表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の研究成果を愛人の手柄にしたあなたへ~白い結婚の終わりに、もう一つだけ置き手紙を~  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/10

第7話 嘘の代償

 軍医長官が、実験室に来なくなった。


 ──紅茶だけが、副官の手で毎朝届く。



 最初の二日間は、気にしなかった。公務が忙しいのだろう。品質確認は義務ではないのだから。


 三日目。廊下で閣下とすれ違った。


「おはようございます、閣下」


 声をかけた。


 閣下は──目を逸らした。


 足を止めず、軽く会釈だけして通り過ぎた。「ベルティエ嬢」と一言も呼ばなかった。


 背中が遠ざかっていく。


(……迷惑だったのだ)


 理由は考えるまでもない。共同研究に巻き込まれ、ヴァルモン伯爵から政治的圧力をかけられ、侯爵家の三男として面倒な立場に置かれた。── 一介の研究者のために、そこまでする義理はない。


「やはり──迷惑をかけていたのだ」


 呟いた声が、自分の耳に返ってくる。冷たい声だった。


 研究室に戻って、実験台の前に座った。データを取ろうとした。集中できなかった。


 紅茶が湯気を立てている。いつもの山吹色の花茶。副官が置いていったもの。


(紅茶は来るのに、本人は来ない)


 意味がわからなかった。


 五日目。


 研究室の扉をノックする音がしても、もう顔を上げなくなった。期待して、閣下ではないことに毎回がっかりする自分が嫌だった。


 六日目。


(自分から行こう)


 執務室に行って、謝ろう。「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。共同研究の件は、他の方を──」


 そう切り出すのが正しい。正しいはずだ。


 ──そう言ったら、何かが終わる気がした。


(終わらせたくない)


 その感情が、一番痛かった。



 ◇◇◇



 七日目の昼。意を決して執務室に向かった。


 二階の廊下。閣下の部屋の前。扉を叩こうと手を伸ばした時、横から声がかかった。


「ベルティエ嬢。少し、お時間をいただけますか」


 フレデリク副官だった。いつもの飄々とした顔──ではなかった。真剣な目をしている。


「外を歩きませんか。中庭に──ベンチがあります」


 中庭の隅のベンチに並んで座った。フレデリクは腕を組み、少し考えてから口を開いた。


「まず──閣下のことです。貴女を避けているのは事実です」


「やはり──」


「ただし理由が違います」


 フレデリクが背もたれに身体を預けた。


「ヴァルモン伯爵がモンフォール侯爵家に牽制状を送りました。『元妻を不当に囲い込んでいる』。侯爵家の本家が動き始めた。──閣下は三男ですから、本家の圧力には弱い」


「……それで距離を取っている?」


「貴女を巻き込みたくないんですよ。侯爵家の問題に、一介の研究者を巻き込むのは筋違いだと。──馬鹿な方です」


 フレデリクが、静かに言い切った。


「守ろうとして、一番守りたいものから離れてどうするんだか」


(一番守りたいもの──)


 心臓が跳ねた。でも、今はそこに浸っている場合ではない。


「閣下に──お伝えいただけますか。私は守ってもらうつもりはなかった、と」


「ベルティエ嬢──」


「私は。自分の足で、立つつもりです」


 守られるのではなく。隣に立つのでもなく──まず、自分で立つ。


 フレデリクが目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。


「……閣下に伝えます。一字一句」



 ◇◇◇



 ヴァルモン伯爵邸。書斎。


 ──ジルベールの前に、セレスティーヌが立っていた。


「もう、隠し通せません」


 セレスティーヌの声は平坦だった。泣き尽くした後の、乾いた声。


「魔導具開発委員会から直接問い合わせが来ています。新作を出せない理由。結界修復ができない理由。──全部、訊かれています」


「何と答えた」


「最初から──伯爵夫人のものでした、と」


 静寂。


 ジルベールは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。


 ──怒りが湧くと思った。裏切られたと。


 湧かなかった。


 代わりに、引き出しの中の書類が目に入った。妻が去る日に置いていった、引き継ぎ書類の束。あの日は読みもしなかった。


 今──手に取った。


 一枚目。結界の調整スケジュール。月ごとの点検項目。季節による変動の補正表。


 二枚目。各村の結界出力の現状と推奨値。辺境の村ほど詳細な記述。


 三枚目。後任者への引き継ぎメモ。


  『東端の村は魔物の出没頻度が高く、特に春先は注意が必要です。結界核の出力を通常の1.2倍に──』


 一枚一枚、丁寧に読んだ。読むほどに、手が震えてきた。


 怒りではない。


 恐怖だ。


 ──この女は、こんな人間だったのか。


 五年間、地下の実験室で。窓もない部屋で。手が荒れるまで魔力を注ぎ続けて。それでもなお、後任者のために完璧な引き継ぎを書いていた。


 後任者など──いないことを、知っていたはずなのに。


(俺は五年間、何を見ていた)


 いや──見ていた。見えていた。見ないふりをしていただけだ。


 手の荒れを「見苦しい」と言ったのは俺だ。


 研究を「金のかかる趣味」と呼んだのも俺だ。


 引き継ぎ書類を閉じた。


 窓の外で、結界出力計の針がまた少し下がった。



 ◇◇◇



 夜。学院の研究室。


 マルグリットが夕食の片付けを終えて去った後、一人で机に向かっていた。


 研究ノートの隅に、研究会──公開発表会──の告知が挟まれていた。三ヶ月後。王立学院主催。王国の学者、貴族、軍関係者が列席する、公式の場。


 ここで──発表できる。


 自分の研究を。自分の名前で。


 五年分の研究ノートを手に取った。三十七冊。この中に、全ての証拠がある。


「この筆跡が、全ての証拠です」


 声に出して言った。


 ──証明する。取り戻すのではなく、証明する。


 私のものだったことを。最初から、ずっと、私のものだったことを。


 守ってもらうのではない。


 自分の足で、立つ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ