第6話 この手が
元夫から手紙が届いた。
──封を切る前に、返事は決まっていた。そのはずだった。
朝の研究室。窓から差し込む光が実験台を白く照らしている。マルグリットが、乳白色の封蝋が押された手紙を持ってきた。
ヴァルモン伯爵家の紋章。
指でなぞりもせず、封を切った。
文面は──予想と違った。
命令口調を覚悟していた。「戻れ」の一言を。
違った。
『リュシエンヌ。
辺境の村で、結界の穴から魔物が侵入した。子供が一人、腕に深い傷を負った。治癒術師の到着まで三日かかった。
貴女の手でしか直せない結界がある。貴女にしか救えない命がある。
伯爵夫人としての最後の責務として、結界の修復を求む。それが終われば、二度と縛るつもりはない。
──ジルベール・ド・ヴァルモン』
──卑怯だ、と思った。
命令なら断れた。怒りで切り捨てられた。
でも「子供が怪我をした」と書かれると──揺れる。正論だからだ。
(私にしか直せない。それは事実だ)
手が、止まった。
五年間、名前を消され続けた。研究を奪われ続けた。それでもまだ「責務」と言われたら、戻らなければいけないのか。
便箋を一枚取った。
長い返事を書き始めた。
「あなたの言う『責務』とは──」
やめた。書いているうちに虚しくなった。五年分の怒りを、手紙の中にぶつけたところで、ジルベールには届かない。
便箋を破った。もう一枚。また破った。
三枚目。
一行だけ。
『お答えする義理はございません。──リュシエンヌ・ド・ベルティエ』
署名はベルティエ。ヴァルモンではなく。
マルグリットに渡すと、侍女は便箋を一度だけ見つめ、深く頷いた。
「よくぞ、おっしゃいました」
その声が少しだけ潤んでいたことには、気づかないふりをした。
◇◇◇
午後、実験室。
汎用結界核の二次試作に取り掛かっていた。前回の試作で見つかった共鳴周波数の問題を解決するため、魔力の注入パターンを変える。
炉の温度を上げ、右手の指先に魔力を集中させた。精密な制御が必要な工程だ。
微調整。もう少し──もう少しだけ──
ぱちん、と小さな音がした。
「っ──」
右手の甲から、白い煙が上がった。魔力が暴発して、火傷を負った。
大したことはない。実験にはつきものだ。
白い粉を吹いた手の甲に、赤い線が一筋走っている。冷水で冷やそうと蛇口に向かいかけた時、
「──動くな」
背後から、低い声。
振り返る間もなく、手首を掴まれた。
オスカル閣下だった。品質確認で来ていたのだ。いつの間に、こんな近くまで。
閣下は私の右手を両手で包むように持ち上げ、火傷の跡を確認した。
軍医の手つきだ、と最初は思った。
でも──違う。
軍医なら片手で済む検査を、両手でしている。火傷を冷やすための魔力の波動が、指先から優しく──必要以上に丁寧に──流れ込んでくる。
「閣下、大したことは──」
「黙っていてください」
遮られた。声が、微かに震えている。
火傷の痛みが魔力で和らいでいく。赤い線が薄くなる。でも問題は火傷ではなく、閣下の両手が包んでいる私の手の、荒れ具合のほうだった。
白い粉。ひび割れ。五年分の魔力酷使の痕跡。
閣下はそれを見ている。見て、黙って、手を離さない。
「この手が──」
閣下が口を開いた。
「この手が、国を……いや。多くの人を守っている」
心臓が止まった。
──いや、跳ねた。今までにない跳ね方をした。
手を握られたのは何年ぶりだろう。
いいえ──こんなふうに握られたのは、初めてかもしれない。
ジルベールは私の手に触れなかった。荒れた手を「見苦しい」と言ったことがある。手袋をしろ、と。
この人は、荒れた手を見て「守っている」と言った。
見苦しいではなく。
守っていると。
「……ありがとうございます」
声がかすれた。泣くな。泣くな。
閣下は手を離し、一歩下がった。
──その耳が赤い。夕日とは反対側の耳が。
「今日の実験は中止です。手を休めなさい」
有無を言わさぬ声。軍医長官の命令。
「……はい」
素直に従ったのは、逆らう気力がなかったからではない。
もう少しだけ、この温かさの余韻を味わっていたかったからだ。
◇◇◇
閣下が去った後、一人で研究室に残った。
右手を見る。火傷はもう消えている。でも手の甲に残る閣下の手の温もりは、まだ消えない。
(困った)
何が困るのか、自分でもうまく説明できない。
ただ──この感覚を「仕事上の信頼」と処理するのは、もう無理だと思った。
◇◇◇
同じ頃、オスカル閣下の執務室には、一通の書簡が届いていた。
差出人──ヴァルモン伯爵。
フレデリク副官が封を開け、内容を確認し、顔色を変えた。
「閣下。ヴァルモン伯爵からです。『元妻を不当に囲い込んでいる』として、モンフォール侯爵家への牽制状が──」
オスカルは書簡を受け取り、一読した。
顔に感情は浮かべなかった。
「……彼女に迷惑はかけられない」
それだけ呟いて、書簡を引き出しに収めた。
フレデリクは何も言わなかった。
ただ上官が──この半年で初めて──唇を噛んでいるのを、見ていた。




