69 婚約を解消しようってんじゃないだろうな?
朦朧とした意識の中で感じる温もりと、歩調に合わせて伝わってくる振動。
重い目を開けて目線を上げると、見知った顔があった。
(要……?)
祀莉をしっかりと横抱きにして要は歩いていた。
パーティーに出席するために髪は整えられているが、鋭い目つきは変わらない。
眠りの淵で漂っている祀莉は、しばらく体重を預けてぼーっとしていた。
それでも少しずつ、状況を把握しようと頭を働かせた。
(どうして要が……? わたくしは何を……)
要と自分の格好を見て、だんだんと頭が冴えてきた。
(そうです! わたくし……パーティー会場で眠くなって……)
不覚にもそのまま眠ってしまったんだろう。
今の状況からして間違いない。
(——やってしまいました……)
家の名前に恥を塗らないようにと精一杯心掛けていたつもりだったが、どうにもそれは無理のようだった。
これからどんな噂が流れるのだろうか。
今までも祀莉に関して良くない噂があったが、それを上塗りするほどの失態エピソードが出回るかと思うと、恥ずかしくて人前に出られない。
どうしましょう……と心の中で呟き、両手で顔を覆った。
「起きたのか」
「……」
運んでいた要が、顔を隠している祀莉を覗き込むようにして声を掛けた。
祀莉をが目を覚ましたと分かっても、歩を緩めることなく歩きつづけている。
要は少し進んだ部屋の前で一度立ち止まり、扉を開けて中に入った。
(会場の控え室でしょうか……?)
下ろされたベッドに腰掛けながら部屋の様子を窺う。
灯りの少ない薄暗い部屋。
カーテンは開かれたままで、窓の外の明るさが際立って美しく見えた。
宝石をちりばめたような都会の夜景はとても綺麗だった。
「あの……どうして要はパーティーに? わたくし、何も言ってなかったのですけど……」
「ああん?」
(ひぅ……っ)
なぜ会場にいたのか訊ねると、眉間に深いしわを寄せて睨みつけられた。
見下ろされているので、さらに威圧感が増している。
祀莉は罰が悪そうに体を小さくし、己を守るように両手を胸の前に出した。
「お前のところの使用人に聞いたんだよ。織部のパーティーに招待されたって」
祀莉に会いに行ったら「お嬢様は先にパーティーに行かれましたよ」と告げられたらしい。
要は後から行くものだと思い込んでいた使用人と、何も知らずに西園寺邸に訪れた要。
最初は話がなかなか噛み合ず、お互い困惑していた。
使用人の話をやっと理解できた要は、祀莉の後を追うように会場へと向かった。
しかし問題が。
要は招待状を持っていなかった。
北条の名前を使ってパーティーに出席したいと言ったら、諒華の父親に二つ返事でOKしてもらえた。
そのかわり「私の方からみんなに紹介させてくれ」と言ってきたそうだ。
北条家の人間が自分のパーティーに来てくれたのだと、出席者に自慢したかったのだろう。
それくらいは仕方がないと、要は舞台に立って紹介を受けていたというわけだった。
(諒華の小父さま、すごく満足そうでした……)
祀莉が出席すると聞いて同じように紹介したいと言っていたが、それは諒華がどうにか説得してくれた。
自分があそこに立つなんて到底無理だ。
もしそんなことになったら、出席自体を丁重にお断りしていただろう。
(堂々としていた要はすごいです……)
「——祀莉、聞いてるのか?」
「は、はい! えっと……何でしょう?」
「パーティーのこと、なんで俺に何も言わなかった?」
「なんでって……その、要は忙しそうにしてましたし……」
初めから要のことなんて誘う気がなかったと言ったら、もっと怒られるだろうなと体で感じていたので、敢えて忙しい要に気を遣ったと言い訳した。
諒華が紛らわしい言い方をしなければ、とりあえずは誘っていたかもしれないが。
(どちらにせよ断られていた……というか“行くな”と反対されていたと思うのですけど……)
祀莉が出席したら自分も出席しないと体裁が悪い。
何かと忙しい要は祀莉の意志など無視して、参加の方を辞めさせられただろう。
(あ、それですごく怒ってたんですね!)
「声をかけなかったことについては謝ります……。でも、わたくしは諒華とパーティーに参加したかったんです!」
「だから何で俺を呼ばないんだ? 俺が忙しくしていたのは昨日までだって分かるだろ?」
「え? 今日と明日は忙しくないんですか? だって誕生日……」
「そうだ。そのために俺は色々と準備をして……だというのにお前は黙ってパーティーに出席して、得体の知れない野郎に手を出されそうになって。まったく何を考えてんだ……」
イラついた声を発しながら、少しずつ祀莉との距離をつめる。
桜の誕生日の準備を邪魔しないように気遣ったのに、どうして自分が責められているのだろう……。
「得体の知れないって……。知り合いの方をそんな風にいうのはどうかと……」
「は? 知り合い? 俺があの男とってことか?」
「え、違うんですか? でもあの方は要と知り合いだって」
「そんなの嘘に決まってるだろう? なんでそうすぐに他人のいうことを信じるんだ。それに——……ん?」
話の途中で要が眉を寄せて怪訝な顔をした。
腰を曲げて祀莉の顔を覗き込み、片手をベッドに乗せて更に顔を近づけた。
「……お前、酒を飲んだだろ」
「え? いえ……飲んでませんけど?」
「嘘つけ。アルコールの匂いがするぞ」
「そ、そんなはずありません……! あの、ち、近いですっ!」
「うるさい。どうせジュースと間違えて飲んだんだろ。においで分かる、酒臭ぇ……」
要の顔は鼻同士がくっつきそうなほど近くまで迫っていた。
さらりと告げる要から逃げるように顔を引き、口元を両手でおさえる。
(女性の息を嗅ぐなんて、なんてデリカシーのない!!)
要の行動に動揺して逃げようと体を後退しようとするも、ドレスに足を引っ掛けて叶わなかった。
そのまま勢い余ってベッドに仰向けに倒れてしまった。
慌てて体を起こして今度は裾を踏まないようにじりじりと後ずさる。
「もう! 近付かないで下さいっ!」
「別に良いだろ。婚約者なんだから」
「よ、良くないです!! ありえません! いくらまだ婚約者だからって!」
「はぁ? まだ……?」
要の眼光が鋭くなった。
ぐんっと低くなった声には怒りがこもっている。
祀莉が下がった分、要がベッドに上がって追いつめるように迫ってきた。
「まさかお前、俺と婚約を解消しようってんじゃないだろうな?」
「そ、そうですけど……——い、痛っ」
肯定の言葉を耳にした瞬間、要は祀莉をベッドに縫い付けるように押し倒した。
逃がさないとばかりに、肩を押さえつける手に力がこめられている。
覆い被さるように見下ろす要の顔が、今までになく恐ろしくて直視できない。
「本気で言ってるのか? 俺との婚約を解消しようだなんて」
「だって、だって……」
「そんなに貴矢が——」
「だって! 要は桜さんが好きなんでしょう!?」
「………………は?」
間の抜けた要の声が耳に届いた。




