それは幻 ¿
潮の香りを含んだ風が、町を駆け抜けていく。夏が終わり、秋の気配が混じる頃。志音町の空気はどこか澄んで、どこか寂しかった。
楓は学校帰りに診療所へと足を向けていた。すっかり、それが当たり前の日課になっていた。
扉を開けると、受付の奥からひょっこりと顔を出したレイがいた。白い髪が夕日の赤に染まって、まるで硝子細工のように儚い。彼女は何も言わず、ただ瞬きを一度。
「……ただいま」楓は、笑ってみせる。返事はないけれど――その沈黙にも、もう慣れてきた。むしろ、その無言を“受け止めたい”と思うようになっていた。
◇
町の人々も、少しずつレイに慣れてきていた。買い物に同行すれば、八百屋のおばさんが「お嬢ちゃん、手伝ってくれてありがとうね」と笑いかける。漁師のじいさんも「細いのに、よく桶を運んだな」と感心する。
レイはいつも無表情だ。でも、その眼差しが一瞬だけ揺れる。楓は、それを見逃さなかった。
(ちゃんと届いてる……よね)
心の奥が、じんわりと温かくなる。
◇
だが、その頃から町には小さな“異変”が起こり始めていた。
最初に見たのは、あの日。診療所の裏庭で、枯れかけていた鉢植えの花。誠司が「もう駄目だろう」と言ったその花は、レイがただ手をかざしただけで――まるで時間が巻き戻ったみたいに瑞々しい芽を吹いた。
そして今度は、もっと大きな異変だった。
港へ向かう並木道の途中。葉を落とし始めていた桜の木が、突如として花を咲かせた。秋の空気の中に、ありえないはずの薄紅の花が、枝いっぱいに咲き乱れていたのだ。
「……桜……?」楓は息を呑んだ。通りがかりの人々も足を止め、ざわめく。
桜吹雪のように、風に散った花びらが舞い落ちる。その下に立つレイの姿は――ひときわ異質で、けれど美しかった。
(やっぱり……ただの偶然じゃない……)
裏庭の花。そして、今目の前に咲き誇る桜。
楓の胸に、強い確信が芽生え始めていた。
◇
さらに追い討ちをかける出来事が、その夜に訪れた。
診療所に迷い込んできた、死にかけた子猫。ぐったりと動かず、誠司が「もう助からないだろう」と判断したそのとき。レイが静かに手を伸ばした。
その指先が猫の体に触れた瞬間――小さな胸が再び上下し始めた。弱々しかった瞳に光が宿り、か細い声で「にゃあ」と鳴いた。
「……嘘……」楓は思わず声を漏らした。
心臓が跳ね上がる。頭の奥に、裏庭の花、あの季節外れの桜の光景がよみがえる。
(やっぱり……あれは、幻なんかじゃなかった……!)
現実だ。レイは――ただの人間じゃない。
レイはただ猫を見つめていた。その表情は変わらない。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ――深い痛みが浮かんだように見えた。
◇
その夜。楓はベッドに横たわりながら、昼間の出来事を思い返していた。
(人間に、あんなことできるはずない……)でも、不思議と怖くはなかった。
(あの子は、ただ……助けたかっただけなんだ)
その想いが、なぜだか胸を締めつける。そして同時に――どうしようもなく強く、惹かれていく。
(もっと知りたい。もっと近づきたい。あなたのことを――)
柔らかな夜風がカーテンを揺らし、かすかに鈴の音が響いた。
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