第8話 私の足で
「伯爵夫人の精神状態に問題がある」
──宮廷に、そんな噂が流れていると聞いた。
発表会への登録を済ませた翌日のことだった。
マルグリットが学院の廊下で拾ってきた噂──正確には、学院に出入りする宮廷文官がひそひそ話していたのを聞いたという。
「ヴァルモン伯爵夫人は離縁後に精神を病んで、妄想で他人の研究を自分のものだと主張している──と」
マルグリットの声は怒りで低くなっていた。
(ジルベール……)
予想はしていた。彼は社交が上手い。宮廷の噂を操るのは得意分野だ。
心臓が冷たくなる。でも──まだ、大丈夫だと思っていた。
噂は噂だ。証拠があれば覆せる。
◇◇◇
大丈夫ではなかった。
三日後。食堂で昼食を摂ろうとした時、異変に気づいた。
いつも隣に座る錬金術研究室のデュヴァルが、私の顔を見るなり視線を逸らした。別のテーブルへ行った。
廊下ですれ違う研究者が、小声で話を止める。
実験に必要な薬品を倉庫に取りに行ったら、管理官が申し訳なさそうに言った。「承認印が要るんですが、今──閣下がご不在で……」
(避けられている)
噂が、学院にまで浸透していた。
私は精神を病んだ元伯爵夫人。他人の研究を自分のものだと喚いている狂人。
そう思われている。
五日目。
学院の事務室から一通の書簡が届いた。公式の封蝋。学術委員会の紋章。
『公開発表会 発表登録審査の一時保留について
発表予定者リュシエンヌ・ド・ベルティエ嬢に対し、精神的問題の疑義が正式に提出されました。学術委員会規定第十二条に基づき、疑義が解消されるまで発表登録を一時保留といたします。』
紙を持つ手が、震えた。
──発表ができない。
五年分の証拠を持っていても。研究ノートがあっても。準備が整っていても。「この人は狂っている」と言われたら、壇上に立つことさえ──
椅子から立てなくなった。
研究ノートを膝の上に引き寄せて、両手で抱きしめた。
(また一人だ)
伯爵邸の地下実験室を思い出した。窓のない部屋。湿気で壁が光る部屋。誰にも見てもらえない部屋。
ここも同じだ。窓があっても、光があっても。周りが背を向けたら、同じ暗さだ。
(……やめようか)
ノートを見つめた。表紙が擦れた一冊目。五年前に書き始めた最初の頁。
やめたら楽になる。発表を撤回して、静かに研究だけしていれば。名前など──名前がなくても、研究はできる。五年間そうしてきた。
泪は出なかった。泪が出ないことが、一番怖かった。
◇◇◇
何分経っただろう。
ノートの頁を、無意識にめくっていた。
五年前の計算式。五年前の設計図。四年前の改良。三年前の新理論。
筆跡を見ていた。
五年前の私の字。少し丸くて、丁寧。
四年前の字。角が立ち始めている。計算が速くなった。
三年前。走り書きが増えた。思考の速度に手が追いつかなくなっている。
直近の字。簡潔で、正確で──迷いがない。
(──五年分の筆跡が、一貫している)
手が止まった。
(精神を病んだ妄想なら、五年分の筆跡が一貫するはずがない。計算式の進化が連続するはずがない。理論が体系的に発展するはずがない)
研究者の目が、戻ってきた。
これは証拠だ。
研究ノートの中身だけではない。ノートそのものが──五年間の一貫した知性の軌跡そのものが──「妄想」への反証になる。
椅子から立ち上がった。足がまだ少し痺れていた。
マルグリットが扉の前にいた。不安そうな顔をしている。
「学術委員会に直接申し入れます。──筆跡と計算式の連続的発展を、委員会の有識者に鑑定させてください、と」
「リュシエンヌ様──」
「精神を病んだ妄想では、五年間にわたる理論の体系的な発展は説明できません。鑑定すれば、このノートが一人の研究者の一貫した成果物であることは明白です」
声は──もう震えていなかった。
マルグリットが、泣きそうな顔で、深く頷いた。
「……お供いたします」
◇◇◇
学術委員会の審査は、三日で結論が出た。
有識者二名が研究ノートの筆跡と計算式を検証し、「五年間にわたる系統的な研究記録であり、精神的問題から生じた妄想的主張とは認められない」と報告した。
発表登録の保留が解除された。
──自分の力で、立ち上がった。
誰かに助けてもらったのではない。手を差し伸べられたのではない。
自分の研究ノートが。自分の筆跡が。自分の五年間が。私を助けてくれた。
◇◇◇
保留が解除された翌日。フレデリク副官が研究室を訪ねてきた。
いつもの飄々とした顔──だが、今日は少し違う。歯切れが悪い。
「ベルティエ嬢。少し──お恥ずかしい話なのですが」
「何でしょう」
「先日お淹れした紅茶のことで。あの山吹色の花茶、実は──学院の備品ではありません」
手が止まった。
「閣下がご実家から取り寄せている茶葉です。モンフォール侯爵領の東の丘陵で摘まれる希少なもので──正直、副官の私でも飲ませてもらったことがありません」
フレデリクが頭を掻いた。
「何ヶ月も前から、貴女の研究室にだけ届けるよう手配されていて──まあ、あの方は絶対に自分からは言いませんから。嘘をつき続けるのも良心が痛みまして」
──折れかけていた、あの日。椅子から立てなかった日。冷めた紅茶が小卓の上にあった。
あの紅茶も──閣下が?
専用研究室。他の研究者が相部屋だと知ったのは最近のこと。あれも閣下。
品質確認。軍医長官が一介の研究員の実験を毎日見に来るはずがない。
「この手が国を守っている」──あの声の震え。
全部。
全部、そうだったのか。
視界がぼやけた。──泪だ。あの日は出なかった泪が、今になって。
「……フレデリク副官」
「はい」
「閣下に──いいえ。何でもありません」
伝えてほしいことは、ある。でもそれは、自分の口で言うべきだ。
「ありがとうございます。教えてくださって」
フレデリクは少しだけ笑って、「閣下には内密に」と言い残して去っていった。
◇◇◇
夜。発表会の前夜。
研究室の灯りを落とさず、机に向かっていた。
明日の発表資料は整っている。五年分の研究ノート。計算式の対照表。匿名論文の原稿控え。セレスティーヌ名義の報告書との対比資料。
証拠は十分だ。あとは──私が壇上に立つだけ。
(隣にいてほしい)
突然浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
──守ってもらうためではない。
隣に、いてほしい。共に歩くために。
五年間、一人で研究してきた。一人で良かった。一人が楽だった。
でも今は──一人であることが、ただ寂しい。
(この感覚を、「仕事上の信頼」と処理するのは、もう、無理だ)
わかっていた。あの日の実験室で手を包まれた時から──いや、もっと前から。
灯りを落として、研究ノートを抱えて眠りについた。
明日、全てを証明する。自分の足で。




