一之瀬誠司
一之瀬誠司が暮らす町は、一見すれば平穏に見えた。
しかし、その静けさの裏で、世界は確実に崩れつつあった。
遠くの国からは戦火の報せが絶え間なく届き、隣人を奪う流行病はもう珍しいものではなくなっていた。
薬を求める人々の列は日々長くなり、子どもたちの笑い声の背後で、呻きや嘆きが重なり合う。
大人たちは皆、口には出さない。けれども、知っていた。
――この世界は、長くもたない。
青年医師・一之瀬誠司もまた、その一人だった。 いや、彼はただ「知っていた」だけではない。 医学の知識を超えた、もっと深いところで悟っていた。
生命の循環そのものが止まりつつあるのだ、と。
診療所の一室、白いシーツの上に腰掛ける見知らぬ少女。背筋を伸ばしたまま、ただ静かに座り、目を伏せている。まるで、ここに居ても居なくてもいい――そんな儚さをまとっていた。
楓が心配そうに誠司を見上げる。
「……先生、この子、名前も言わないんだ」
誠司は少し黙り込む。カルテには、未だ空欄が残っていた。
「人は名前がなければ、生きづらい」
その言葉を口にしたとき、楓が小さく息を吸い込んだ。
「じゃあ……“レイ”はどうかな?」
「レイ?」誠司が眉を上げる。
楓は窓辺を振り返った。
そこから差し込む春の光に舞う花弁を、両手で受け止めるようにしながら言った。「さっき、風に乗って花びらが落ちてきて……すごく涼やかで、きれいだったの。この子も、そんな風みたいだから」
しばしの沈黙。誠司は少女を見つめ、それから頷いた。
「……いい名だ。レイ、か。そう記録しておこう」
その瞬間、シーツの端に腰掛けた少女が、ほんのわずかに瞬きをした。表情は変わらなかったが、それは確かに「肯定」であり、「受け入れ」だった。
楓は思わず微笑む。
「……よろしくね、レイ」
夕刻。 楓は鞄を背負い直し、誠司を見上げて言った。 「先生、この子……どうするの?」
楓の家は母子家庭だ。母は夜遅くまで働き詰めで、余裕はない。 楓自身も理解していた。自分が「連れて帰る」とは言えないことを。
誠司は小さく首を振った。
「うちで預かるよ。診療所ならベッドもあるし、俺なら状態も見られる」
「ほんとに?」
「無理に楓の家に負担をかけるより、そのほうがいい」
楓はほっと息をついた。
「ありがとう、先生……」
ベッドの上で目を閉じるレイは、まるでその会話を聞いていたかのように、わずかに胸を上下させた。 静かな、けれど確かな呼吸。
その夜、診療所の窓の外では、風が鈴のように鳴いていた。
第二の主人公、とでも言いましょうか。
やっと登場です。
読んだ方はコメントをお寄せください!
励みになりますので!!




