第5話 崩壊の音
ヴァルモン伯爵領の辺境で、結界に穴が開いた。
──その報は、私が朝の実験を始めた頃に王都へ届いた。
学院の食堂で昼食を取っていた時、隣の席の研究員が噂話をしていた。
「ヴァルモン伯爵領で魔物が出たそうだ。辺境の村が被害を受けて──」
スプーンが止まった。
「結界はどうしたんだ。あの領地は高性能の結界核があったはずだろう」
「それが、ここ最近ずっと出力が落ちていたらしい。元伯爵夫人が去ってから、メンテナンスができなくなったとか」
「子供が一人、怪我をしたらしい。腕を──」
椅子を引く音がした。
私だった。
スプーンを置いて食堂を出た。廊下の角を曲がったところで足が止まった。壁に手をついた。
(子供が──)
あの辺境の村は知っている。結界が最も薄い東端。あの村の広場には、いつも子供たちが走り回っていた。結界の調整に行くたびに、花をくれた女の子がいた。
(私が去ったから。私が結界を置いていったから)
設計者の私には計算通りだった。メンテナンスが途絶えた辺境から穴が開くのは、一ヶ月余りで──わかっていた。わかっていて、去った。
◇◇◇
研究室に戻った。
実験台の前には立てなかった。椅子に座って、しばらく何もできなかった。
紅茶が小卓の上で冷めていく。山吹色の花茶。いつも通りの温度、いつも通りの濃さ。
──戻ろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、身体が動いていた。
トランクを引っ張り出す。ノートを詰め直す。馬車の手配──学院の受付に行けば紹介してもらえるはずだ。三日で着く。結界の応急処置なら──
マルグリットが扉の前に立っていた。
止めるのかと思った。「お行きにならないでください」と言うのかと思った。
マルグリットは何も言わなかった。黙って、見守っていた。
──その沈黙が、かえって痛い。
研究ノートの一冊を手に取った。トランクに入れようとして、頁がめくれた。
余白の走り書き。
『次の報告書には載せないで』
手が止まった。
──ジルベールの字だ。
私が戻れば、あの人はまた同じことをする。私の成果を奪い、愛人の名前で宮廷に報告する。そして私はまた、名前を消される。地下の暗い部屋で、誰にも見てもらえない研究を続ける。
(それでも?)
子供の怪我をした腕が、脳裏をよぎった。
(それでも、私は──)
ノートを閉じた。トランクの蓋を閉じた。
「……マルグリット」
「はい」
「──行きません」
声が震えていた。自分でわかった。
「別の方法で、助けます」
マルグリットが、深く頷いた。
◇◇◇
午後、オスカル閣下が研究室に来た。軍服の上着──珍しい。普段はフロックコートなのに。公務の顔だった。
「結界崩壊の報告が軍にも届きました。辺境の駐屯兵が魔物の排除に出動しています」
「率直にお聞きしたい。──ヴァルモン伯爵領の結界核を修復できるのは、貴女だけですか」
「はい」
即答した。声は──まだ少し震えていた。
「戻るつもりは、ありません」
先に言ったのは私だった。閣下が訊く前に。
「ですが──別の方法で助けることはできます」
汎用型の新しい結界核。どの領地でも使えて、どの魔導具師でもメンテナンスできる設計。
「完成すれば、ヴァルモン伯爵領だけでなく、王国全土の防衛に──」
「──仕組みのせいです」
閣下が遮った。
「一人の研究者が去っただけで崩壊する防衛システム。それは貴女のせいではなく、仕組みの欠陥です」
(私のせいではなく、仕組みのせい)
そう言ってくれる人が、いた。
罪悪感が消えたわけではない。子供の怪我は消えない。でも──「お前のせいだ」と言わず「仕組みを変えよう」と言ってくれる人がいる。
「……やりましょう」
閣下が静かに言った。
◇◇◇
午後いっぱい、汎用結界核の試作に取り掛かった。
閣下は隣にいた。「軍の立場から必要な要件を確認する」という名目で。
炉を調整する。魔力を注入する。データを記録する。
計算がうまく噛み合わない。変数が一つ足りない。ノートに数式を走り書きしながら、ぶつぶつ呟いた。
「共鳴周波数を下げれば安定するけど、出力も落ちる。逆に上げれば……いや、素材の耐久が──ああ、もう──」
「──ベルティエ嬢」
顔を上げた。閣下が実験台越しにこちらを見ている。
「集中している時の貴女は、声に出て考えるのですね」
(え、声に出ていた?)
耳が熱くなった。
「し、失礼しました。癖で──」
「いいえ。続けてください。思考の過程が聞けるのは、非常に──」
言葉が途切れた。閣下は少し目を伏せて、咳払いを一つ。
「……参考になります」
(何か別の言葉を飲み込んだような間だった)
でも深く考える余裕はない。計算の続きが気になる。
実験台に向き直って、作業を再開した。──その背中を閣下がどんな目で見ていたか、私は知らない。
扉の外にいたフレデリク副官が、廊下で小さく呟いた。
「閣下、今日もあの研究室ですか」
もちろん私の耳には届かなかった。
夕方──試作品の初期試験に成功した。
「成功……ですね」
「おめでとうございます、ベルティエ嬢。──これが完成すれば、同じ悲劇は二度と起きない」
同じ悲劇。一人の研究者が去っただけで崩壊する防衛システム。それを「私のせい」ではなく「仕組みのせい」として捉えてくれる。
前を向く理由が、一つ増えた。
◇◇◇
その夜。
ヴァルモン伯爵邸では、ジルベールがセレスティーヌを書斎に呼び出していた。
「結界を直せ」
「……できません」
「何?」
「あの結界核は──伯爵夫人の設計です。私には構造が理解できません」
セレスティーヌの声が震えていた。華やかな微笑みは、もう剥がれている。
ジルベールは、返す言葉を持たなかった。




