神の目のある風景
車を降りると乾いた土から細かい粒子が巻き上がった
すぐにボールを咥えた柴犬が黄色や紫の混じった園芸用の唐辛子を飛び越えてやってくる
嬉しくてたまらない
背中を弓のように反らせて走る姿からそれがいやというほど伝わる
犬は私もちらりと見たが久しぶりに帰ってきた少年に真っ直ぐ向かっていくと、せっかく持ってきたボールを地面に放り出して何度も吠えた
尻尾は振るという域を越えてスクリューのように回転し、その光景はオコでさえ笑顔にさせた
太陽をきらきらと反射する山茶花の生け垣の中は古い農家の名残を残していて夏の花咲き乱れる庭の周りをコの字型に建物が囲んでいる
まだ息を整えているように見える車の隣にはオレンジ色のトラクター
その脇には土が染みこむほど使い込まれた農具が立てかけてある
トタンで作られた物置はきっと農機具等が収められているのだろう一般の家庭用の物に比べると数倍大きい
芳生君は犬を滅茶苦茶に撫で回した後ボールを高く投げ上げ、犬と一緒に自身もそれを追いかけて走っていってしまった
オコの兄さんは球の落下地点を見届けると何も言わず彼の荷物を担いで歩き始めた
彼の走って行く姿を追った先を見て私は心から思った事を言った
「素敵な家ねえ!」
「虫多いよ」
「まるでイギリス貴族の敷地みたい」
「イギ……リス?」
「だってほらこの景色!」
敷地内では白い壁の家が一番大きく新しいながら、門から入った時にまずに全容を観ることになる古い日本家屋が空間の主人公なのは明らかで、オコが私の意見に首肯しかねるのはよく分かる
明治の文豪たちが住んでいたような家に憧れている私にとってそれこそが最も素晴しいと思えるものであったけれど、でもそのとき私が褒めたのはその眺めだった
一段高いところにある敷地からは家を囲む伸び盛りの稲がよく整備された芝生のように見えた
あぜ道に一本の松木陰を作っていて、朝に降った雨のせいで澄んだ空に世界の守護者のような白い雲が空の高いところまで立ち上がっていた
「ああ」
見ているのが家でなくもっと広い景色だと理解したオコは、何だというような声をだした
それから思い立ったように私の手を引っ張って走り始めた
古い家の縁側では一人の婦人が身を乗り出して芳生君と挨拶を交わしていて
その横を駆け抜けながら彼女は
「これ、友達の吉崎さん!」
と言った
首を捻ってやっと「こんにちは」とだけ言ったが、婦人の返しを聞く前に新しい方の家に押し込まれた
車の時と同じように蝉の声が遠ざかり、人の気配のしない家が妙に静かに感じられた
靴箱の上には赤い花と家族の写真が飾ってあり、ベージュ色の壁にきっと何かまじない的な意味を持つオブジェが掛かっていた
靴下では滑りそうな廊下が外からの光を鈍く跳ね返していた
他人の家の匂いがした
「今のお母さん?」
「そう」
ぶっきらぼうに答えた彼女はそれ以上何も言わず靴を脱ぎ散らかし、私にもとっとと靴を脱ぐよう手で急かした
押し上げられるように階段を上がり、登り切ってすぐ彼女の制服が掛かっている部屋に通される
今日は押し込まれてばかりだ
「随分散らかっている」
「こんなのは散らかっているうちに入らないと私は思うけど」
確かにそうかもしれない
その散らかり方には片付けようとすればさっとまとめられるような統一感があった
大切なものはきっときちんとしまってる
そう思わせる部屋だった
彼女は床に撒き散らされた雑誌の合間を器用に跳ねて窓際まで行き手で招いた
部屋は家の一番端
彼女が両手で薄いカーテンを開け放った窓枠は『田舎の風景』そんなありふれた名の、しかし美しい絵を飾る額縁だった
「うち確かに景色はいいのよね」
鳥よけの反射テープの光さえ観るものを楽しませるギミック
軽トラの甲高いエンジン音は欠かせないエッセンス
やるせないほど非ドラマティック
けれどその光景の中に究極のミステリーが一つ
「神の目もバッチリだ!」
少し欠けた白い月と併せて黒い月とも呼ばれる黒い半球
俗称神の目
直径三キロ
質量ゼロ
従って重力を持たない
私の町の上にはそれが浮かんでいる
中華鍋や釜の底という庶民的な調理器具に例えられ
下から見上げる分には空に穴が空いているようにも見える
しかし見下ろすことは出来ない
裏側というものが存在しないのだ
鍋の中を覗こうとした者が見るものはその下にある風景である
パラシュートを着けて鍋の中(であるはずの空間)に飛び込んだ人は鍋底から漏れた雫のように現れる
もちろん人だけではない
光を含む恐らく全てのものがすり抜ける
従って影もない
それが何なのか
存在していると言えるかどうかさえ意見が分わかれている
いつからそれがあるのか
少なくとも四万年程前に描かれた壁画にはそれらしきものが描かれているが定かではない
別次元に存在する物の影
そんな仮説も何でわざわざそんなものが高崎の上空に浮かんでいなければならないのかについては何も語っていない
「私ここに住みたいんだけど!」
もちろんその発言は何でも欲しがる子を真似た戯れだった
だが本心でもあった
実のところ今まで神の目が見える窓なんて今までたくさん見てきたけれどそんなこと考えたこともなかった
私の部屋の窓からは屋根に隠れて見えない
だからそのありふれた世界の謎について考えるのはいつも寝る前天井を見るとき
毎晩考えて来たのだ
自分の上にある不完全な黒い月、その物語を
少しずつ異なりながら繰り返す私達の宇宙
その全てを飽きもせず眺めている存在
例えばそんな
もしアレの謎が解けたら
多くの大発見がそうであったように
きっとその答えは私達の世界の見方を一変させる
世界はそのままで私達を次の段階、別の次元に押し上げる、そう信じていながら
答えを求めるよりも
その先の世界を空想してしまうのだ
それで満足だった
だが私がまとまりなく紡いできた物語は今日芳生君の話とも繋がって更なる広がりと一本の軸を持った
だから風景を見た時思ったのだ
いつだって顔をあげれば観ることが出来たらと
「これ以上変な居候が増えるのはイヤね」
「馬小屋でいいから」
「ねえよ」
「じゃあ布団部屋」
「取り敢えずは遊びに来るくらいにしとけば?」
「じゃあそうする」
きっと私がここに来る理由を作るためにこの景色を見せた
外を眺める彼女の、顎の線で切りそろえた髪が微かな風に揺れるのを横で感じながらそう思った
私の思い描く物語ならきっとそうだから




