10 勘違いするなよ
講堂に行く前に、まず上履きに履き替えなければならない。
祀莉は要に手を引かれるままに昇降口を目指した。
「……さっきの、勘違いするなよ」
「え? あ、はい」
廊下を歩きながら要が念を押してきた。
仮にも自分の婚約者が来客用のスリッパで式に出たり、迷子になっていたなどと噂されては自分の価値が下がる。
お前のために付いてきたわけではない、勘違いするなと言いたいのだろう。
はいはいちゃんと分かってますよと心の中で返事する。
本来ならば校舎に入るために初めて踏み入れる場所——昇降口に辿り着き、学園によって用意されていた上靴に履き替えた。
もう用事はないからと桜のもとに戻るのかと思ったが、要はそのまま講堂までついてきた。
初めて踏み入れた校舎でも、さすがに講堂くらいなら1人で行ける。
人の波についていけば自ずとたどり着けるというのに、要は祀莉を信用していないらしい。
周りの生徒を睨んでいるのは威嚇の意味を込めてだろうか。
誰もあなたを敵に回そうとは思わないでしょうに……と祀莉は呆れていた。
いや、それとも桜と離れてしまったイライラをぶつけているのかもしれない。
さっきから何人かの男子生徒と目が合う。
それは仕方がない。
西園寺家の令嬢がいるから見てしまうのは当然だ。
だが、その全ての男子生徒が祀莉から視線を要の方に向けた後、みるみるうちに顔色が悪くなり、怯えるように逃げていってしまう。
(ただ見ていただけなのに、あんなに怯えて可哀想に……)
——西園寺家の令嬢を珍しがって見ていたら、隣にいる不機嫌な要のとばっちりをくらって逃げた。
そう解釈した祀莉は彼らに同情した。
入学式が行われる講堂は、まるでコンサートホールのようだった。
席の1つ1つが豪華で、ゆったりと座れるスペースがある。
想像以上の広さに圧倒される祀莉。
立ち止まってキョロキョロしていたら、また手を掴まれて歩かされた。
迷いなく進んでいく要は“お前の席はここだ”と名札のついた席を指さした。
かなり上質な素材を使っているのだろう。
座り心地はとても良い。
油断していると寝てしまいそうだ。
「俺が迎えにくるまでここを動くな。……絶対に」
腕を組んだ要が見下ろしながら言った。
(なぜ、“絶対”を強調するんですか……。あ、もしかして……)
これから彼は桜とともに代表者席で待機する。
つまり、彼は自分に邪魔されたくないと言っているのだ。
祀莉をここに拘束しておいて、桜との甘い時間を楽しく過ごそうとしているのだ。
噂をすれば、桜が入ってきた。
祀莉がいる場所よりも数列前、舞台に上がりやすいように端の席に座った。
そこが代表者の席なのだろう。
(もっと近くが良かったのに……)
ここからでは声が聞こえない。
辛うじて後ろ姿は見えるが、前に人が座ったら見えなくなるかもしれない。
照明が落とされればもっと難しくなるだろう。
仕方がない、この場では諦めよう。
さすがに式の最中に席を立っては迷惑だ。
さっきのツーショットで今日のところは我慢しよう。
あの距離の近さは絶妙だった。
(わたくしがいなかったら、いったいどんな風になっていたのでしょうか……)
次々と溢れ出てくる妄想に口元が緩む。
にやける顔を誤魔化すために、にこりと笑ってみせた。
「はい。いつまでも待ってます」
——わたくしのことは気にせずごゆっくり……
自分の席に向かおうとした要は足を止めて固まった。
「要……?」
「終わったらすぐに迎えにくるからな!」
(えっ、いや、だからゆっくりしてもらえれば良いんですけど!)
もしかして、今の笑顔はなにか企んでいる風に見えたのだろうか。
(そんなつもりは一切ないのですけど……)
むしろ大人しくここで待つつもりだったのに。
変に誤解されてしまった。
迂闊なことをしてしまった……と嘆息し、祀莉は椅子に体を沈めた。
新入生で席が埋められて行く中、祀莉の左側に女子生徒が立っていた。
「ごきげんよう、西園寺様」
色素の薄い髪を首の後ろでひとつに結んでいる。
青く透き通るような目の色とすっきりとした顔立ちの女の子に一瞬、見蕩れてしまった。
「ごきげんよう……えっと……」
——しまった。
隣に座るクラスメイトの名前くらい確認するべきだった。
今更確認しようにも、彼女の席の名札プレートは祀莉が座っている位置からは見えない。
それを察して女子生徒は自ら名乗り出た。
「失礼しました。わたくしは織部諒華と申します。諒華とお呼びください」
「西園寺祀莉です。わたくしのことは祀莉とお呼びください。よろしくお願いします、諒華様」
「こちらこそ。祀莉様」
挨拶を終えた諒華は優雅な仕草で腰掛けた。
「校門での騒ぎ、すごかったですわね。まさか入学初日であんな……」
自分の悪役令嬢っぷりがもう校内に広がっているのか。
どうせ、小学校の時みたいに要が色々と手を回すだろうから、この学園でも友達ができないことは分かっている。
どちらにしろ孤立してしまうのは変わらないから、どうせなら生徒たちに恐れておいてもらえば良い。
きっと彼女もそのことについて、祀莉を責め立てにきたに違いない。
これを機にもっと悪役ぶって印象を強めておこう。
「——花園様にバシッと物申されるなんて」
「……え?」
「特待生を気遣って戻られるなんて、なんてお優しいんだろうとみんな噂しておりますわ」
(あれ? あれぇ……??)
思っていたのと違う方向に噂されていたことに驚いた。
目指していた“傲慢で自分勝手な令嬢”はどこに行ってしまったのか。
「北条様が警戒されるはずですわ」
「警戒は……されてますね」
——今まさに警戒されて、ここを動くなと念を押されたところです。
今だって控えの席から自分たちをじっと見ている。
勝手に席を離れないか見張っているに違いない。
「まぁ、ご自分でおっしゃるなんて……さすがですわね」
諒華は口に手を当ててふふ……と笑った。
(え? “さすが”とはどういう意味なのでしょうか……?)
式までまだ時間がある。
要が桜と楽しく過ごしている間は自分は自由だ。
今だけでも良いから、同級生と仲良くしておこう。
明日には彼女も自分から祀莉には近づこうとしなくなるのだから。
祀莉は諒華との会話を楽しんでいた。
「——まぁ、では諒華様は航空会社社長のご令嬢なのですね」
「えぇ、ご入用の際はぜひ我が社に申し付け下さい……と父が言えと申しておりました」
「あら、そこまで言ってよろしいのですか?」
「えぇ、あまりにもしつこく言うものですから、素直に従うのもちょっと……と思いまして……。あそこにいるのが両親です」
くるりと後ろを向いて両親がいるであろう方向を指した。
人が集まりだしているので、どの人物のことを言っているのか分からなかった。
適当にそうですかと返事をしようとすると、突然2人の人物が立ち上がって深々と頭を下げた。
きっとその人物こそが、彼女の両親だろう。
「これで父からよくやったと褒められますわ。わたくし、欲しいバッグがあったんです。ありがとうございます」
「……正直ですね。いえ、お役に立てたのなら良かったです」
知らぬ間に彼女のために一役買っていたようだ。
(なるほど、こうやって成果を出してご褒美にほしいものを買ってもらうのですね……)
祀莉はあまり物をねだったことがなかった。
小説や漫画やアニメのグッズ……欲しいものはあったが資産家の令嬢がねだれるものではなかった。
自室にテレビを置いてもらったくらいだ。
マンガやアニメに興味があるなんて知られたら、きっと部屋に隠してあるものはすべて処分され、思考改善のため厳しい令嬢教育をされるに違いない。
要に漫画を買いに行ったと知られた時はしばらくの間、生きた心地がしなかった。
絶望すら感じていた。
しかし、未だに父から何も言われていないところをみると、まだ黙っててくれているようだ。
いつ脅し文句として使われるか……。
「入学式が始まりそうですね」
「え、あ……はい」
諒華の言葉で現実に引き返された。
講堂の照明がゆっくりと落ちて、あたりは薄暗くなっていった。
姿勢を正して前に向き直る。
綺麗な女性の声で式の始まりが告げられた。
学園長、来賓、生徒会長、色んな人が入れ替わり立ち替わり壇上で挨拶や歓迎の言葉を新入生に送る。
とうとう要の出番だ。
名前を呼ばれた瞬間、周囲がどっと沸いた。
北条家の長男のお出ましだ。当然だろう。
静まり返った静寂の中、落ち着いた要の声が耳に届いた。
(それにしても、この椅子は座り心地がすごく良いですね……——)