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私の研究成果を愛人の手柄にしたあなたへ~白い結婚の終わりに、もう一つだけ置き手紙を~  作者: 九葉(くずは)


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第2話 正しい名前

 王立学院の扉は、伯爵邸のどの扉よりも重かった。


 ──けれど、開いた先の空気は、どこよりも軽い。



 三日間の馬車旅を終えて、王都リシュモワールに着いたのは昼過ぎだった。


 受付の窓口で、若い事務官が羊皮紙の名簿を広げる。


「お名前をお願いいたします」


 一瞬、迷った。


 ヴァルモン伯爵夫人。五年間、そう名乗ってきた。けれどあの名前はもう、私のものではない。


「リュシエンヌ・ド・ベルティエです」


 声に出すと、舌の上で転がる音の感触が懐かしかった。父の名字。私が生まれた時からの名前。


 事務官が名簿にペンを走らせる。黒インクの文字が羊皮紙に染みていくのを、私はじっと見つめた。


 ──ベルティエの文字が、妙に美しく見える。



 ◇◇◇



 案内されたのは、学院の東棟三階の一室だった。


 扉を開けて──足が止まった。


 明るい。


 南向きの窓から陽光が差し込み、磨かれた実験台の表面が白く光っている。壁際には薬品棚と道具棚。角には小さな書架。一人で研究するには十分すぎる広さ。


 ヴァルモン伯爵邸の実験室は、地下の物置を改造した暗い部屋だった。窓はなく、湿気で道具が錆びた。それが五年間の「当たり前」だった。


「こちらが研究室になります。鍵はお一つ、窓の施錠は──」


「あの、これは……個室、ですか?」


「ええ。手配済みと伺っておりますので」


(学院の規定なのだろう)


 ありがたいことだ。──でも、こんな環境が本当に私に与えられるのだろうか。何か条件があるのではないか。対価を求められるのではないか。


 五年間で身についた警戒心が、喉の奥でざらりと鳴った。


 マルグリットが荷をほどきながら、窓辺に花を一輪活けてくれた。


「よい部屋でございますね、奥……リュシエンヌ様」


「ええ」


 窓の外には学院の中庭。研究者たちが行き交う姿。誰も私を知らない。誰も私を「伯爵夫人」と呼ばない。


 それだけのことが楽だと感じた自分を、少し不思議に思った。



 ◇◇◇



 翌朝、呼び出しがあった。


 軍医長官の執務室──本棟の二階、金縁の名札が掛かった部屋。


 扉を叩くと、低い声が「どうぞ」と応じた。


 部屋に入って、最初に目に入ったのは書架だった。壁一面を埋め尽くす学術誌の背表紙。その数の多さに息を呑みかけた時、机の向こうで男性が立ち上がった。


 軍医長官、オスカル・ド・モンフォール。


 三十代の前半だろう。軍服ではなく、紺色のフロックコートを端正に着こなしている。切れ長の目。落ち着いた、深い声。


「ベルティエ嬢。お待ちしておりました」


 丁寧だが、余計な装飾のない挨拶。社交辞令の匂いがしない。


「軍医長官閣下、この度はご配慮いただき──」


「一つ、ご確認したいことがあります」


 遮られた。──それから、一瞬だけ言葉に詰まった。咳払いを一つ。


「……失礼。順序を間違えました。まず、ご着任の歓迎を申し上げるべきでした」


 眉が少しだけ寄る。自分の段取りの悪さに苛立っているように見えた。


(……社交が得意な方ではないのかしら)


 不思議な人だ。伯爵邸の社交界で出会ってきた男たちは、もっと滑らかに言葉を紡いだ。この人は──研究の話になると急に饒舌になるのに、それ以外では不器用だ。


「王国学術誌に、過去三年にわたって匿名で投稿された魔導具理論の論文が四本あります」


 ──そこから先は、堰を切ったように滑らかだった。


「防衛結界の効率化理論、対魔物探知の周波数解析、軍事用魔導具の小型化設計、結界核の耐久性向上──いずれも独創的な理論で、私はこの三年間、著者を探しておりました」


 心臓が跳ねた。


 あの論文を──読んでいた人がいたのか。


 匿名で出したのは、夫に知られたくなかったからだ。名前を伏せた、小さな抵抗。


 でも──読んでくれていた人がいた。三年間も。


「ベルティエ嬢。あの論文の著者は、あなたですね」


 断定ではなく、確認だった。相手の目に浮かんでいるのは、好奇心でもなく、追及でもない。


(この人は──私の研究を見ている)


 喉が詰まった。五年間、誰にも見てもらえなかったものを、この人は見ていた。


「──はい」


 一言だけ答えた。声が揺れなかったのは、奇跡に近い。


 オスカル閣下は頷き、机の引き出しから一冊の冊子を取り出した。学術誌の最新号だ。


「貴女の研究を、正しい名前で世に出しませんか」


 正しい名前。セレスティーヌ・ファヴレではなく。リュシエンヌ・ド・ベルティエという名前。


 指先が震えそうになるのを、膝の上で握りしめて堪えた。


「……ありがたいお話です。ですが少し、考えるお時間をいただけますか」


 即答できなかったのは、恐かったからだ。


 また利用されるのではないか。この人も結局、私の成果を欲しいだけなのではないか。


(五年で学んだ。善意を、簡単に信じてはいけない)


「もちろんです」


 オスカル閣下はそれ以上何も言わなかった。追い詰めなかった。


 ──前の夫なら、ここで「俺のために」と言ったはずだ。


 この人は、言わなかった。


 それだけのことが、胸に小さく突き刺さった。



 ◇◇◇



 研究室に戻って、一人で机に向かう。


 新しい実験台。南向きの窓。陽の光。


 トランクから研究ノートを取り出して、実験台の上に並べた。五年分、三十七冊。古いものは表紙が擦れているけれど、中身は一頁も欠けていない。


 ノートの山を、しばらく黙って見つめた。


 ここでは──私の名前で、研究ができる。


 置き手紙を残してきた伯爵邸のことを、一瞬だけ思った。あの結界は、どのくらい保つだろう。調整なしなら、一ヶ月もすれば出力が落ち始める。三ヶ月で危険水域。


 でも。


(もう、私の役目ではない)


 窓の外で、鐘が鳴った。午後の研究開始を告げる鐘。


 ペンを取る。新しいノートの最初の頁に、日付を記した。


 ──その下に、研究者の名前を書いた。


 リュシエンヌ・ド・ベルティエ。


 自分の名前を。自分のノートに。


 ペンを置いた時、小卓の上に紅茶が一杯、湯気を立てていることに気づいた。いつ届いたのだろう。山吹色の、見慣れない花茶だった。


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