45 名前で呼び合いませんか?
「鈴原……さん?」
「あっ、失礼しました!」
目の前に現れた人物の名前を呼ぶ。
貴矢を睨みつけていた桜が顔を上げ、祀莉と目が合うと恥ずかしそうに姿勢を正してにこりと笑った。
「大丈夫ですか? 西園寺さん」
「はい。わたくしは……」
要に後ろから抱きしめられた格好で返事をする。
大丈夫じゃないのは目の間にいるこの男だろう。
「いや、痛いのは俺の方だから……」
本人もこう言っている。
が、痛む後頭部を涙目でさすっている貴矢を無視して桜は祀莉に近づいた。
パステルブルーで統一された、涼しい色のコーディネート。
高校生らしい服装だ。
普段は耳の下辺りで2つにくくられた髪は、今日は三つ編みになっていた。
「変なところとか触られてないですか? 足とか踏んで攻撃しないとダメですよ?」
「あ、はい……」
心配する桜だが、祀莉は生返事をしながら別のことを考えていた。
要のライバル、秋堂貴矢。
華皇院学園のAクラスに通う秋堂家の御曹司。
西園寺家の令嬢である自分が言うのもなんだが、どうして彼がこんなところにいるのだろうか。
しかも、桜と一緒にいた様子。
もしかして——
「もしかして……お2人はデートですかっ!?」
くわっと迫力を出して桜に問いかける。
要のデートの誘いは断っておいて、貴矢とはデートをするのか!?
(鈴原さんの中では秋堂君の方が優勢になっているという証拠ですよね……っ)
途端に広がる不安。
夏休みに入るまで、そんな風には見えなかった。
見えないように振る舞っていたのかもしれない。
——いやいや、そんなことよりも!
これは大変な事態だ。
(夏休み前の要のアピールが足りなかったから……!)
突然の祀莉の質問に桜は体の前で手を振りながら慌てて否定する。
「違いますっ。映画を観てただけなんです!」
「え……でも、それってデートですよね?」
「だから違うんですって……! 映画を見ようとしたら、突然後ろから手が伸びて『高校生2枚で』とか言い出すんですよ!」
「……」
どこかで体験したことがあるような話だ。
それはそれは驚いただろうに。
ちなみに桜たちが観た映画は、今話題になっているアニメ映画の方だった。
先ほど見終わって劇場内から出てきたらしい。
痛みから復活した貴矢が桜の横に並んでドヤ顔をしていた。
「今日はなんとなーくショッピングモールに来たんだ。そしたら偶然、桜を見つけてさ。これって運命だと思わねぇ?」
(思いませんっ! …………あれ?)
「秋堂君……今、鈴原さんのことを“桜”って……」
確かに呼んでいた。
聞き逃してしまいそうになるほど、さらりと。ナチュラルに。
祀莉の質問にきょとんとする貴矢。
「え? それがどうかしたの? 桜だって、俺のこと“貴矢”って呼ぶよな?」
「そ……それは、その……」
反論しようとして口ごもる桜。
きっぱり否定しないということは、桜もが貴矢を名前で呼んでいるということだろう。
デートだけではなく、名前の呼び方も貴矢の方がリードしていた。
リードどころかかなりの差が開いている。
(これはまずいです! ここで少しでも差を埋めておかなくては……!)
「鈴原さん!」
「はい?」
「よろしければ名前で呼び合いませんか? ね、要!」
すかさず要に振る。
貴矢に色々と先を越されてショックなのか、先ほどから一言も発していない。
これはチャンスですよ!と、お腹に回っている手をとんとんと叩く。
「あ、あぁ……。良いんじゃないか?」
要の了解も得た。
祀莉はキランっと目を光らせた。
「ね。要もそう言っていますし、ぜひ!」
「分かりました。でも良いのかなぁ……。名前で呼べるのは嬉しいんだけど……」
何を恥ずかしがることがある。
いや、それもなかなか良いシチュエーションだ。
もじもじしながら、緊張した声で「要……くん」なんて呼ばれたら、要もきっとトキメキに心躍らせるだろう。
無表情を保ったまま、心の中では悶絶しているに違いない。
(わたくしも同じような心境ですけど!)
「では、さっそく呼んでみてください!」
「え……、今ですか!?」
「はい!」
さあ、言ってごらんなさい。
可愛らしく!上目遣いで!恥ずかしそうに!
1回とは言わず、何度でも。
「ちょっとだけ待ってくださいね……。心の準備が……」
心の準備だなんて、可愛いことを言う。
貴矢の時はどうだったんだろう。
——そういえば、貴矢は祀莉の行動を止めようとしない。
途中で邪魔が入ると思っていたのだが、要と同様、祀莉と桜の会話を聞いているだけだった。
(せっかくのリードを埋められそうになっているのに……。まだ余裕があるということでしょうか?)
じ……っと貴矢の方を見つめていると、祀莉の視線を感じて振り向いた貴矢と目が合った。
眼鏡がないのがどうにも違和感……。
彼にとって余計なことをしている祀莉に対して、にこっと笑ってみせた。
いつもながら胡散臭い微笑みだ。
「見つめてくれているところ悪いんだけどさ、祀莉ちゃん。要がすっごい睨んでる……」
「はい……?」
(要が睨んで……? ——あっ!)
これからとっておきのイベントがあるというのに、こんなところにいては邪魔になってしまう。
要と桜の間というこの場所を離れなければ。
(……ん?)
しかし、ここから移動しようにも、お腹に回された要の手が離れない限りそれは叶わない。
さっきから、桜と直接対峙するのが照れくさいのか、祀莉を盾にしているようだ。
背中がぴったりとくっつくほどにぎゅーっと引き寄せられている。
(緊張するからって、力を入れすぎですって! ていうか、離してくださいよ!!)
「——よし!」
目の前で桜が気合いを入れた。
(えっ、この状態でですか!?)
離してください、と言おうとする前に桜の準備は整ってしまった。
要の名前を呼ぶのに、2人の間に祀莉がいても良いのだろうか。
いや、ダメだろう。
自分はこのイベントには不要な人物だ。
願わくば、キラキラでラブラブなオーラを纏った空間の一歩外でうっとりと眺めていたい。
“ちょっとどいてくれる?”とでも言ってくれれば良いものを。
もしくは、2人揃って祀莉に見せつけようとしているのだろうか。
(目をそらすなってことでしょうか……?)
——お前ではなく、桜が好きなんだ……と、現実を突きつけるために。
(はいはい、分かってます。どんとこいです!)
こっちだってちゃんと心の準備ができている。
なんならヒステリックに「捨てないで〜」とでも喚いてやろうか。
真剣にそう考えていた中、桜の小さな唇から音が紡ぎ出される——
「祀莉……ちゃん」
………………はい?
「きゃー言っちゃったぁっ」
桜はほんのりと赤くなった頬に手を当てながら、恥ずかしそうに下を向いて首を振っていた。
まるで好きな人の名前を呼んでしまった恋する乙女だ。
期待していたリアクションではあったが、違う——。
色々と間違っている。
祀莉は、桜の口から出た名前が予想していた人物とは違うことに驚き戸惑っていた。
(え……? えぇっ!?)
なんで、なんで……
(要ではなく、わたくしの名前——!?)




