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私の研究成果を愛人の手柄にしたあなたへ~白い結婚の終わりに、もう一つだけ置き手紙を~  作者: 九葉(くずは)


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第1話 置き手紙

 私の成果を、夫は愛人の手柄として宮廷に報告していた。


 ──五年間。十二件。すべて。



 金庫の蓋を閉める手が、震えていた。


 中に収めたのは防衛結界の核──その最新の設計図。三ヶ月かけて完成させた、ヴァルモン伯爵領の守りの要。通常の結界核の三倍の効率を持つ、私だけの設計。


 そして私だけが、維持方法を知っている。


 鍵穴に鍵を差し込んだ。回す前に、手が止まった。


(これを渡せば、領民は守られる)


 辺境の村。あの小さな広場で遊ぶ子供たち。市場で野菜を売る老婦人の笑顔。結界が彼らを魔物から守っている。私の結界が。


 指先がじんと痺れた。魔力を注ぎすぎたせいで、両手の甲はもう随分前から荒れている。白い粉を吹いた手の甲──この手で領民を守ってきた。それを捨てるのか。


 視線が落ちた。金庫の横に置いた研究ノート。その余白に、見覚えのある走り書き。


  『次の報告書には載せないで』


 ──夫の字だ。


 私の研究を他人名義にしろという指示。消さずに置いてある自分に気づいた時、もう答えは出ていた。


 かちり。


 鍵が回った。五年が閉じた。



 ◇◇◇



「奥様、お荷物はこれで全てでございます」


 マルグリットが控えめに声をかける。四十を過ぎた侍女の目元に、こらえきれない赤みが差していた。


 ──泣いてくれているのだ、この人は。私の代わりに。


「ありがとう、マルグリット。あとは書斎に寄るだけ──」


 声が裏返った。


 ほんの一瞬。語尾が掠れて、言葉の尻尾が震えた。


 マルグリットが目を見開く。五年間、一度も声を荒げなかった主人が。


「──寄るだけよ」


 言い直した。完璧に。まるで今の一瞬がなかったかのように。


 でもマルグリットは聞いてしまった。私も聞かれてしまった。


 私室を見回す。嫁いでから五年を過ごした部屋。窓際の小卓に一輪挿しの花がある。マルグリットが毎朝活けてくれるそれだけが、この部屋の「暮らし」の痕跡だった。


 夫がこの部屋を訪ねたのは、結婚式の翌日が最後だ。「別室のほうが互いに気を遣わない」──あの言葉を聞いた時、安堵したのか傷ついたのか。今となっては、どちらだったかもわからない。


(名ばかりの夫婦だったのだから、当然か)


 トランク二つ。そのうち一つは丸ごと研究ノートだ。五年分の実験記録、計算式、設計図の控え──私が研究者であった証の全て。


 服は最小限でいい。ノートだけは、一冊たりとも置いていかない。



 ◇◇◇



 夫の書斎の扉を開けた。


 整頓された机の上に、宮廷への報告書の束がある。一ヶ月前に偶然見つけた時、全て頭に入れてある。


 あの夜のことは忘れない。夫の留守中に書斎の灯りが点いていて、使用人が消し忘れたと思って入った。机の上の報告書を何の気なしに読んで──凍りついた。


 十二通の公式報告書。開発者の欄に記されていた名前。


 セレスティーヌ・ファヴレ。


 私の名前は、どこにもなかった。


 防衛結界の核。対魔物探知具。暖房用魔導具の改良型。全て、全て、この手で設計し、この手で組み上げたもの。それが一つ残らず、会ったこともない女の名で宮廷に届けられていた。


 ──あれから一ヶ月。教会への婚姻無効申請の準備、証人の確保、嫁入り支度金の返還交渉。全てを水面下で進めた。夫は何一つ気づかなかった。


 妻が何をしているかに、この男は最初から関心がなかったのだ。


 机の上に、三つの書類を置く。


 一つ目──引き継ぎ書類。領地の結界管理、魔導具の在庫、定期メンテナンスの手順。完璧に整えた。後任がいれば、の話だけれど。


 二つ目──白い結婚の無効申請書。婚姻後五年間、実質的な夫婦生活がなかった場合に申請できる制度。証人欄にはマルグリットともう一人、古参の執事の署名がある。


 三つ目。


 便箋一枚。


 ペンを取った。手が震えた。一文字目が歪んだ。


 ──駄目だ。こんな字では。


 便箋を裏返して、新しい一枚を引き出す。深呼吸の代わりに、ゆっくりと瞬いた。


 一行だけ。



  『結界の維持方法は私しか知りません。ご自愛ください。』



 署名はしなかった。わかるだろう。この屋敷で結界に触れていた人間は、私しかいない。


 書類の束を整え、ペーパーウェイトを載せる。銀のペーパーウェイトは夫が社交界で貰った贈答品で、セレスティーヌの名が刻印されていた。


(……ちょうどいい重石ね)


 口元がほんの少し歪んだ。笑ったのか、泣きそうだったのか、自分でもよくわからない。



 ◇◇◇



 玄関広間で、使用人が数人並んで見送ってくれた。涙ぐむ者もいた。


「奥様、どうかお元気で」


 料理番の老婦人が、道中用の包みを持たせてくれる。


「ありがとう。皆もどうか」


 微笑んだ。完璧に、穏やかに。


 五年間で身につけた、伯爵夫人の微笑み。感情を見せず、誰も傷つけず、何も壊さない微笑み。


 ──指先だけは白くなるほど、握りしめていた。マルグリットだけがそれに気づいて、そっと目を伏せた。


 伯爵は不在だった。今日も、あの女の元にいるのだろう。


 それでいい。顔を合わせて何か言う必要は、もうない。



 ◇◇◇



 馬車が伯爵邸の門を出た。


 窓の外を流れていく見慣れた並木道。結界のおかげで安全な、緑の豊かな領地。──私が守ってきた風景。


 マルグリットは向かいの座席で、黙って目を伏せていた。


「泣いていいのよ、マルグリット」


「……奥様こそ」


(泣かない)


 泣いたら、負けた気がするから。


 泣いたら、五年間をまるごと「可哀想な女の歳月」にしてしまう気がする。あの地下室で費やした時間は、哀れまれるためのものではなかった。


 ──でも、指先が震えている。微笑みを保った唇が、わずかに引きつっている。完璧に去れたつもりでいた。完璧になんて、去れていない。


 代わりに、膝の上の両手を見た。


 白く粉を吹いた、荒れた手。五年間、毎日魔力を注ぎ続けた手。夫は一度も、この手を見なかった。「見苦しい」と言ったことがある。手袋をしろ、と。


 指先をそっと握りしめる。


 ──これからは、この手で、私自身のために研究をする。


 王都の王立学院。父が手を回してくれた新しい居場所。


 馬車が揺れる。ヴァルモン伯爵の紋章が入った門が、後ろへ遠ざかっていく。


 振り返らなかった。


 ──振り返りたくなかったから、振り返らなかった。


 その日の午後、伯爵領の結界出力計の針が、ほんの少しだけ下がった。


 まだ、誰も気づいていない。


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