41 好きになっては、いけないんです
登校する生徒が増えてきたが、祀莉たちが向かっているのは人気のない場所。
強くはないがしっかりと掴まれている手は、祀莉の力では振りほどけそうにない。
どこに連れて行かれるのだろう……と不安に思いながら、祀莉は要の背中を追っていた。
(この先にあるのって四方館くらいですよね……?)
予想通り、校舎から渡り廊下を経てそのまま四方館の中に入った。
朝にこの建物に来るのは初めてだ。
放課後とは違う雰囲気に本当に同じ場所なのかと不安になる。
背後で音を立てながら扉が閉まった。
(どうして四方館へ……?)
照明をつけることもせず、部屋は暗いまま。
窓から入る光のみの薄暗いこの空間は、どうにも居心地が悪かった。
「……」
要はまだ無言のまま。
部屋の中央まで進んだところで、掴まれていた手が開放された。
沈黙の空気に耐えられず、祀莉はおずおずと要に声をかける。
「あの……要。わたくし、メールしましたよね?」
背中を向けて立ち止まったままの要が負のオーラを漂わせて振り返る。
(ヒィ……っ!)
普段以上につり上がっている目が祀莉を捉える。
威圧感のある表情で高い位置から見下ろされ、ビクッと体が震えた。
(なんで怒ってるんですかっ!?)
その表情のまま1歩、また1歩と要は祀莉に近づいている。
元々近い距離がどんどんと詰められていく。
(え、えええぇっ……!)
持っていた鞄を胸元で抱きしめながら、適度な距離を保とうと祀莉は後退する。
震える足を一生懸命、後ろへ動かす。
当然ここは部屋の中で、後ろに下がるには限界がある。
何かが足に当たったと思ったら、要に正面からトンッと軽く肩を押された。
「え……、きゃあっ!?」
ボスンッと音を立てて、柔らかい感触が祀莉の体を受けとめた。
要に追いつめられていた祀莉は気づかなかったが、後退していく先にはソファーが置いてあった。
ソファーの肘掛けに足をとられ、バランスを崩して倒れそうになっているところを、さらに要の一押しで仰向けに倒れ込んだのだ。
(びっくりさせないでくださいよぅ……)
祀莉は今、長い3人掛けのソファーに寝転がっている状態だった。
起き上がる前に要が覆い被さるように上から覗き込む。
「メールって——」
そう言いながら、左手を祀莉の顔の横に置いて逃げ場をなくす。
もう片方の手をズボンのポケットに入れて携帯を取り出した。
(ち、ちち、近いです……っ!)
逃げることができなくなり、鞄をさらにギュッと抱え込む。
「——これのことか?」
目の前に差し出されたのは、スマートフォンのメール画面。
そこには、『しばらく距離を置きましょう。今日は家の車で学校に行きます。』の文字が並んでいた。
祀莉が朝に送ったものだ。
「どういうことだ? 距離を置くだなんて、一体どうしたんだ?」
「えっ……と」
どういうことも何も文字通りなのだが、それ以上にどう説明しろと?
要はもっと桜と一緒にいたいだろうし、祀莉は祀莉で要恐怖症を少しずつ解消していきたいと思っている。
それをどう伝えようかと悩みながら、とりあえずそれらしい言葉を口にする。
「要にはわたくしが邪魔だと思いまして……」
「一昨日のことは気にするな。熱があって気が動転してたんだろう?」
「え……?」
「朝からおかしいと思ってたんだ。織部と鈴原も気づいて俺に相談してきたし……」
「熱……おかしい……」
(っ! ——そうですか! 熱があったから体が変だったんですね!)
祀莉は体が丈夫なわけではないが、熱を出して寝込むなんてことはあまりなかった。
でもそれは激しい遊びや旅行も碌に行ったことがないから、体が激しく疲れることがなかっただけ。
今回のように急な環境の変化でストレスが溜まって、ぶっ倒れるなんて初めてのことだった。
経験したことがない感覚に戸惑って、変に勘違いしていたようだ。
現に、今は要と向き合っていても平気だった。
よくわからないドキドキはあるが、恐怖ではない。
要恐怖症の再発ではなかったようだ。
(なんだ……そうだったんですね)
ぐるぐると考えている中で、“もしかして、わたくしは要のこと……”なんて一瞬思ったりもしたが、それはただの熱のせい。
第一、要は桜と結ばれるんだ。
今更そんな感情が芽生えても意味がない。
(大丈夫です。わたくしは要のことを好きにはなりません……)
——好きになっては、いけないんです。
「——俺は……一緒にいたい」
「……え?」
祀莉が自己完結したところで要がぼそっと呟いた。
ソファの影で要の表情がはっきりと見えない。
「お前と一緒にいないと、俺はその……不安で……」
「要……?」
だんだんと小さくなっていく声に一生懸命耳を傾ける。
数ヶ月前、ケーキの話をしていた時と一緒だ。
照れているように見えるが、如何せん表情が確認できない。
しかし、祀莉は要の言いたいことを確信した。
(——わたくしを見張っておかないと、不安だと言いたいんですね!)
以前、桜に対して色々やらかしてしまったから、更に要の警戒が強まったんだろう。
祀莉にその気はないのだが過去の過ちは消えない。
もう桜に手出しはしない、大丈夫だと言っても信じてもらえないだろう。
ならば要の納得のいく形で事をおさめよう。
「分かりました。今朝の言葉は取り消します。要が一緒にいたいならそれで良いです」
「——そうか。良かった……」
ほっとしたように、要の体から力が抜けたのを感じた。
仲違いをしていたわけではないが、仲直りできたような気持ちだ。
同じクラスなのにギクシャクするのはお互い疲れるから、これで良かったと思う。
さて、そろそろ教室に行かないと遅刻になってしまう。
早めに登校したとはいえ、時間は経っているはずだ。
「…………」
「…………」
(……んん? 退いてはくれないんでしょうか?)
いや、それどころかだんだんと顔が近づいてきているような……。
表情が見えないから、いったいどういった了見で顔を近づけているのか分からない。
要が落とす影で視界がまったく見えない状況に動揺する。
(え? ……えぇっ!?)
思わずギュッと目を閉じる。
要の長い前髪が目蓋に触れるのを感じて祀莉は心の中で叫んだ。
(な、なにが起こってるんですかああぁーーーー!!)
——あと数センチ。
唇が触れそうな距離で予鈴が鳴った。
鼻先が触れるか触れないかという所まで要の顔は迫っていた。
そろ……と閉じていた目を開けたが、視界はうす暗い。
部屋に響く音が鳴り止んでも、要は距離を保ったままだった。
(顔! 要の顔が……っ!)
少しでも顔を浮かせればキスしてしまいそうな近さに、頭の中がパニックになる。
この体勢をどうにかしなければと、震える唇で訴えかけた。
「ああ、あの……要! よ、予鈴が……っ」
「——チッ」
舌打ちとともにのしかかっていた体が離れた。
目の前に空間ができたことに胸を撫で下ろす。
ソファーの影から出て、見ることができた要の表情はとても不機嫌なものだった。
(うわあぁ……! 怒ってます!)
もしかして、今のは何かの八つ当たりだったんじゃ……。
きっとそうだ。
腹いせに頭突きでもしようとしていたに違いない。
だからゆっくりと顔の位置を調整していたんだ。
予鈴のおかげで痛い思いをしなくてすんだ。
(今、頭に衝撃を与えられたら、せっかく覚えた英単語が……。予鈴が鳴ってくれて良かったです……)
助けてくれた予鈴に感謝しつつ、ソファーから起き上がる。
「何してんだ? はやく行かないと遅刻だぞ」
「あ……はい」
乱れた髪と皺の寄ったスカートを整えていると、むすっとした声で急かされる。
イライラするくらいなら、先に行ってくれても構わないのだが……。
それでも一応、待ってくれているようなので、急いでソファーから立ち上がった。
(それにしても、びっくりしました……——)
まだドクドクと響いている鼓動を押さえつけるように、胸元の鞄を強く抱え込んだ。




