言えますね」
「何言ってんだ、お前が言い出した事だじゃねーか」
「そうでしたっけ」
「ああ」
…………今、ここに居る。
完




