鈴原桜
鈴原桜は前世の記憶がある────わけではなかった。
しかし、自分がとある小説の登場人物であるということは、概ね理解していた。
記憶ではなく知識として、物語の内容や登場人物の情報を知っている程度。
祀莉と要を見た時、名前を聞いた時、2人のやりとりを見た時──。
その度に頭の中に情報が溢れ出て、これはどういうことかと戸惑った。
(……ここって小説の世界なの? 本当にっ!?)
一番驚いたことは、自分が他人事のように読んでいた小説の当事者になっていたということ。
しかもヒロインである。
自分は転生したのだろうか?
──にしては、前世の記憶がない。
与えられているのは小説の内容と、それを読んでいたという記憶。
だが、その内容と現状は一致していない。
複数の相違点が存在し、自分の記憶違いか?と首を傾げる場面が多々ある。
その中でも絶対違うと言い切れるのは、秋堂貴矢のクラスだった。
彼は中等部ではAクラスだったが、生活態度が悪く(特に女子生徒との問題で)、高等部ではBクラスに落とされることが確定していた。
それがなぜかAクラスのままだった。
そのせいで席順が一つずつ後ろにずれて、桜は祀莉と遠く離れてしまった。
(あれはショックだったなぁ……。祀莉を真後ろから観察したかったのに)
本来ならば祀莉の後ろに桜、その隣に要というベストポジションだった。
チラチラと要を気にする祀莉を見てニヤニヤできたはずなのに。
今のままでも後ろから気にするような視線を感じるが、何か違う気がする。
(隣からの貴矢の視線もうざい……)
本来、貴矢と仲良くしていた間宮香澄が、後を追うようにBクラスに申請し、高等部でBクラス落ちするのはこの2人だった。
好きな男と一緒のクラスで過ごしたいのは至極当然のこと。
——だったのだが、要によってクラスを落とされた花園百合亜と入れ替わるように、貴矢がAクラスに舞い戻ってしまった。
間宮香澄は何がなんだか分からなかっただろう。
残されたのはBクラスに落ちたという不名誉。
家族の反対を押し切ってまでクラス落ちを希望したのに、意味もなく終わってしまった。
そのショックで彼女は不登校になった。
(そもそも、花園百合亜が高等部に進学するっていうのがおかしかったんだよね……)
本来なら花園百合亜は中等部で祀莉に完膚なきまでに打ちのめされて、学園を追い出されていた。
祀莉をメインにした番外編で復讐を企てるエピソードがあり、百合亜はそこでその時の恨みつらみを語っている。
祀莉が別の中学に行ってしまったことで、彼女は学園を追い出されるのではなく、クラス落ちという形で学園に残った。
2人ともがそれぞれにショックを受けていただろう。
そんな折に、自分たちの想い人が他の女と一緒にいる場面を目撃して感情が爆発した。
はらわたが煮えくり返るほど恨みを感じていたに違いない。
その2人が結託して仕掛けてきたのである。
***
「油断したなぁ……」
体育館棟の第4倉庫に、桜は閉じ込められてしまった。
地面に打ち付けたお尻を撫でながらスカートについた土埃を払い、ぽつりと呟く。
桜を閉じ込めた2人は他の生徒との接触を避るため、カウンセリング登校していると聞いていた。
だから校内で会うこともないと思っていた。
(でも、倉庫に閉じ込められるのは変わらないんだ……)
小説内では靴箱の中に見るからに罠の手紙が入っていた。
よせば良いのに逃げるのが嫌いなヒロインは、その呼び出しに応じてまんまと倉庫に閉じ込められる。
その日が球技大会が行われる今日。
朝、その手紙が入っていないことを確認して、このイベントは起きないと高を括っていた。
手紙があったら破り捨ててやろうと思ったが、そんなものは存在せず、桜は警戒心を解いた。
——それが間違いだった。
試合の休憩時間にお手洗いをすませて、体育館棟に戻ろうとした時だ。
見覚えがあるような、ないような女子生徒に呼び止められたのだ。
自分に対する暴言がはじまった時に、とっとと逃げ出すべきだったなと今更に後悔した。
知り合いのように話しかけられたので、顔を忘れているだけで何かで関わったのではないかと、思い出すのに時間をかけてしまった。
(まさか間宮香澄と花園百合亜だったなんて……。しかも2人掛かり……)
とりあえず、このピンチな状況から脱しなければ。
助けを呼ぶか、自力で脱出するか……。
すると、鍵をかけられていたはずの扉が開き、祀莉が放り込まれるように入ってきた。
(えぇ……っ!?)
ニヤリと笑う間宮香澄と、対照的に一切の笑みを表情からかき消した花園百合亜が見えて、再び扉は閉ざされた。
一瞬の出来事だったので、その隙に逃げ出すなんてできなかった。
祀莉は閉じられた扉に手を添えて、不安な顔をしていた。
八つ当たりというには悪意のこもった言葉を、これでもとぶつけられた桜と違って、突然ここへ連れてこられたのだろう。
「祀莉ちゃんっ!? どうして……っ」
「桜さんっ!」
どうして祀莉までもと事情を訊こうとしたが、「すみません……っ」と泣き出してしまった。
(あぁ、可愛い顔が涙でさらに可愛く……——っじゃなくてっ!)
慌てて駆け寄って、大きな瞳からぽろぽろと零れ出てくる涙をそっと拭う。
安心させるように微笑んでみせたが、うまくできただろうか。
「大丈夫。私がなんとかして、ここから出してあげるから──」
桜の笑顔につられるように祀莉も笑みを見せた。
だって、あなたは……──
***
物語の上では閉じ込められるのは桜1人。
助けにくるのは試合に早々に負けたBクラスの貴矢。
しかしその貴矢はAクラスになっており、今は勝ち進んでいると祀莉は言っていた。
(じゃあ、誰が私たちを助けてくれるのよ!?)
涙を流す祀莉を安心させるために「大丈夫」とは言ったが、正直どうすることもできなくて困っていた。
戻ってこない自分たちを、そのうち誰かが気づいてくれるだろうと楽観的に考えていた。
それまでの我慢だ──と。
が、今はそんなことを言ってられない状況だった。
照りつける太陽の光が窓から入り込み、倉庫内の温度は上昇していた。
暑さに強い桜はまだ平気だったが、お嬢様育ちの祀莉にはこの環境は酷だったようだ。
突然、体がぐらついたと思ったらマットの上に倒れていた。
(熱中症!? 体が熱い! 汗もこんなに……っ)
祀莉がぼんやりしているのはいつものことなので、倒れるまで気づけなかった。
呼吸が荒く、マットの上でぐったりしている祀莉の様子を見て桜は危機を感じていた。
明るいところにと思って配置していたマットを引きづって、祀莉ごと日陰に移動させる。
すこしでも楽になるかと、祀莉の上着とリボンを取って胸元のボタンを開けたが、効果があるとは思えない。
(これ以上はどうすることも……。──はやくここから出ないと!)
──もう待ってられない。
倉庫の入り口に駆け寄った。
「誰かっ! 助けてっ! ここから出して!!」
近くに誰かがいれば、内側から扉を叩く音に気づいてくれるはず。
桜は力の限り扉を叩き、何度も大声で叫んだ。
「お願いっ! 助けて……」
のどの渇きが助けを叫ぶ声を掠れさせていく。
うだる暑さで頭がぼうっとしてきた。
このままでは自分も倒れてしまう。
(ダメ……私が、なんとかしなくちゃ……)
頭をよぎるのはヘラヘラと笑う大嫌いな男。
女好きで不真面目で、調子の良いことばかり言う彼が好きにはなれない。
でも、この状況で来てくれたのなら……少しくらい格好いいと思ってやる。
──だから
「助けてよ……────貴矢っ」




