第10話 新しい朝
朝の光が、研究室の銘板を照らしていた。
そこには──『リュシエンヌ・ド・ベルティエ』。私の名前が、私の場所に、ちゃんとある。
発表会から一ヶ月が経った。
季節が移り、学院の中庭の木々が若葉を広げている。窓を開けると、春の空気が研究室に流れ込んでくる。実験台の上の資料が風に揺れた。
マルグリットが、書簡を一通持ってきた。
「リュシエンヌ様。ベルティエ伯から──」
父からの手紙。封蝋に実家の紋章。
開いた。短い文面。
『宮廷の議を経て、ヴァルモン伯爵ジルベールに対する処分が確定した。伯爵位から子爵位への降格。宮廷への出仕停止三年間。
セレスティーヌ・ファヴレ──宮廷からの永久追放。魔導士資格の剥奪。
また、白い結婚の無効申請が正式に受理された。これにて、お前とヴァルモン家の法的関係は全て解消される。嫁入り支度金の返還手続きも完了している。
──体に気をつけなさい。お前の母も、安堵しているよ。』
便箋を膝の上に置いた。
一瞬だけ、目を伏せた。
(……終わった)
安堵ではなかった。痛快でもなかった。
ただ──空虚だ。五年間が「処分確定」の四文字で閉じられた。あの地下室。荒れた手。名前を消された十二の研究。それが全部、公文書の一行に収まっている。
数秒。
風が窓から入って来て、便箋の角を揺らした。
(もう──関係ない)
関心がなくなったのではない。必要がなくなったのだ。
ジルベールのことを考える時間は、もう私のものではない。この時間は、研究のために使う。隣にいる人のために使う。
「……そうですか」
それだけ言って、便箋を封筒に戻した。
マルグリットが横で、静かに目を拭いていた。
◇◇◇
午前中は実験室で汎用結界核の最終調整をしていた。
あともう少し。共鳴周波数の微調整が終われば、試作品が完成する。一人が抜けても壊れないシステム。ヴァルモン伯爵領だけでなく、王国全土の防衛に使える設計。
──ノックの音がした。
実験データから顔を上げると、扉の前にオスカル閣下が立っていた。
何かが──おかしい。
いつもはフロックコートだが、今日は少し良い生地の、紺色の上着を着ている。胸ポケットに小さな白い花が挿してある。名前は知らない。清楚な、一輪だけの花。
それから──閣下がいつも座る椅子に座らなかった。立ったまま。背筋がまっすぐすぎる。
(緊張している?)
「閣下。品質確認ですか?」
「──いいえ。今日は……個人的な用件です」
個人的な用件。
閣下が一歩前に出た。それから止まった。また一歩。
(何だろう。この人がこんなにたどたどしいのは初めて見る)
「ベルティエ嬢。──いや」
閣下が目を伏せた。手が一度握られて、開かれて、また握られた。
「リュシエンヌ嬢──」
名前で呼ばれた。初めて。
心臓が跳ねた。
「私に──貴女の研究を、一生隣で見守らせてください」
──言った後で、閣下の唇が動いた。何か言い直そうとしている。
「いや──見守る、ではなく」
目を上げた。真っ直ぐに。赤い目ではなかった。──でも少し潤んでいた。
「一緒に歩かせてください」
──ああ。
(この人は──「見守る」を撤回した)
見守る、は上からだ。保護者の目線だ。この人はそれに気づいて、言い直した。
一緒に歩く。
隣に立つのではなく。守るのでもなく。
一緒に歩く。
用意してきた言葉がうまく出なくて、言い直して、それでも声が震えていて──この不器用さが。
(ああ、もう)
好きだ。
そう思ったら、口が先に動いていた。
「ええ。──私も、あなたの隣を歩きたいと思っていました」
声が少し震えたのは、ご愛嬌ということにしてほしい。
閣下の目が、大きく見開かれた。
(……受け入れてもらえると思っていなかったのか、この人は)
手を差し出した。
白く粉を吹いた、荒れた手を。
ジルベールに「見苦しい」と言われた手。火傷を負った時に包まれた手。
今は──自分から差し出す手。
閣下がその手を取った。掌が大きくて、温かくて、少しだけ汗ばんでいた。
(この人も──緊張していたんだ)
握り返した。
閣下が私の手を引き寄せた。指先に唇が触れた。──軽く、慎重に、壊れ物に触れるように。
初めて──泣いた。
五年間、一度も泣かなかった。置き手紙を書いた時も。伯爵邸を出た時も。発表保留を言い渡された時も。壇上に立った時も。
今、泣いた。
嬉しいから。
「……すみません。泣くつもりは──」
「泣いてください」
閣下の声が優しかった。
「私も──もう少しで泣きます」
(……もう少しで、って──もう泣いてるじゃない、閣下)
笑った。泣きながら。
心からの笑顔。初めての。
◇◇◇
夕方。
閣下が去った後──いや、オスカルが去った後。
一人で研究室に残った。
実験台の上に、新しい実験ノートがある。白い表紙。まだ何も書かれていない一冊目。
ペンを取った。表紙をめくって、最初の頁を開く。
──荒れた手を、見た。
白い粉。ひび割れ。五年分の痕跡。
でも──「見苦しい」とは、もう思わない。
この手は記録した。三十七冊の研究ノートを。
この手は証明した。百人以上の前で。
この手を差し出した。自分の意志で。
新しいノートの最初の頁に、日付を記す。今日の日付。
その下に、名前を書いた。
リュシエンヌ・ド・ベルティエ。
──文字は滲まなかった。震えもしなかった。
日が暮れてきた。学院の鐘が夕刻を告げる。窓の外に、春の夕空が広がっている。
ペンを置いて、窓辺に立った。
遠くの屋根の向こうが、ヴァルモン伯爵領のある方角だ。──もう見ない。振り返らない。
反対側には、学院の中庭。研究者たちが帰路につく姿。のんびりした足取り。日常の風景。
(さて──)
机に戻った。ノートを広げる。ペンを取る。
「次の研究を始めましょうか」
声に出して言った。
返事はない。当たり前だ。一人の研究室だ。
──でも明日からは、隣に人がいる。
新しいノートの白い頁にペンを走らせる。
荒れた手が、次の設計図を描き始めた。




