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90 自分の気持ち

 一晩経ったら気持ちの整理がつくかもしれない。

 昨日、抱いたのは一時的な感情だったのだと。


 そう期待していたのに……人の心はどうしてこんなにも制御が難しいのか。

 何度否定しても、どんなに押し殺そうとしても消えてはくれない感情は、祀莉の心の片隅にひっそりと存在していた。






 いつもながら、ぽけ〜っとしている間に朝の支度は終わっていた。

 昨晩はよく眠れなかったので余計に覚醒が遅れて、ほとんど使用人任せになっていた。


 そろそろ要が迎えにくる時間だ……と、時計を確認しながら自室にある鞄を取りに行く。



(要はわたくしを迎えにくるのでしょうか……)


 そんな考えが頭を過った。

 昨日はあれから祀莉だけではなく、要の方もあきらかにおかしかった。

 春江がいたからまだ間を持たせることができたものの、要と2人きりになると途端に静かになる。

 いつものことではあるが、その時はどうにも耐えられなかった。



(要も自分の気持ちに違和感を持ったのかもしれませんし…………あら?)


 持ち上げた鞄が、普段よりも重く感じたので不思議に思って中を覗いてみる。


(あ! 昨日、買った本が入りっぱなしでした!)


 さすがにこんなには持っていけないので慌てて取り出す。

 すぐにでも読みたかったはずなのに、昨日はそんな気分にはなれなかった。

 というより、完全に忘れていた。

 それほどまでに祀莉の頭の中は要のことでいっぱいだったのだ。





「祀莉。要君がいらっしゃったみたいよ」

「は、はは、はいぃっ! 今いきますっ」


 ひとまず引き出しの中に本を詰めると、背後から母親の落ち着いた声が聞こえた。

 部屋の前で穏やかに微笑んでいたが、祀莉の慌てっぷりに首を傾げた。


「どうかしました? 要君を待たせては迷惑ですよ」

「……っ、はい」


 要の名前を聞いただけで動揺してしまう。

 こんな現象が前にもあったような……。


(──そうです! 校外学習の後にもこんな風におかしくなって……!)


 また熱のせいで変な方向に感情が暴走しているのではないか、いや、そうに違いない。





「お母さま! わたくし、熱があるかもしれません!!」

「はい?」


 突然の祀莉の主張に、母親は近づきそっと額に手をあてる。


「う〜ん……ないわね」

「そ、そんなはずは……」


 以前のように何のかの感情と勘違いしているのではと、そう疑ったが当てが外れた。

 母親にきっぱりと否定されて肩を落とした。


「祀莉、あなたもしかして要君に会いたくないだけでは?」

「……っ!」


 ドキッとした。

 自分では気づかなかったが、そう言われると……図星かもしれない。

 何かと理由を付けて要と会うことを避けようとしている。



 娘の反応を見た母親はやっぱり……というようにため息を吐いた。


「チョコレートが用意できなかったからって、気にしすぎですよ?」

「……え?」

「だから百貨店に行っておけば良かったのに……。思っていたものが買えなかったのでしょう?」

「ぅ……あぅ……、……」


 母親は勘違いしてるようだ。

 祀莉が今日のためのチョコレートを買えずに落ち込んでいる……と。




 目的のものはちゃんとゲットできたとは言えず、下を向いて押し黙る。

 何も言わない祀莉に、母親は「仕方がないですね……」と言って微笑んだ。

 体の後ろに隠していた手を祀莉に向かって差し出す。

 それは深緑色の箱に黄色いリボンがついている箱だった。


「これは……」

「旅行先で買ったチョコレートです。今年は一緒に選ぶ時間がありませんでしたしね。わたくしが勝手に決めてしまったわ」

「……」

「今年は自分でなんとかするかしらと思ってたのだけれど……残念だったわね。大丈夫。また来年、自分で選びなさい」


 落ち込む娘を慰めるように、ふわりと笑ってみせた。


(来年……)


 来年なんてあるのだろうか……。

 虚ろな瞳で受け取ったチョコレートの箱を見つめた。






「ほら、いってらっしゃい」

「ぅ、はい……っ」


 明るい調子でぽんっと背中を押して娘を送り出す。

 本当に渡してもいいのだろうか……。

 不安になりながらも階段を下りた。



 玄関には使用人に出迎えられている要がいた。

 最近は車の中で待っていることが多いのに珍しい……。


「おはようございます、要」

「……」


 気まずい空気が流れる中、要の視線は祀莉が持っている箱に注がれていた。

 言わずもがな、母親に持たされたチョコレートの箱である。

 同じく箱に気づいた使用人は、温かい眼差しで見つめながら下がっていた。



「……あの、これ……どうぞ」

「あ、あぁ……」


 ここまで持ってきて渡さないというのも変な話である。

 意を決して差し出す。

 要は一瞬、戸惑う表情を見せてから箱を受け取った。


(やっぱり、困りますよね……)



 要の心が揺れている時にこんな真似をして……。

 祀莉もこんな風に要にものを渡すのは初めてのことで、どうして良いか分からず──


「お、お母さまからの……その、おみやげです!」



 つい誤摩化してしまった。


 間違ってはいない。

 間違ってはいないが……。

 やってしまったー……と後悔していると、後ろから母親の「祀莉! 違うでしょ!」という声が耳に届いた。

 萎縮している祀莉を押し退けて母親が要の前に出た。



「要君、ごめんなさいね。祀莉ったら照れちゃって……」

「……いえ」



 困ったように頬に手を当てながら祀莉をフォローする母親に、要は短く返事をした。


「とにかく! これは祀莉から要君へのバレンタインチョコなんですからね!」

「はい……ありがとうございます」

「あ、でも学校に持って行くのは良くないわね。後で届けておくわ!」

「え……」


 母親は要の手の中からするりとチョコを奪っていった。

 そして軽やかな足取りで玄関をくぐって中に入っていく。

 祀莉と要はそれを呆然と見送った。





(後で届けるって……。なら最初からそうしてくださいよ!!)


 祀莉は心の底で叫んだ。

 どうして、わざわざ自分に持たせたのか。

 無駄に恥ずかしい思いをしただけではないか。




「ほらほら、早くしないと遅刻しますよ〜」


 家の中から聞こえる天真爛漫な声にはっとして要は腕時計を確認した。

 みるみるうちに表情に焦りが広がっていく。


「まずいぞ、急げ」

「え……っ」


 祀莉の手を引いて車の方へと駆け出す。

 どうやら思っていた以上に時間が迫っていたらしい。

 今日、会ったらギクシャクしてしまうのではないかと心配していたが、それどころではなくなっていた。

 初めはぎこちない態度を取ってしまったが、母親の登場で空気がほぐれた。



(ちょっと……気分が楽になりました)


 母親の行動にそんな意図はないのだろうが今回ばかりは感謝した。


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