第3話 空白の設計図
実験用の炉に魔力を注ぐと、指先が微かに痺れる。
──いつもの感覚。けれど今日は、見ている人がいた。
学院に来て二週間が経った。
研究室の扉をノックする音がして、振り返ると、オスカル閣下が入口に立っている。今日で三度目だ。いつも同じ台詞──「品質確認に来ました」──で現れる。
(軍医長官がそこまで個別に見回るものなのかしら)
職掌には軍用魔導具の評価・認定も含まれると聞いた。研究室の視察は職務の範囲内なのだろう。
疑問は浮かんだが、口には出さなかった。見学者がいると緊張するが、この人の視線には不思議と圧がない。じっと観察しているのに、口を挟まない。
今日の実験は、新しい結界核の理論検証。ヴァルモン伯爵領で使っていた設計を汎用化するための、最初の一歩。
炉の温度を微調整し、魔力の注入速度を変える。両手の指先で微細な魔力の流れをコントロールしながら、頭の中では計算式が回っている。
二〇〇度。安定。注入速度を三割落として──よし、理論値と一致した。
ふっと息を吐いた時、背後から声がした。
「……これを、一人でやっていたのか」
振り返ると、閣下が実験台のデータ記録を覗き込んでいた。
「魔力制御、理論計算、炉の温度管理──同時に三つの変数を手動で操作している。これは……」
言葉が途切れた。絶句、という表現がそのまま当てはまる顔。
──だが、それだけではなかった。声が、微かに震えていた。閣下はすぐに顔を実験台に向けたが、その横顔に何かが滲んでいるのを、見えないふりはできなかった。
(そんなに驚くことだろうか)
「伯爵邸では助手もおりませんでしたので、一人で管理するのが習慣になっていただけです」
事実だ。ジルベールは研究に人手を割く気がなかった。「金のかかる趣味」というのが夫の評価だった。
「ベルティエ嬢」
閣下の声がわずかに低くなった。
「貴女の技術は、この学院の誰よりも精緻です。──一人でやっていた、ということが、信じ難い」
文脈のある褒め言葉。社交辞令ではない。
(前の夫が聞いたら何と言うだろう。「趣味にしては上出来だ」くらいか)
皮肉な思考が浮かんで、自分で自分が少し嫌になった。
◇◇◇
実験が終わると、小卓に紅茶が用意されていた。
毎日同じ時間に、淹れたての紅茶が届く。山吹色の花茶。故郷で飲んだものに似た、珍しい品。
(学院の購買部は品揃えがいいのね)
一口飲んで、実験記録のまとめに戻った。
◇◇◇
同じ頃──宮廷で、小さな波紋が広がっていた。
「セレスティーヌ嬢、新作の魔導具はいつ頃お披露目になりますかな」
魔導具開発委員会の席上。白髭の委員長が穏やかに──しかし催促の意を込めて尋ねた。
セレスティーヌ・ファヴレは華やかな微笑みを浮かべたまま、扇子で口元を隠した。
「少々お待ちくださいませ。現在、改良の最終段階で──」
嘘だ。設計図がない。設計図は全て、あの伯爵夫人の頭の中にある。
「前作の結界核の発表から半年が経ちますが」
「ええ、はい、ですからもう少し──」
声が微かに裏返った。扇子を握る指が白くなっていた。
帰りの馬車の中で、セレスティーヌは扇子を膝の上に置いた。手が震えていた。
(いつかこうなると、知っていた)
鏡の中の自分に、微笑んでみせた。華やかな微笑み。宮廷受けする微笑み。
──今日はうまく笑えなかった。
◇◇◇
ヴァルモン伯爵邸。書斎。深夜。
ジルベール・ド・ヴァルモンは、管理官の報告書を読み返していた。
『結界出力──標準値の九十二パーセント。低下傾向。先月の定期メンテナンスが未実施』
──メンテナンス。そういえば、結界の調整を誰がやっていたか、俺は知っていただろうか。
知っていた。
最初から、知っていた。
六年前。父が急逝し、二十二歳で家督を継いだ。領地の軍事評価は低く、宮廷からの報告催促が毎月届いた。「ヴァルモン伯爵領としての成果を示せ」。成果など何もなかった。父が残したのは古い屋敷と、安定しない結界と、空の金庫だ。
あの日──妻が地下の実験室から持ってきた試作品を見た。簡易照明具。小さくて、控えめで、光量は既製品と大差ない。ただし、消費魔力が三分の一だった。
妻は「まだ改良が必要です」と言って、すぐに地下に戻ろうとした。
俺は、その試作品を手の中で転がした。
──これを宮廷に出せば、今月の報告書が書ける。
一回だけ。一回だけのつもりだった。
翌月。妻が結界核の設計を上げてきた。通常の三倍の効率。こんなものを、地下の物置のような部屋で、助手もつけずに、一人で作っていた。
(これも──出せば)
手が伸びた。
セレスティーヌに出会ったのはその頃だ。没落男爵家の娘。華やかで、プレゼンテーションが巧い。「美しい女魔導士が開発した新型魔導具」──宮廷は飛びついた。
一回が二回になり、二回が十二回になった。止められなかった。止めようとしなかった、と言うべきか。
ある夜、妻の研究ノートの余白に指示を書いた。「次の報告書には載せないで」。
ペンが止まった。一瞬だけ。
──でも、書いた。
妻は何も言わなかった。次の日もいつも通り地下で実験をしていた。俺は何も聞かなかった。
それが五年間続いた。
今──机の上に、管理官の報告書がある。結界出力の低下。出力計の針が日に日に下がっている。
その横に、妻が残していった引き継ぎ書類の束が、まだ積まれている。あの日、帰宅して見つけた時は目を通しもしなかった。
置き手紙の一文が、脳裏を掠める。
『結界の維持方法は私しか知りません。ご自愛ください。』
(知っていた。──俺は最初から、あいつが全部作っていたことを知っていた)
嫌味だと思った。嫌味で済めば、いいのだが。
窓の外で、遠く森の方角から、獣の唸り声が聞こえた気がした。




