第7話 嘘の代償
軍医長官が、実験室に来なくなった。
──紅茶だけが、副官の手で毎朝届く。
最初の二日間は、気にしなかった。公務が忙しいのだろう。品質確認は義務ではないのだから。
三日目。廊下で閣下とすれ違った。
「おはようございます、閣下」
声をかけた。
閣下は──目を逸らした。
足を止めず、軽く会釈だけして通り過ぎた。「ベルティエ嬢」と一言も呼ばなかった。
背中が遠ざかっていく。
(……迷惑だったのだ)
理由は考えるまでもない。共同研究に巻き込まれ、ヴァルモン伯爵から政治的圧力をかけられ、侯爵家の三男として面倒な立場に置かれた。── 一介の研究者のために、そこまでする義理はない。
「やはり──迷惑をかけていたのだ」
呟いた声が、自分の耳に返ってくる。冷たい声だった。
研究室に戻って、実験台の前に座った。データを取ろうとした。集中できなかった。
紅茶が湯気を立てている。いつもの山吹色の花茶。副官が置いていったもの。
(紅茶は来るのに、本人は来ない)
意味がわからなかった。
五日目。
研究室の扉をノックする音がしても、もう顔を上げなくなった。期待して、閣下ではないことに毎回がっかりする自分が嫌だった。
六日目。
(自分から行こう)
執務室に行って、謝ろう。「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。共同研究の件は、他の方を──」
そう切り出すのが正しい。正しいはずだ。
──そう言ったら、何かが終わる気がした。
(終わらせたくない)
その感情が、一番痛かった。
◇◇◇
七日目の昼。意を決して執務室に向かった。
二階の廊下。閣下の部屋の前。扉を叩こうと手を伸ばした時、横から声がかかった。
「ベルティエ嬢。少し、お時間をいただけますか」
フレデリク副官だった。いつもの飄々とした顔──ではなかった。真剣な目をしている。
「外を歩きませんか。中庭に──ベンチがあります」
中庭の隅のベンチに並んで座った。フレデリクは腕を組み、少し考えてから口を開いた。
「まず──閣下のことです。貴女を避けているのは事実です」
「やはり──」
「ただし理由が違います」
フレデリクが背もたれに身体を預けた。
「ヴァルモン伯爵がモンフォール侯爵家に牽制状を送りました。『元妻を不当に囲い込んでいる』。侯爵家の本家が動き始めた。──閣下は三男ですから、本家の圧力には弱い」
「……それで距離を取っている?」
「貴女を巻き込みたくないんですよ。侯爵家の問題に、一介の研究者を巻き込むのは筋違いだと。──馬鹿な方です」
フレデリクが、静かに言い切った。
「守ろうとして、一番守りたいものから離れてどうするんだか」
(一番守りたいもの──)
心臓が跳ねた。でも、今はそこに浸っている場合ではない。
「閣下に──お伝えいただけますか。私は守ってもらうつもりはなかった、と」
「ベルティエ嬢──」
「私は。自分の足で、立つつもりです」
守られるのではなく。隣に立つのでもなく──まず、自分で立つ。
フレデリクが目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。
「……閣下に伝えます。一字一句」
◇◇◇
ヴァルモン伯爵邸。書斎。
──ジルベールの前に、セレスティーヌが立っていた。
「もう、隠し通せません」
セレスティーヌの声は平坦だった。泣き尽くした後の、乾いた声。
「魔導具開発委員会から直接問い合わせが来ています。新作を出せない理由。結界修復ができない理由。──全部、訊かれています」
「何と答えた」
「最初から──伯爵夫人のものでした、と」
静寂。
ジルベールは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
──怒りが湧くと思った。裏切られたと。
湧かなかった。
代わりに、引き出しの中の書類が目に入った。妻が去る日に置いていった、引き継ぎ書類の束。あの日は読みもしなかった。
今──手に取った。
一枚目。結界の調整スケジュール。月ごとの点検項目。季節による変動の補正表。
二枚目。各村の結界出力の現状と推奨値。辺境の村ほど詳細な記述。
三枚目。後任者への引き継ぎメモ。
『東端の村は魔物の出没頻度が高く、特に春先は注意が必要です。結界核の出力を通常の1.2倍に──』
一枚一枚、丁寧に読んだ。読むほどに、手が震えてきた。
怒りではない。
恐怖だ。
──この女は、こんな人間だったのか。
五年間、地下の実験室で。窓もない部屋で。手が荒れるまで魔力を注ぎ続けて。それでもなお、後任者のために完璧な引き継ぎを書いていた。
後任者など──いないことを、知っていたはずなのに。
(俺は五年間、何を見ていた)
いや──見ていた。見えていた。見ないふりをしていただけだ。
手の荒れを「見苦しい」と言ったのは俺だ。
研究を「金のかかる趣味」と呼んだのも俺だ。
引き継ぎ書類を閉じた。
窓の外で、結界出力計の針がまた少し下がった。
◇◇◇
夜。学院の研究室。
マルグリットが夕食の片付けを終えて去った後、一人で机に向かっていた。
研究ノートの隅に、研究会──公開発表会──の告知が挟まれていた。三ヶ月後。王立学院主催。王国の学者、貴族、軍関係者が列席する、公式の場。
ここで──発表できる。
自分の研究を。自分の名前で。
五年分の研究ノートを手に取った。三十七冊。この中に、全ての証拠がある。
「この筆跡が、全ての証拠です」
声に出して言った。
──証明する。取り戻すのではなく、証明する。
私のものだったことを。最初から、ずっと、私のものだったことを。
守ってもらうのではない。
自分の足で、立つ。




