君の名は
私が神であることを認識する物語の始まりは夏休みに入ってすぐ、彼の言葉から始まる
「やや。君はもしやね子さん。吉崎ね子さんじゃないか?」
突然名前を呼んだ男の子の顔を見て私はははははははと笑い
その後泣いてしまった
「おおどうした!?」
ごめんなさいと謝ったけれど、それで彼が納得するはずのないことは私だって分かってはいた
乗客を吐き出し終えて一息ついているようにみえた駅の口
私は大きなボストンバッグを担いだ少年とぶつかりそうになった
事象としてはただそれだけ
「俺は君のトラウマだったのか?」
「なんでもないです。大丈夫。ありがとう」
「泣かれた上に感謝までされるなんて初めてだ」
私が眼鏡を外して涙を拭いている間、彼の手は何か言いたげに空中を彷徨っていた
彼は困ったろうし、私だって恥ずかしかった
昼少し前の時間田舎駅の前は通る人も殆ど無くて、下りの急行が通り過ぎた後の時間は重なりあうジーワジーワという蝉の声だけが埋めた
そうかもしれない
あなたは私のトラウマだったのかもしれない
死んだ猫がつけた爪あとのような
いつまでも残るキズだったのかもしれない
だから否定はできなかった
でも、今の私にはきっと上手く説明することは出来ないけれど
僅かでも伝えなければならなかった
私がいつも、だんだんと薄くなっていくその傷を撫でていたこと
また会えて嬉しいということ
それから
クラスメイトに呼びかけられたとき、私はまだ涙を拭いていた
一台もないタクシー乗り場の手前に止まった深く青い色をした車
その後部座席の窓を開けて小此木春が振り返るようにこちらを見ていた
「なにやってんの?」
その問いはてっきり私に向けてのものだと思ったけれど、答えたのは彼のほうが早かった
「女を泣かせています」
親指を立てて言った
「すり潰すぞこのヤロウ!」
勢い良く彼女が開けたドアは歩道と道路を隔てる柵にぶつかって結構な音がしたし、恐らくその音に対して運転席の方から悲鳴がしたけれど、彼女はそんなことには全く一向に構わなかった
「このスットコドッコイ!!」
「おーこわ」
私を庇うように前に立った春に対して、彼は怯むこと無く無表情のまま腕を組んだ
「到着早々私の友達泣かすとか!」
「爆笑もされたけど」
「それはいつものことじゃない」
「見てきたようなことを言うな!」
私は話題の中心でありながら、物凄い速度で置いてけぼりにされた
春は普段から平気で他人に突っかかっていく人物だが、雰囲気からして彼とは随分と遠慮のない間柄のようだった
駅員の目もだんだん気になってきたのでまあまあとなだめてみたところ
逆に「まあまあじゃ無いがね!」と春に怒られた
がね
「何も危害は加えてない。そもそも俺と彼女は友達なのだ」
「それは嘘」
「いいからちゃんと確認してみろ」
彼女は頭だけを首を痛めそうな勢いで回してこちらを見た
彼女の髪は江戸火消がくるくると回す纏のように八方に広がり、また肩の上に落ちた
会うのは五年ぶり二度目などという甲子園みたいな情報は間違っても与えるべきではないと判断し、肩越しに睨む視線に私はただ頷いた
「やっぱり嘘じゃない」
「お前……ひょっとして目が……」
「見えてるわ!!」
私は襟の後ろを掴まれて前に引きずり出された
コレが毎日宅の庭に糞をしていくザマス
そう言って引きずり出される猫のような扱いだった
いくら名前がね子でも親以外でこんな扱いをされたのは初めて
「これはどう見てもこれ以上事を荒立てないように嘘をついてる目」
鋭い
しかしそれを聞いた彼の言葉は憐れみの色混じり
「お前の剣幕に怯えてるんだよ」
半分正解
怯えているのは彼女というよりも、彼女を含めた事態の展開速度
「本当に何もされてないし彼とは確かにトモダチ」
とにかく事態を一旦収束させねばならない
実は名前も知らないのだが、それでも私と彼とは友達(仮)
首を掴まれているせいで発声はぎこちなくなってしまったが嘘はついていない
だが
「ほら見ろばーかばーか」
事態は一層混迷の度合いを増そうとしていた
春が殴りかかろうとしたその時、おーいという声がした
振り返ると彼女が乗ってきた車の助手席からサングラスをかけた若い男が顔を出していた
「ここ長く停めてらんないからさ、続きは車の中でやってくれる?」
反射して白く光るレンズでその目が見えずとも
随分呑気そう
そう思わせる声だった
私には一体どうすべきか考える暇も必要も無かった
首根っこを掴まれたまま後部座席に押し込められた
車は全員が乗り込むと陽炎揺らめくアスファルトの上を滑り始めた
そんな始まりだったのだ




