第9話 真の著者
壇上に立つ足は、震えていた。
──けれど私は、自分の名前で立っている。それだけで、十分だった。
王立学院の大講堂。
半円形の客席が壇上を囲み、その一段一段に人が座っている。貴族の衣装。軍服。学者のローブ。宮廷の文官が書記用の羽根ペンを構えているのが見えた。
満席だった。
学院の公開発表会は通常、半分も埋まらないと聞いていた。今日これだけの人が集まったのは──「ヴァルモン伯爵の元妻が研究成果の帰属を主張する」という噂が、宮廷中に広まったからだ。
ジルベールの妨害工作が、皮肉にも集客に貢献している。
喉が渇いていた。朝から何も飲めなかった。研究ノートの表紙が汗で少し湿っている。
客席の最前列に、ジルベールがいた。
腕を組み、眉を寄せた顔。隣にセレスティーヌが座っている。彼女は俯いたまま、顔を上げない。
──視線が合った。ジルベールの目に、焦りと怒りが混じっている。
胸が締まる。心臓が、喉の奥で不規則に鳴っている。客席のざわめきが耳鳴りのように遠くなって、また近くなる。
でも、大丈夫。
壇上の演台に手を置いた。荒れた手の甲が、白い布の上に映える。
(この手で作った。この手で書いた。この手で証明する)
深く息を吸った。
◇◇◇
「本日は、防衛魔導具の設計理論についてご報告いたします。発表者──リュシエンヌ・ド・ベルティエ」
自分の名前を、自分の声で、百人以上の前で読み上げた。
声は──震えなかった。五年間の抑制の全てが、この一瞬に集約されていた。
研究ノートの一冊目を掲げた。
「こちらは五年前、ヴァルモン伯爵邸の実験室で記録を開始した研究ノートの第一巻です。以降、三十七冊。全て私の筆跡で記された実験記録、計算式、設計図を含んでいます」
頁を開き、最初の設計図を聴衆に示した。
──場内の空気が、わずかに変わった。
好奇心と猜疑心が混じった視線。「精神を病んだ元伯爵夫人」を見に来た野次馬の目。嘲笑を含んだ囁き。
二枚目の紙を取り出す。セレスティーヌ名義で宮廷に提出された報告書の写し。
「同日付で宮廷に提出された報告書です。設計の方針、計算式の構造、変数の命名規則──全て一致しています」
場内が、静かになった。
好奇心が別のものに変わり始めている。ざわめきが消えて、紙をめくる音が聞こえるほどの沈黙。
三枚目。四枚目。
「三年目の結界核設計。改良型の対魔物探知具。──研究ノートの原本と、宮廷報告書の対比です」
五枚目。誰かが息を呑んだ。
私は怒鳴らなかった。告発の言葉も使わなかった。
ただ、事実を並べた。
六枚目。七枚目。八枚目。
場内の空気が、一枚ごとに重くなる。最初の嘲笑はもう消えていた。代わりに、理解と、驚きと、静かな怒りが広がっていく。
十二件全てを並べ終えた時──大講堂は、水を打ったように静まり返っていた。
◇◇◇
発表の後半。
客席の中段から、一人の男性が立ち上がった。
オスカル閣下だった。手に分厚い冊子を持っている。
「軍医長官オスカル・ド・モンフォール。王国学術委員会に対し、学術的証拠を提出いたします」
閣下の声は落ち着いていた。壇上に向かって歩いてくる姿に、揺らぎはない。ただ──目が、少し赤い。
(泣いていた?)
──いや。泣きそうなのを、堪えている。
「私は三年前より、王国学術誌に匿名で投稿された魔導具理論の論文を追い続けてまいりました。四本の論文全てを引用し、そのたびに著者を照会しましたが、匿名のため特定に至りませんでした」
冊子を演台に広げる。引用歴の一覧。論文の掲載号と日付。閣下自身の研究メモ。
「本日、ベルティエ嬢の研究ノートと、これらの匿名論文の理論が完全に一致することを確認しました」
閣下が宮廷書記官ヴィクトル・ド・ラ・ロッシュに目配せした。
ヴィクトル書記官が立ち上がり、封蝋付きの書面を読み上げた。
「王国学術委員会による鑑定結果を発表いたします。──研究ノート原本の筆跡、計算式の構造、設計図の表記法について、セレスティーヌ・ファヴレ名義で宮廷に提出された報告書との照合を行いました。結果──」
沈黙が、深い。誰も動かない。誰も息をしない。
「──全ての研究成果の原著者は、リュシエンヌ・ド・ベルティエであると認定いたします」
──沈黙。
一秒。二秒。
それから──ざわめき。
声が波のように広がっていく。驚き。憤り。理解。そして、どこかの席から小さな拍手。
◇◇◇
最前列のジルベールが立ち上がった。
「それは捏造だ! 元妻が精神を病んで、他人の研究を自分のものだと──」
声が大講堂に響いた。
私は黙って、研究ノートの三冊目を開いた。三年前の日付の頁。その余白に書かれた走り書き。
『次の報告書には載せないで』
──ジルベール自身の筆跡で。
ノートを高く掲げた。手が震えていた。でも声は、震えなかった。
「こちらは三年前の研究ノートの余白です。この指示書きの筆跡は──ヴァルモン伯爵ご本人のものです」
場内が、静まった。
ジルベールの口が開いたまま、止まった。自分の筆跡だ。自分が書いた指示だ。
妻の研究を他人名義にしろという指示を、研究ノートの余白に書いていたことを──忘れていたのだ。
セレスティーヌは俯いたまま、肩を震わせていた。
ジルベールが何か言いかけた。言葉にならなかった。口が開閉するだけだった。
──可哀想だとは、思わなかった。
怒りも、なかった。
ただ「終わった」と思った。
◇◇◇
壇上から、ジルベールに向かって口を開いた。
(怒りの言葉が出ると思った。出なかった)
「私は復讐のためにここに立っているのではありません」
声は穏やかだった。自分でも驚くほど。
「ただ──私の名前を、私の研究に返していただきたかっただけです」
穏やかに言えた自分に、驚いている。怒りが消えたのではない。怒りはある。五年分の怒りは消えない。
でも──怒りよりも大事なものを、見つけたからだ。
自分の足で立つということ。自分の名前で証明するということ。
それだけで、もう十分だった。
微笑んだ。
抑制の微笑みではなかった。怒りを隠す微笑みでもなかった。
ただ──清々しかった。
壇を降りた。
足元がまだ少し震えていた。階段の手すりを握る手が汗で滑った。一段、二段。背筋は伸びている。震えていて、それでもなお。
最後の一段を降りた時、目の前に手が差し出された。
オスカル閣下の手。
大きくて、温かい手。
「……おめでとうございます、ベルティエ嬢」
声が震えていた。──この人は、泣いている。目が赤くて、声が掠れて、唇を引き結んで堪えようとしているのに、堪えきれていない。
(私のために──泣いてくれているのか)
手を伸ばした。荒れた、白い粉を吹いた手を。
自分から、差し出した。
(守ってもらうためではない。共に歩くために)
閣下がその手を取った。包むのではなく──握り返すように。
言葉はなかった。
大講堂の客席で、誰かが拍手を始めた。一人、二人。やがて、波のように広がっていく。
手を握り合ったまま、私は前を向いた。
もう、振り返らない。




