第4話 著者の名前
「貴女の研究を、貴女の名前で世に出しましょう」
──軍医長官は、まるで当然のことのように言った。
共同研究の正式な提案を受けたのは、学院に来て三週間が過ぎた頃だった。
オスカル閣下の執務室。壁一面の書架。学術誌の背表紙が整然と並ぶ中に、付箋が貼られたものが何冊かある。
全て──私の匿名論文が掲載された号だと、一目でわかった。
「三年前に初めて貴女の論文を読みました」
閣下は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。論文の引用箇所を丁寧に書き写した私的な研究メモ。付箋と赤い書き込みがびっしり。
「結界核の効率を三倍にする設計──これは既存の理論体系を根本から書き換える提案です。以来、同じ著者の論文が出るたびに追い続けていた」
三年間。私が匿名で出した四本の論文を、三年間追い続けていた人がいた。
(……そんなことがあるのか)
「推薦状は私が書きます。再投稿の手続きも学院で支援します。──あなたの研究には、あなたの名前が必要です」
「……お受けいたします」
声が小さかった。閣下は追及せず、論文の再投稿用紙を差し出した。
◇◇◇
著者欄に、名前を書く。
リュシエンヌ・ド・ベルティエ。
ペン先が紙に触れた瞬間、指が止まった。
(この名前を出せば──ジルベールとの間に決定的な亀裂が入る)
離縁の手続きは進めている。白い結婚の無効申請は受理待ちだ。法的にはもう繋がっていない。
でも──名前を出すということは、五年間の嘘を世に晒すということだ。同じ理論が、二人の名前で公に存在する。気づく人は気づく。関わりたくない人は距離を置くだろう。
ペンを持つ手が震えていた。
(……怯えているのか、私は。もう金庫に鍵をかけて、馬車に乗って、ここまで来たのに)
最後の一画を引き終えた時、文字が少しだけ滲んでいた。
(──泣いていない。滲んだのはインクのせいだ)
と、自分に言い聞かせた。
◇◇◇
翌日から、共同研究の打ち合わせが始まった。
私の研究ノートを閣下に見せる。三十七冊。古い順に並べて、初期の実験データから説明した。
閣下は一冊ずつ手に取り、頁を丁寧にめくっていく。計算式の行で指が止まり、設計図のスケッチの前で目を細める。
三冊目に差し掛かった時、閣下が手を止めた。
「……これだけの仕事を、あの環境で」
低い声。独り言のように呟いて、静かにノートを閉じた。
四冊目を開こうとした閣下が、設計図の一部を指差した。
「ここの共鳴周波数の設定──なぜこの値を選んだのですか。理論的にはもう少し高い方が出力は上がるはずですが」
「耐久性との兼ね合いです。出力だけを上げれば素材が三ヶ月で劣化します。この値なら──」
「しかし軍事用途では即応性が優先されます。耐久性は交換頻度で補えるのでは」
──反論。
血が引いた。
(また──私の考えは間違っていると?)
口が開く前に、手が膝の上で握りしめられていた。伯爵邸で何度も経験した感覚。「金のかかる趣味」。「素人にはわからないだろうが」。反論すらさせてもらえなかった五年間。
「……それは、私の設計を否定しているのですか」
声が低くなっていた。自分でも驚くほど。
閣下が顔を上げた。一拍の沈黙。
「──いいえ。設計の妥当性を検証しています」
静かな声だった。怒りも苛立ちもない。
「私は軍事運用の観点から質問しました。ですがベルティエ嬢の設計意図があるならば、まずそれを聞かせてください。論拠を」
──論拠を。
意見を聞いている。反論の余地を与えている。対等に、議論をしようとしている。
(……この人は)
指先の力が、少しだけ緩んだ。
「耐久性を犠牲にすれば、現場の魔導具師に過剰な負担がかかります。交換頻度で補えるのは理論上の話で、辺境の村には魔導具師が常駐していない──」
説明を始めると、閣下は黙って聞いていた。途中で遮らなかった。頷いて、ノートに何かを書き込んだ。
「なるほど。現場の実情を織り込んだ設計であれば、この値が最適解ですね。──失礼しました。私の方が前提を見誤っていた」
……謝った。
意見を述べて、反論を聞いて、自分が間違っていたと認めた。
(この人は──対等に扱ってくれている)
◇◇◇
打ち合わせの後、廊下を歩いていると声をかけられた。
「失礼、ベルティエ嬢。自分は錬金術研究室のデュヴァルと申します」
三十代半ばの男性研究者。人懐こい笑顔で、分厚い論文の束を持っている。
「先日再投稿された結界理論の論文を拝読しました。もしよろしければ、共同研究にもご参加いただけないかと──」
悪い人ではなさそうだ。だが、私が答える前に、廊下の向こうから足音が聞こえた。
オスカル閣下だった。デュヴァル研究員と私の会話が目に入ったらしい。
閣下の表情が、一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬。すぐにいつもの穏やかな顔に戻ったが──その「固まり方」が、何か引っかかった。
「ありがとうございます。ですが、しばらくはモンフォール閣下との共同研究に専念させていただきたいので」
デュヴァル研究員が去った後、閣下はわずかに肩の力が抜けたように見えた。
(気のせいだろうか)
◇◇◇
研究室に戻って、一人で机に向かう。
再投稿した論文の控えを読み返した。著者欄に、自分の名前がある。
──投稿先は王国学術誌。掲載されれば、宮廷にも学術界にも届く。
セレスティーヌ・ファヴレの名で発表された研究と、同じ理論の論文が、リュシエンヌ・ド・ベルティエの名で世に出る。気づく人は気づくだろう。
それが怖くないと言えば嘘になる。でも──名前を隠し続けることのほうが、もっと怖い。
ペンを持つ右手。荒れた手の甲。
(この人は──前の夫とは違う)
ノートを見もしなかった人と。三年間、論文を追い続けてくれた人と。反論を聞いて、自分の間違いを認めてくれた人と。
何が違うのかを言葉にできないまま、私はペンを走らせた。
でも指先は、もう震えていなかった。




