誰もいない水族館の深夜警備
序章 閉館のあとに
午後九時三十二分。最後の蛍光灯が落ちると、水族館は別の場所になる。
昼間の喧騒がまるで嘘みたいに、館内は水の音だけになる。循環ポンプの低い唸り。ときどき水面を叩くなにかの尾鰭。空調のかすかな吐息。それらが混ざり合って、建物全体がひとつの生き物みたいに呼吸している。
どこかの水槽で水が跳ねる音がして、それが廊下の端まで反響する。昼間なら絶対に聞こえないような小さな音だ。静寂というのは音がないことではなくて、音がよく聞こえるようになることなのだと、ここで働き始めてから知った。
俺はロッカーで制服に着替えて、懐中電灯の電池を確認した。予備の電池をポケットに入れる。この作業ももう半年になるから、体が勝手に動く。
瀬川秋人、三十二歳。深夜警備員。
それが今の俺の全部だ。
名刺に刷る肩書きがサラリーマンから警備員に変わっただけで、世界がこんなに静かになるとは思わなかった。前の会社にいた頃は、朝の満員電車から始まって、終電まで誰かの声を聞いていた。上司の叱責、クライアントの無理難題、同僚の愚痴。耳が休まる時間なんてなかった。
それが全部消えた。昨日まで自分を縛っていたものが、制服を変えただけで全部ほどけた。あっけないといえばあっけない。でもそれだけのことだったのだとも思う。
今は逆だ。午後十時から翌朝六時まで、話し相手は誰もいない。
いないはずだった。
引き継ぎのとき、前任者の吉岡さんは妙なことを言った。
「深海エリアだけは、ちゃんと巡回してやってくれ」
六十過ぎの吉岡さんは腰を痛めて辞めることになった。最終日に館内を一緒に回りながら、やけに真剣な顔でそう言った。
「あそこの連中、話し相手がいなくなると寂しがるから」
冗談だと思った。愛想笑いを返すと、吉岡さんは首を振った。
「冗談じゃないよ。まあ、そのうちわかる」
それだけ言って、吉岡さんはロッカーの鍵を渡して帰っていった。
最初の一週間は何も起きなかった。当たり前だ。暗い水槽のあいだを懐中電灯で照らしながら歩いて、異常がないことを確認して、詰所に戻ってコーヒーを飲む。それだけの繰り返し。
夜の水族館は、慣れるまで不気味だった。ガラスの向こうで何かが動く気配がする。振り向くと、自分の影が水槽に映っているだけ。非常灯の光が水面に揺れて、壁に奇妙な模様を描く。想像力が勝手に暴走する。ここにいると感覚がおかしくなるのかもしれない、と思った。
変わったのは八日目の夜だった。
深海エリアの水槽の前を通りかかったとき、ガラスの向こうから声がした。
ひどくのんびりした、どこか間延びした声だった。
「あのう、すみません」
振り返っても誰もいない。当然だ、閉館後の水族館に客はいない。
「こっちです。ガラスの、こっち側」
懐中電灯の光を水槽の中に向けた。暗い水の中、ゆらゆらと漂う小さな影があった。耳のような鰭をゆっくり動かして、透き通った体をふわふわさせている。
メンダコだった。
「やっと気づいてくれました」
声は確かにそこから聞こえていた。
俺は懐中電灯を落としそうになった。
その夜のことは今でも鮮明に覚えている。最初に思ったのは、自分はついにおかしくなったんだということだった。転落した人生の終着点が幻聴とは、出来すぎだと思った。でも翌日、同じ水槽の前を通ると、また声がした。その翌日も。そのまた翌日も。
幻聴は三日も続かない。そう思って、俺は恐る恐る返事をした。そこから全部始まった。
あれから半年。俺はもう驚かない。
驚かないどころか、毎晩の巡回が少し楽しみになっている自分がいる。こんなことは誰にも言えないし、言ったところで信じてもらえないだろう。酒の席の与太話にしても出来が悪すぎる。
だいたい、誰に言うというのか。友人と呼べる人間はもういない。会社を辞めたときに、ほとんどの繋がりが切れた。残ったのは、年に一度LINEが来るかどうかという程度の、もはや知人と呼ぶのもおこがましい関係が数人。
だから俺はただ黙って、今夜も巡回に出る。
詰所のドアを開けると、水族館の闇が待っていた。青白い非常灯だけが等間隔に並んで、廊下をぼんやりと照らしている。靴底が床を叩く音が、やけに大きく響く。
深海エリアに足を踏み入れると、空気が変わった。温度が二度ほど下がる。水槽から漏れる青い光が、壁や天井にゆらゆらと揺れて映っている。海の底を歩いているような気分になる。
最初の水槽の前で、俺は足を止めた。
今夜も、あいつらが待っている。
第一章 やわらかいということ
深海エリアの入口から三番目の水槽。容量四百リットルの小さな水槽の中に、メンダコはいる。
昼間は薄暗い照明の下、岩の隙間に隠れてほとんど動かない。来館者のほとんどは素通りしていく。解説パネルを読んで、ふうんと呟いて、次の水槽へ。深海生物にしては地味な見た目だから仕方ないのかもしれない。
でも夜になると、こいつは妙におしゃべりになる。
「瀬川さん、今日のお仕事はどうでしたか」
水槽の前に立つと、メンダコがふわりと岩陰から出てきた。透明感のある体を揺らしながら、ガラスの近くまで寄ってくる。
「仕事っていうか、まだ始まったばっかりだよ」
「あ、そうでした。すみません。毎回同じことを聞いてしまいます」
メンダコは耳みたいな鰭をぱたぱたさせた。人間なら照れ笑いに当たる動作なのかもしれない。
「いいよ、気にすんな」
「瀬川さんは優しいです。吉岡さんも優しかったですけど、瀬川さんは優しさの種類が違います」
「どう違うんだ」
「吉岡さんの優しさは、お味噌汁みたいにあったかかったです。瀬川さんの優しさは、深い海の水みたいに静かです」
詩的なことを言う生き物だ。体長十五センチにも満たない、ぶよぶよした軟体動物のくせに。
「褒められてるのか」
「はい。褒めてます」
メンダコはガラスに張り付くようにして、こちらを見上げた。目がどこにあるのか正直よくわからないが、見られている感覚だけはある。
「瀬川さん、今日はちょっと疲れた顔をしていますね」
「そうか」
「はい。目の下が暗いです。ちゃんと寝てますか」
「昼夜逆転してるからな。慣れたつもりでも体はそうでもないらしい」
「無理しないでくださいね」
「ああ」
こういう会話が、不思議と心地いい。メンダコには裏がない。当たり前だ、深海の生き物が打算で会話するわけがない。ただ思ったことをそのまま言っているだけだ。人間の世界では、たったそれだけのことがどれほど難しいか。
前の会社では、おはようございますの一言ですら計算が入っていた。声のトーン、タイミング、相手との距離感。上司には元気よく、苦手な同僚には当たり障りなく。挨拶ひとつに神経を使う生活を七年も続けていたのだから、おかしくならないほうがおかしい。
「ところで瀬川さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「人間は、なんでそんなに硬いんですか」
「硬い?」
「体じゃなくて。心が」
メンダコはゆっくりと鰭を動かしながら、水中を漂った。
「わたしたち深海の生き物は、だいたいやわらかいんです。骨がないものも多いし、あっても細くて曲がります。深海では硬いと壊れちゃうんです。水圧がすごいですから。だからみんなやわらかく、ふにゃふにゃになることで、つぶされないようにしてるんです」
「へえ」
「人間も、いろんな圧力を受けてるんでしょう。お仕事とか、人間関係とか」
耳が痛い話だ、と思った。
「なのに硬いまま耐えようとする人が多い気がします。吉岡さんが言ってました。瀬川さんの前にもう一人来た人は、三日で辞めたって。理由は、夜勤がきついから、じゃなくて、暗いところにいると自分のことを考えすぎて辛くなるから、だったそうです」
「……そいつの気持ちはわかるな」
「わかるんですか」
「暗いと余計なことを考えるだろ。昼間はごまかせることが、夜になると全部出てくる」
「瀬川さんも出てきますか」
「最初の頃はな」
俺は水槽の前の手すりに寄りかかった。ひんやりした金属の感触が背中に伝わる。
「前の会社で七年働いて、ある日突然、全部がどうでもよくなった。嫌になったんじゃない。怒りも悲しみもなく、ただスイッチが切れたみたいに気力がなくなった」
「それは、硬くなりすぎたんですね」
「そうかもな」
「やわらかかったら、曲がったりへこんだりしても元に戻れます。でも硬いと、限界を超えたとき折れちゃうんです。ポキッて」
メンダコの言葉は単純だ。でもその単純さが妙に刺さる。
「だからわたし、やわらかいままでいようと思ってるんです。馬鹿にされてもいいから。ふにゃふにゃだって笑われてもいいから。折れないことのほうが大事です」
「お前は偉いな」
「偉くないです。ただの臆病者です。硬くなる勇気がないだけです」
メンダコは体をぐにゃりと曲げてみせた。
「でも、臆病でも生きてますから。五千メートルの海の底で、ちゃんと生きてますから」
折れるくらいなら、ふにゃふにゃでいい。
そんな言葉がサラリーマン時代の俺に届いていたら、何か変わっていただろうか。変わらなかっただろうな。あの頃の俺は、硬いことが正しいと信じていたから。石みたいに硬くならないと生き残れないと、本気で思い込んでいた。上司にもそう教えられた。根性で乗り切れ、弱音を吐くな、倒れるまでやれ。それが社会人だと。
結果、俺は折れた。ポキッと、メンダコの言う通りに。
「瀬川さん、また明日も来てくれますか」
「来るよ。仕事だからな」
「お仕事じゃなくても来てくれますか」
「……どうだろうな」
「来てくれると嬉しいです」
メンダコはふわりと岩陰に戻っていった。透き通った体が暗い水に溶けていく。
俺は次の水槽に向かった。
第二章 五千日の断食
深海エリアの奥、他の水槽よりひと回り大きな水槽がある。底に白い砂が敷かれていて、その上に灰色の塊がじっとしている。
ダイオウグソクムシ。
全長四十センチ近い、巨大なダンゴムシみたいな深海生物。昼間はこいつが一番人気がある。子供たちがガラスに張り付いて、でっかいと叫ぶ。母親たちは気持ち悪いと顔をしかめる。父親たちはかっこいいなと呟く。反応は様々だが、ともかく注目は集める。
だが、夜のこいつは昼以上にじっとしている。微動だにしない。
最初の頃は、こいつとどう会話すればいいのかわからなかった。声をかけても返事がない。五分待っても十分待っても、沈黙。死んでいるのかと心配になって飼育員に聞いたこともある。元気ですよ、もう五年以上何も食べてませんけど、と笑顔で言われて余計に困惑した。
こいつが初めて口を利いたのは、俺が働き始めて一ヶ月目の夜だった。
「……急ぐな」
低く、ざらついた声だった。地面の下から響いてくるような重さがあった。
あの夜から、時々こいつは話す。時々というのは本当に時々で、三日に一回か、一週間に一回か。気まぐれとも違う。言いたいことがあるときだけ口を開く。そういう生き方をしている。
今夜、水槽の前に立つと、砂の上の灰色の塊がわずかに触角を動かした。
「来たか」
「ああ、来たよ」
「座れ」
言われるまでもなく、俺は水槽の前に腰を下ろした。もう定位置みたいになっている。冷たい床にあぐらをかいて、水槽を見上げる格好になる。
長い沈黙が続いた。こいつとの会話ではこれが普通だ。沈黙を嫌がったら、こいつの前にはいられない。
「瀬川」
「なんだ」
「お前、ここに来る前は、何を急いでいた」
唐突な問いだ。でもダイオウグソクムシの問いはいつも唐突で、いつも核心を突く。
「急いでたつもりはないけどな」
「嘘をつくな。お前の足音で分かる。ここに来た頃のお前の足音は、追われている人間の足音だった」
「追われてなんかいない」
「追っていたのか」
「何をだよ」
「さあ。それはお前が知っていることだ」
こいつの話し方は禅問答みたいだ。答えを言わない。問いだけを投げて、あとは黙る。
でも考えてみれば、俺はずっと何かを追いかけていた気がする。出世、評価、安定した生活。追いかけているつもりで、実は追われていた。締め切り、ノルマ、上司の期待。追いかけることと追われることの境目が曖昧になって、気がつけばただ走っていた。どこに向かっているのかも分からないまま。
走ること自体が目的になっていた。立ち止まったら置いていかれる。休んだら負ける。そう思い込んで、体が悔鳴をあげても走り続けた。そしてある日、足が止まった。意志とは関係なく、勝手に。
「お前は今、止まっているな」
「ああ、止まってるよ。止まったっていうか、動けなくなったんだけど」
「止まることは悪くない」
「そうか」
「俺は五千日、動いていない。五千日、何も食っていない。人間はそれを異常だと言う。だが俺にとっては、ただそういうものだ」
五千日。十三年以上。何も食べずに、ただそこにいる。
「待っているのか、何かを」
「待つという言葉は正確ではない。人間の待つには、期待がある。こうなってほしいという望みがある。俺にはない。ただ、ここにいる」
「退屈じゃないのか」
「退屈は、時間を無駄にしているという感覚だろう。俺には時間を無駄にするという概念がない。どの瞬間も同じ重さだ。昨日の一秒と今日の一秒に違いはない」
人間にはできない発想だ。俺たちは常に比較している。去年の自分、来年の自分、同世代の誰か。時間に値段をつけて、高い安いと一喜一憂する。
「瀬川。お前に必要なのは、答えじゃない。問いを手放すことだ」
「問いを手放す」
「何のために生きているのか。このままでいいのか。そういう問いを抱えている間は、お前は動けない。問いを抱えたまま動くと、また走り出す。同じことの繰り返しだ」
「じゃあどうすればいい」
「問うな。在れ」
また禅問答だ。でも、言いたいことはなんとなくわかる。
犬は、なぜ生きているのかと問わない。木も、魚も、深海の底の巨大なダンゴムシも。ただそこにいる。それで十分だと知っている。問い始めたのは人間だけだ。そして問い始めた瞬間から、人間は安らげなくなった。
会社員だった頃の俺は、問いだらけだった。このプロジェクトに意味はあるのか。この残業に見合う給料をもらっているのか。この人生は正解なのか。問い続けて、答えが出ないまま消耗した。ダイオウグソクムシみたいに問いを手放せたら、少しは楽だったかもしれない。
「お前の足音は、前より静かになった」
「そうか」
「いい傾向だ」
ダイオウグソクムシの触角がかすかに動いた。こいつなりの微笑みなのかもしれない。
そうして沈黙が戻った。今度は居心地のいい沈黙だった。俺は水槽の前にもう少しだけ座っていた。急ぐ必要はない。この建物の中には、俺とこいつらしかいないのだから。
沈黙の中で、俺は自分の呼吸の音を聞いた。ゆっくりと、深く。以前はこんな風に自分の体と向き合うことなどなかった。常に外の世界に意識が向いていた。だが今は、この静寂の中で、自分の内側にあるものに耳を傾けることができる。それは、ダイオウグソクムシが教えてくれた「在る」ということなのかもしれない。
やがて俺は立ち上がり、軽く水槽に手を当てた。ガラスの向こうで、灰色の塊は微動だにしなかった。最後に触角がかすかに動いた。それがこいつなりの、おやすみだと思った。
次の水槽へ向かう俺の足音は、たぶん、前より少し静かだった。
第三章 深いところの灯り
深海エリアの中間地点、順路が折れ曲がったところに、ひときわ暗い水槽がある。照明はほぼゼロに近い。ガラスの前に立っても中はほとんど見えない。闇に沈んだ水の中に、何がいるのかすら分からない。
でも待っていると、ぽつりと光が灯る。
小さくて、青白くて、ゆらゆらと揺れる光。暗闇の中で勝手に生まれて、勝手に消える。また別の場所に灯って、漂って、消える。
チョウチンアンコウだ。
額から伸びた突起の先端が発光する。あの光は獲物を引き寄せるための罠なんだと、解説パネルには書いてある。美しく見える光の正体は、冷徹な捕食のための道具。
でもこいつ自身は、そんな風には話さない。
「あら、来たの」
ハスキーで、どこか色気のある声。最初に聞いたときは正直ぎょっとした。姐御肌というか、場末のバーのママみたいな喋り方をする。
「今日も寒いわねえ。あんた、上着一枚じゃ足りないでしょ」
「制服の上にジャンパー着てるから平気だよ」
「嘘おっしゃい。さっきから鼻すすってるじゃないの」
確かにすすっていた。深海エリアは館内で一番冷える。
「ちゃんと温かくしなさいよ。風邪ひいたら誰が来てくれるのよ」
「代わりの警備員が来るだろ」
「そういう話をしてるんじゃないの。あんたが来なくなるのが嫌なの」
チョウチンアンコウは光をぽうっと灯して、ガラスの前まで浮かび上がってきた。暗闇の中で、あの光だけが頼りだ。顔は――正直に言えば、怖い。巨大な口に鋭い歯。深海魚の中でもかなりの悪面だ。
でも声だけ聞いていると、そんなこと忘れてしまう。
「今日はなんかあったの。顔が暗いわよ」
「暗いも何も、ここが暗いから表情なんて見えないだろ」
「見えなくたってわかるのよ。雰囲気で。あんたがここに入ってきたときの空気が、いつもよりちょっと重かったから」
鋭い。人の機微を読む力は、人間以上かもしれない。暗闇で暮らしているから、目以外の感覚が研ぎ澄まされているのだろうか。
「別にたいしたことじゃない。昼間、携帯を見たら、元カノがSNSで結婚報告してただけだ」
「あらまあ」
「二年前に別れた相手だ。今さらどうってことない」
「どうってことないなら、顔が暗くならないでしょうに」
図星だった。どうってことないと思いたかっただけだ。
「未練があるの」
「未練とは違うな。あいつが幸せなのは素直に喜べる。でも、なんていうか、自分だけ取り残されてる感じがするんだよ。世界が前に進んでいるのに、俺だけ深夜の水族館で足踏みしてる」
「足踏みねえ」
チョウチンアンコウは光をぐるりと回した。暗い水中で光の弧が揺れる。
「あたしはね、ずっとここにいるわよ。この暗い水の中。上のほうには太陽の光が差す、明るくて広い海がある。でもあたしはそこには行けない。深海の生き物は、浅いところじゃ生きていけないの。体が壊れちゃうから」
「じゃあ、寂しいのか」
「寂しいわよ、そりゃ。でもね、寂しいことと不幸なことは別よ」
光がゆっくりと明滅した。呼吸に合わせているのかもしれない。
「あたしには光があるの。自分で灯せる光がある。太陽の光には遠く及ばないけど、この光はあたしだけのものよ。誰にも借りてないし、誰かに点けてもらったものでもない。あたしの体の中から勝手に生まれてくる光なの」
「すごいな、それは」
「すごくないわよ。深海じゃ当たり前のこと。光がなきゃ何も見えないんだもの。でもね、あたしが言いたいのはそこじゃないの」
チョウチンアンコウはガラスに鼻先を近づけた。近くで見ると、牙だらけの口が不気味に光に照らされている。でも声は相変わらず温かい。
「暗い場所にいるからって、暗い人生を送ってるわけじゃないのよ。暗い場所にいるからこそ、小さな光がよく見える。明るいところにいたら気づかないようなかすかな光が、ここでは全部見えるの」
「かすかな光」
「あんたが毎晩ここに来てくれること。あんたの靴音が廊下に響くこと。懐中電灯の光があたしの水槽をかすめること。そういうの全部、あたしにとっては光なのよ」
不覚にも、胸が詰まった。
「あんたもね、自分の光を持ってるわよ。気づいてないだけで」
「俺に光なんてないよ」
「あるのよ。だって、こんな真夜中に、誰も見てないのに、ちゃんとここに来て、あたしたちの話を聞いてくれるじゃない。それが光じゃなくて何なの」
言葉が出なかった。
「暗いところで灯す光はね、小さくていいのよ。世界中を照らす必要なんてない。目の前の一メートルだけ照らせれば、それで十分。あんたの懐中電灯みたいにね」
俺は無意識に手の中の懐中電灯を見た。古びた金属の筒。大した光量じゃない。でも確かに、この暗い水族館を歩くには、これで十分だ。
「あんたのこと、応援してるからね」
「……ありがとう」
「素直じゃないの。でもまあ、あんたのそういうところ、嫌いじゃないわよ」
チョウチンアンコウは光をふっと消した。闇が戻る。でもさっきまでの闇より、少しだけ温かい気がした。
水槽の前を離れるとき、背後でかすかに光が瞬いた。振り返ると、暗い水の中で青白い点がひとつ、ほんの一瞬だけ灯って消えた。見送りの合図みたいだった。
深海エリアの廊下を歩きながら、元カノのことを考えた。二年前に別れたとき、あいつは泣いた。俺は泣けなかった。泣く体力すら残っていなかった。あの頃の俺は、チョウチンアンコウの言葉を借りれば、光が完全に消えた状態だったのだと思う。
今はどうだろう。光っているとは思えない。でも、少なくとも懐中電灯は持っている。
第四章 五億年の螺旋
深海エリアの最奥に、円柱型の水槽がある。高さ二メートル、直径一メートルほどの縦長の水槽で、中は深い藍色に染まっている。
その中を、ゆっくりと螺旋を描きながら浮遊しているのがオウムガイだ。
白と茶の縞模様の殻。その殻から覗くのは、無数の細い触手と、驚くほど穏やかな目。深海生物の中では比較的浅いところにも棲むらしいが、この水族館では深海エリアに入っている。分類上の都合か、展示の都合か。本人は気にしていないようだった。
「おや。瀬川殿か」
オウムガイの話し方は、老人のそれだった。穏やかで、ゆったりとしていて、どこか時代がかっている。殿をつけて呼ぶのはこいつだけだ。
「今宵もご苦労なことで」
「いつもの巡回だよ」
「左様か。まあ、掛けられよ。ああ、掛けるところもないか。立ったままでよい」
俺は水槽に軽く寄りかかった。円柱型だから背を預けるのにちょうどいい。オウムガイはゆっくりと旋回しながら、俺のそばまで降りてきた。
「瀬川殿は、繰り返しということについて、どう思われる」
「繰り返し」
「左様。毎日同じ時間に目覚め、同じ場所へ行き、同じことをする。人の世では退屈と呼ぶのであろう。だが、拙者に言わせれば、繰り返しほど深いものもない」
オウムガイは殻の中に少し体を引っ込めて、また出した。
「拙者の殻にはな、部屋がある。小さな部屋が螺旋状にいくつも連なっておる。体が大きくなるたびに新しい部屋を作り、古い部屋を空にして、前に進む。同じことの繰り返しに見えるが、螺旋を上から見れば円だが、横から見れば進んでおる」
「進んでいる」
「同じ場所を回っているように見えて、実は少しずつ高いところへ行っておるのだ。それが螺旋というものだ」
俺は自分の生活のことを考えた。毎晩同じ時間に出勤して、同じ順路で巡回して、同じ水槽の前で同じ生き物と話をする。代わり映えのしない日々。前の仕事を辞めて、ここに流れ着いて、それからずっとぐるぐると同じ円の上を歩いているような気がしていた。
「瀬川殿。お主は繰り返しを恐れておるな」
「恐れてるっていうか、意味があるのかなって思うことはある」
「意味を問うておる時点で、お主は螺旋を上がっておる」
「どういうことだ」
「半年前のお主は、意味など問わなかった。ただ疲れ果てて、逃げるようにしてここに来た。吉岡殿から聞いておる。面接のとき、瀬川殿はひどい顔だったと」
「吉岡さんが言ってたのか」
「面接のとき、なぜ夜勤ができるのかと聞かれて、お主はこう答えたそうだな。昼間起きていたくないから、と」
その通りだった。昼の世界が嫌だった。人がいて、太陽が照って、社会が動いている。その中に自分の居場所がなかった。
「それが今はどうだ。お主はここに来るのが楽しみになっておるだろう。我々との会話を、待ち遠しく思っておるだろう」
「……否定はしない」
「それが螺旋の一回転だ。同じ深夜の水族館。同じ警備の仕事。同じ暗闇。だが半年前のお主と今のお主は、同じ場所にいるようで違う場所にいる。わずかだが、上に進んでおる」
オウムガイは殻をくるりと回転させた。
「拙者の祖先は五億年前からこの形でおる。五億年、同じ殻を作り続けておる。同じ螺旋を繰り返しておる。その間に恐竜が現れて消え、大陸が動き、氷が地球を覆い、また溶けた。世界は何度も変わった。だがオウムガイはオウムガイのままだ」
「変わらないことに意味があるってことか」
「変わらないのではない。変わらないように見えて、一巻きごとに微細に違う。殻の模様も、部屋の大きさも、少しずつ異なっておる。五億年の繰り返しの中の、一巻きごとの差異。気づかぬほど小さな違い。だがそれが積もり積もって、拙者はここにいる」
「気づかないくらいの変化でも、意味があると」
「意味があるかどうかは知らぬ。ただ、それが生きるということだと、拙者は思う」
水槽の水面がかすかに揺れた。循環ポンプの振動が伝わってきたのかもしれない。オウムガイはゆっくりと上昇し、また下降してきた。螺旋の動きそのものが、こいつの言葉を体現していた。
「お主の日々もな、一見同じように見えて、毎夜少しずつ違っておるはずだ。我々との会話の内容も、お主が感じることも。その微細な違いを大切にせよ。大きな変化など要らぬ。螺旋は、ゆっくり回ればよい」
「ゆっくりでいいのか」
「五億年かけて、ここにいる。急ぐ理由などない」
ダイオウグソクムシにも似たようなことを言われた気がする。深海の連中は揃って悠長だ。でもその悠長さが、俺みたいに焦ってばかりだった人間には、ちょうどいい薬なのかもしれない。
前の会社のスローガンは「スピードこそ全て」だった。毎朝の朝礼で唱和させられた。速く動け、速く決めろ、速く結果を出せ。立ち止まるのは罪だと叩き込まれた。五億年の螺旋とは真逆の世界だ。
どちらが正しいのかはわからない。でも少なくとも、俺はスピードの世界では壊れた。螺旋の世界では、まだ息ができている。
「瀬川殿。明日もまた、ここで待っておる」
「ああ。明日も来るよ」
「左様か。では、今宵はこのへんで」
オウムガイは殻をゆらゆらさせながら、水槽の上方へ浮かんでいった。螺旋を描きながら。五億年前から変わらない、あの形で。
第五章 怖い顔の理由
深海エリアの最後の水槽。他の水槽より少し高い位置にあって、中を覗き込むには背伸びが必要だ。昼間は子供たちがこの水槽の前で泣く。中にいるのが怖いから。
ミツクリザメ。
飛び出す顎。灰色がかったピンクの肌。長く突き出た吻。深海ザメの中でもとりわけ異形と言われる種。生きた化石とも呼ばれるが、オウムガイほど古い歴史は持たないらしい。それでも一億年以上の系譜を持つ。
こいつは見た目に反して、声が若い。十代の少年のような、まだ変声期を過ぎたばかりのような声で話す。
「あ、瀬川さんだ。こんばんは」
「こんばんは。元気か」
「元気ですよ。っていうか、僕ら深海魚って元気とか元気じゃないとかあんまりないんですけど。水温と塩分濃度が同じなら、だいたい同じ調子です」
「シンプルでいいな」
「そうですか。でも僕、もうちょっと複雑になりたいんですよね」
「複雑に」
「人間って、いろんな気持ちがあるじゃないですか。嬉しいとか悲しいとか、腹が立つとか胸がきゅんとするとか。僕にはよくわからないけど、なんか面白そうだなって」
こいつは好奇心が強い。闇の中で生きていることに退屈しているのかもしれない。
「面白いってもんでもないぞ。厄介なことのほうが多い」
「でも瀬川さん、僕の前では楽しそうじゃないですか。他の水槽から回ってきたあと、いつもちょっと表情がやわらかくなってますよ。それって気持ちがあるからでしょう」
「まあ、そうかもな」
「僕、ひとつ聞いていいですか」
「何だ」
「僕のこと、怖いですか」
正直に答えるべきか迷った。でもこいつは嘘を見抜く。
「最初は怖かった」
「ですよね」
「でも今は怖くない」
「なんでですか」
「話してみたら、見た目と全然違ったから」
ミツクリザメは水中でゆっくりと旋回した。灰色がかったピンクの体が、青い照明にぼんやりと照らされる。
「僕ね、昼間はずっと見られてるんですよ。ガラスの向こうから。子供が泣くし、大人も顔をしかめるし。で、みんな僕の写真を撮るんです。気持ち悪いとか怖いとか言いながら。珍しいから撮るんでしょうけど」
「気にするのか」
「気にしますよ。だって、好きで怖い顔してるわけじゃないですから」
声に少しだけ陰りが混じった。
水槽のガラスに映る自分の顔を見た。暗くてよく見えないが、たぶん今の俺も、世間から見たら怪しい男だろう。三十二歳、無職同然、深夜に水族館を徘徊いている。履歴書に書いたら不審者だ。
「この顔も、この歯も、この飛び出す顎も、全部必要だからこうなったんです。深海で生き延びるために、何万年もかけて少しずつこの形になった。顎が飛び出すのは、暗くて何も見えないところで獲物を確実に捕まえるため。歯が多いのは、硬い殻の獲物も砕けるように。見た目は結果であって、目的じゃない」
「そういうもんか」
「人間だってそうじゃないですか。瀬川さん、最初に会ったとき、すごく怖い顔してましたよ」
「俺が」
「はい。目つきが鋭くて、口もきつく結んでて。正直、この人大丈夫かなって思いました」
半年前の自分を思い出す。確かにあの頃の俺は、他人を寄せつけない顔をしていただろう。会社を辞めたばかりで、世界の全部が敵に見えていた。
「でも話してみたら、全然怖くなかった。むしろ優しい人だった。僕と同じですよね。見た目と中身が違うって」
「同じ……なのかもしれないな」
「だから僕、瀬川さんのことが好きなんです。同類って感じがして」
深海ザメに同類認定された。人生で初めてのことだ。
「瀬川さん」
「何だ」
「怖い顔してると、人が離れていくのはわかってます。でも僕、この顔を変えられないし、変えたくもないんです。だってこれが僕だから」
「そうだな」
「瀬川さんも、無理に笑わなくていいと思いますよ。笑いたくないときに笑うと、もっと怖くなりますから」
「どういう意味だ」
「会社にいたとき、作り笑いしてたでしょう。その癖、ときどき出てますよ。目が笑ってないのに口だけ笑うやつ。あれ、僕の飛び出す顎と同じです。生き延びるために身につけただけで、本物じゃない」
一億年の歴史を持つ深海ザメに、作り笑いを看破された。
「僕の周りには暗い海しかないですけど、そのぶん嘘がないんです。暗いから取り繕う必要がない。自分の顔がどう見えるかなんて、暗かったら関係ないですから」
「暗いから正直でいられる」
「そうです。だから僕、深海が好きなんです。怖い顔のままで、誰にも何も言われないから」
「この水族館ではガラス越しに見られるだろ」
「それはまあ、仕方ないです。でも夜になれば、ここも深海みたいに暗くなるでしょう。だから夜が好きなんです。瀬川さんが来てくれる夜が」
俺はガラスに手を当てた。ひんやりとした感触。向こう側で、ミツクリザメがゆっくりと泳いでいる。怖い顔で、でも穏やかに。
「また明日な」
「はい。また明日。おやすみなさい、瀬川さん」
「おやすみ」
水槽の青い光を背に、俺は深海エリアの出口に向かった。
振り返ると、暗い廊下の奥に、五つの水槽が並んでいた。それぞれの中に、それぞれの生き方をしている連中がいる。俺は小さく手を振った。誰に見られているわけでもないのに、自然とそうしていた。
終章 夜が明けるまえに
深海エリアの巡回を終えて、館内を一周する。
熱帯魚の水槽。色とりどりの小さな魚たちは眠っているのか、水草の陰でじっとしている。こいつらは話さない。昼間も夜も同じで、ただきれいにそこにいる。
クラゲの水槽。青い照明に照らされて、傘を開いたり閉じたりしている。こいつらも話さない。ただゆらゆらと漂っている。脳がない生き物に言葉はないのだろう。それでも見ていると不思議と落ち着く。
大水槽。エイやマグロが悠々と泳いでいる。この水槽だけは非常灯の光が多めに入り込んで、魚影がうっすら見える。大きな影が目の前を横切るたび、自分がいかに小さいかを思い知る。
ペンギンのいるフロア。氷を模した白い岩の上で、ペンギンたちが肩を寄せ合っている。こいつらも話さない。でも寝息のような声が聞こえる。小さく、規則正しく。
巡回を終えて、詰所に戻った。時計を見ると午前三時を過ぎていた。いつの間にか五時間が経っている。深海の連中と話していると時間の感覚がなくなる。
コーヒーを入れた。インスタントの安いやつ。カップに湯を注ぐと、狭い詰所にコーヒーの匂いが広がる。この匂いだけが、ここが海の底ではなく陸の上だと教えてくれる。
椅子に座って、カップを両手で包んだ。温かい。
詰所の壁に、水族館のカレンダーがかかっている。今月のイラストはマンボウだ。間抜けな顔で海面近くを漂っている。こいつだけはなぜか話しかけてこない。深海生物じゃないからだろうか。それとも単に、話す必要を感じていないだけなのか。マンボウなら後者のような気がする。
半年前、ここに来たばかりの頃は、夜が長かった。八時間の勤務がまるで三日くらいに感じた。暗い館内を歩くのが怖かった。水槽のガラスに自分の顔が映るのが嫌だった。疲れ切った目、こけた頬、生気のない表情。見たくない自分がそこにいた。
今は違う。夜が短い。もう三時かと思う。もう少し話していたかったと思う。
深海の連中が言ったことを、ひとつひとつ思い返す。
やわらかくていい、とメンダコは言った。折れるよりずっといい、と。
問うな、在れ、とダイオウグソクムシは言った。ただそこにいろ、と。
暗い場所にいるからって、暗い人生じゃないのよ、とチョウチンアンコウは言った。自分の光を灯せ、と。
螺旋はゆっくり回ればよい、とオウムガイは言った。五億年かけてここにいる、と。
怖い顔のままでいい、とミツクリザメは言った。暗い場所なら取り繕わなくていい、と。
全部、深海から来た言葉だ。光の届かない場所で、途方もない時間を生きてきた連中の言葉。人間の社会で通用するかどうかはわからない。でも、少なくとも今の俺には響いた。
コーヒーをひと口飲んだ。苦い。でも温かい。
窓の外はまだ暗い。夜明けまであと二時間半ほどある。
明日――いや今日か。朝になったら帰って、カーテンを閉めて眠る。昼過ぎに起きて、コンビニで弁当を買って食べて、また夜を待つ。その繰り返しだ。螺旋だ。
でもオウムガイの言う通り、同じ繰り返しに見えて、昨日と今日は少しだけ違う。何が違うのかはうまく言えない。ただ、今夜のコーヒーは昨日より少しだけ美味い気がする。それだけのことだ。
詰所のデスクの引き出しに、巡回日誌がある。毎晩、異常の有無を記入するだけの事務的なノートだ。異常なし。六ヶ月間、書いたのはその四文字だけ。
でも本当は、毎晩異常だらけだ。深海の生き物が話しかけてくるのだから。
なぜこいつらが話せるのか、俺にはわからない。なぜ俺にだけ聞こえるのかもわからない。吉岡さんにも聞こえていたのだから、俺だけが特別というわけでもないようだ。もしかしたら、暗い場所で耳を澄ませる人間にだけ、聞こえる声なのかもしれない。明るい場所で忽しく生きていたら、一生気づかない声。
巡視日誌の余白に、小さく書き足した。
異常なし。但し、深海エリアの生物は元気。
ペンを置いて、コーヒーの残りを飲み干した。
ふと、吉岡さんのことを考えた。あの人も毎晩こうやって、こいつらと話していたのだろう。何年間も。味噌汁みたいな優しさで。腰を痛めて辞めると決まったとき、一番寂しかったのは吉岡さん本人だったんじゃないか。俺に引き継ぎをするとき、あの人は何度も深海エリアのほうを振り返っていた。今にして思えば、あれは別れを惜しんでいたのだ。
午前五時半。空が白み始める頃、最後の巡回に出る。朝の光が差し込む前に、もう一度だけ深海エリアを覗く。
水槽はもう静かだった。メンダコは岩陰に隠れ、ダイオウグソクムシは砂の上で動かず、チョウチンアンコウの光は消え、オウムガイは殻の中に閉じこもり、ミツクリザメは水槽の底でじっとしていた。
夜が終わると、こいつらは黙る。話すのは闇の中だけだ。日が昇れば、ただの展示物に戻る。来館者はガラス越しに覗き込んで、珍しいとか気持ち悪いとか言って、次の水槽へ行く。誰もこいつらの声を聞かない。
それでいい、と思う。こいつらの声は、夜にだけ聞こえればいい。昼の世界に持ち出す必要はない。夜の水族館だけの秘密。俺とこいつらだけの時間。
正面玄関から外に出ると、冬の朝の空気が頬を刺した。空は紺色から灰色に変わりつつあって、東の端がわずかにオレンジ色に染まっている。
息が白く曇った。手がかじかむ。制服のポケットに手を突っ込んだら、予備の電池に指が当たった。今夜も使わなかった。懐中電灯の電池は、この半年で一度も切れたことがない。水槽の光だけで十分歩けるからだ。それでも予備の電池は毎晩持っていく。そういう性分なのだ。
夜明け前の冷たい空気は、俺の頭をすっきりとさせた。昨日までの自分と、今日の自分。わずかながらも、何かが変わっている。そんな確かな手応えがあった。
交代の日勤警備員がやってきた。五十代の恰幅のいい男で、山田さんという。
「おう、瀬川。お疲れさん。変わったことは」
「異常なしです」
「そうか。ご苦労さん」
それだけのやりとりで、引き継ぎは終わる。
駐車場を横切って、自転車に跨った。ペダルをこぎ出すと、水族館が背中のほうに遠ざかっていく。
朝日が昇り始めていた。あたりがゆっくりと明るくなっていく。通勤の車がちらほらと走り出している。世界が動き始める時間だ。
俺は逆方向に走っている。世界が目覚めるとき、俺は眠りにつく。それが俺の螺旋の一巻きだ。
アパートに着いて、鍵を開けて、靴を脱いで、カーテンを閉めた。暗くなった部屋に安堵する。暗いほうが落ち着く。いつからそうなったのか。たぶん、あいつらと話すようになってからだ。
ベッドに潜り込んで、目を閉じた。暗闇の中に、チョウチンアンコウの青い光が浮かんだ。
瞼の裏で、メンダコがふわりと漂っていた。ダイオウグソクムシが微動だにしなかった。オウムガイが螺旋を描いていた。ミツクリザメが、怖い顔で、でも穏やかに、泳いでいた。
明日も行こう。明後日も行こう。
あいつらに会いに。
あの暗くて静かで、やわらかくて、ゆっくりで、正直な場所に。
俺の光を灯しに。
意識が沈んでいく。深海に潜っていくみたいに、ゆっくりと、静かに。
明日の夜も、水槽の向こう側で、あいつらが待っている。




