80 帰らなくても良いんだぞ?
新学期が始まって一ヶ月が過ぎた。
海外へ行っていた両親と使用人たちがもうすぐ帰国するので、祀莉は自宅に帰るための準備を始めた。
要のマンションでお世話になると知った時は、あんなにも早く帰りたいと思っていたのに、今ではここを出るのが名残惜しく感じる。
このマンションは祀莉にとってこれ以上ないほどに快適な環境だった。
ショッピングモールに近いという何よりも素晴らしい立地条件!
ここに住んでいる要が羨ましい。
(いずれにせよ、いつかは帰らないといけないですし……読書なら四方館でもできますしね!)
よくしてくれた春江にはとても感謝しているが、ずっとお世話になるわけにもいかない。
数日後には自宅に帰りますと報告すると、残念そうに肩を落としていた。
また改めてお礼の品を持って挨拶に来ようと思う。
(さてさて。ん〜〜〜、どうしましょうか……)
旅行鞄と荷物を前に、祀莉は悩んでいた。
原因は……冬休み中に増えた数十冊の本。
どう考えても一度で持ち帰るのは無理そうだ。
(随分買ってしまいましたからねぇ)
課題を早く終わらせたおかげで、読書をする時間はたっぷり確保できた。
四方館から持ってきた本はすぐに読み終わってしまい、新しい本が欲しくなりショッピングモールへと赴く。
要も一緒に行くことを条件に許可してくれるので、本が読み終わるたびに通った。
それに購入した荷物を持ってくれるので、ついつい買ってしまったのだ。
四方館に持っていくにしても、一度家に持ち帰らなくてはならない。
(どうやってわたくしの部屋まで持って帰りましょうか……)
荷物と一緒に旅行鞄の中に入れておくと、いつものくせで使用人に渡してしまいそうだ。
受け取った使用人は中の荷物を整理するために鞄を開けるだろう。
見られてしまっては元も子もない。
絶対に阻止しなくては。
(はぁ……どうして授業が始まってから、少しずつ四方館に運ばなかったんでしょう……)
両親が帰ってきたら当然、自宅に帰らなくてはならない。
考えればわかることなのにすっかり頭から抜け出ていた。
帰国するまであと数日。
それでは間に合わない。
(どうにか良い方法はないでしょうか……?)
「なんだよ、まだ終わってないのか?」
「要!」
声のした方へ振り向くと要が部屋を覗き込んでいた。
「もうすぐ夕飯だから春江が声を掛けてきてくれって。早く片付けてしまえよ」
「うぅ……だって」
荷物をまとめてしまいたいのは山々だ。
しかし……と再び衣類と一緒に並べられた本を凝視する。
まだ片付けが済んでいない部屋を見回した要は、祀莉の様子と側に置いてある本の山を見て察した。
「あぁ、ショッピングモールで買ってた本か。なんだよ、そんなことで悩んでたのか?」
「そんなことって……! わたくしにとってはとても重要な──」
「本なら奥の書庫に置いて構わないぞ。鍵がかかっているから誰も入らねぇし」
「ほ、本当ですかっ!」
立ち上がって要に詰め寄った。
本を書庫に置いても構わない!?
それが本当ならとても助かる。
「あぁ、構わない」
「ありがとうございます!」
要の良心的な提案で、今までさんざん苦心していた気持ちが一気に晴れた。
行き場に困っていた本さえどうにかなれば、すぐに荷物はまとめられる。
一番の悩みがなくなったことで、祀莉の作業ペースは格段に上がった。
旅行鞄に衣類や自宅から持ってきたものを詰め込んで完了。
あとは……
(この本の山を書庫に移せばOKですね!)
よいしょ、とかけ声を出して積まれた本を持ち上げた。
「ぅわっ……と」
一度に持ち上げようとした本の数が多く、積み方も悪かったのか、本がぐらぐらと不安定に揺れた。
重くはないが落としそうになって焦った。
一番上に乗っている本が前に落ちそうになっていたので、祀莉は体を反らしながらバランスをとって、後ろへ後退していった。
「わ、とっ、と……あっ」
とん、と背中が何かにぶつかった。
と思ったら両サイドから手が伸びて、一番上の本を祀莉の方へと寄せた。
「何してんだ」
「……すみません」
見かねた要が後ろから包み込むようにして本を支えてくれていた。
その状態のまま、不揃いに積まれている本を真っ直ぐになるように揃えてくれる。
(ありがたいんですけど、この体勢は……!)
背中が要の体に触れそうなくらいに近い。
後ろから抱きしめられているような感覚に、変に意識してドキドキしてしまう。
「も、もう大丈夫です! 助かりました!」
早くこの体勢から脱したくて、お礼を言って離れようとした。
しかし本に添えられていた手が、今度は祀莉のお腹へと移動した。
「ひゃ……っ! か、かか、要!?」
そのままぐいっと後ろへ引き寄せられて、背中が要にぴったりとくっついた。
驚いて体をひねろうとしたが、手が本でふさがっているので、大きく身動きがとれない。
「あ、あのっ」
「帰らなくても良いんだぞ?」
耳元で囁かれて、さらに心臓が跳ねた。
鼓動が聞こえてしまうんじゃないかというくらい、大きく鳴り響いている。
「な、え……っ、帰らなくてもって……え?」
突然言われた言葉と後ろから抱きしめられている体勢に、頭が混乱して何が何だか思考が追いつかない。
(なんですか〜〜〜っ!)
もう心臓がもたない!という時、リビングの方から「ご飯ですよ〜」と春江の声が聞こえた。
ここでようやく要の手が離れた。
祀莉は体を離し、素早い動きで部屋の隅に移動した。
抱えていた本を盾にするように体の前に構えて、要を見上げる。
「わ、わたくしは帰りますよ……!」
「あっそ。……春江が呼んでるぞ?」
激しく動揺している祀莉とは反対に、要は落ち着き払っていた。
素っ気なく応えたが、口元は薄く笑っていた。
「やっと俺のことを意識し始めたな?」
「な……っ」
いつもの意地悪そうな笑みではなく、どこか嬉しそうな……そんな微笑み。
その表情と言葉の意味を理解して、一気に顔中に熱が広がった。
無関心だった頃は抱きしめられてもこんなに動揺することはなかった。
何をされるのかという恐怖や、恥ずかしさでドキドキはしていた——が、今感じているドキドキはそれとは別物であることは嫌でも理解できた。
(どうして、わたくし……っ)
赤くなっている顔と、自分でもどうなっているのか分からない表情を隠すようにうつむいた。
今、要に顔を見られたくない。
「要様〜。祀莉お嬢様〜。お食事が冷めてしまいますよ〜?」
再び春江の声が廊下に響く。
リビングの扉から2人を呼んでいる。
このままではこっちに呼びにきそうだ。
祀莉の手元にある本を見られるのは非常に困る。
こんな状況だというのに、そう思うだけの理性はまだ存在していた。
「要、先に行って下さい」
「……分かった。その本を置いてすぐに来いよ。書庫は後で開けてやるから」
「…………はい」
要が部屋から出ていってからしばらくして、祀莉は持っていた本をそっと床へ降ろした。
力が抜けたようにその場に腰を下ろす。
胸に手を当てながら深呼吸して、まだドキドキしている心臓を落ち着かせた。
(びっくりました……)
要の行動が読めない。
最近、桜と親しくしているように見えたから油断していた。
もう自分のことなど興味がなくなってきているのかも……と思っていたのに。
(もう……! 本当にわけが分かりません……っ!)




