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夕焼け

診療所の扉を押し開けると、いつもの匂いがした。消毒薬と湿ったタオル、それからわずかに漂う煎れた茶の香り。夕暮れの光が待合室のガラス越しに斜めに差し込んで、ほこりの粒を金色に染めている。

「おかえり、楓ちゃん」受付の奥から誠司さんの声が聞こえる。彼はいつも通り穏やかに笑っているけれど、目元にうっすらと隈が浮かび、その背後の瞳には疲れが刻まれているのがわかる。私たちの町は外よりまだ救われているのだと、彼だけは本能的にわかっているのだろう。

私はカバンを椅子に放り投げ、そっとレイのいるカーテンの向こうへ歩いた。彼女は窓辺に腰掛けて、外の通りをじっと見つめている。表情は相変わらず薄いけれど、髪の先に桜の花びらがひとつ落ちて、それを指先で払う仕草が、前よりもずっと自然だった。

「ただいま、レイ」小さな声でそう言うと、彼女は一度だけ瞬きをした。それだけで十分。私はいつもその瞬きに励まされる。

今日は、帰り道に母が頼んでくれたお弁当を持ってきた。簡単なおかずと、冷めた卵焼き――母は夜勤があるから、朝早くに作ってくれたらしい。私はずっと、家のことは大丈夫と見せかけていた。友達に「うちは普通だよ」と言ってしまったこともある。母には甘える時間が無く、私は「明るい楓」でいることで誰かに頼られたいと思っていた。

でも、レイといると、少しずつその仮面が重くなっていくのがわかった。彼女の前では、無理に笑わなくてもいい。素のままの私を見せられるような気がするのだ。

「ねえ、食べる?」と差し出すと、レイは一瞬迷ったあと、そっと前に出た。氷のように冷たい手が私の手のひらに触れる。心臓が小さく跳ねるのを感じた。彼女の手は冷たいけれど、確かに柔らかくて、私を拒まない温度があった。

「楓は、なんでいつもニコニコしてるの?」レイがふと、ぽつりと聞いてきた。問いかけはあっさりしているのに、その声には不思議と真剣さがある。

私は少し照れて、笑ったふりをして肩をすくめる。「本当は疲れてるけど、笑ってる方が楽だからかな。でもね……」

言葉に詰まる。胸の奥に押し込めてきたことを、今ここで出すべきかどうか。母は夜遅くまで働いていて、家に帰れば電気を消してしまうことも多い。クラスの子に「父さんは?」と聞かれて、私は咄嗟に「忙しい」と言ってごまかしてきた。簡単な嘘の積み重ねだった。笑っていれば、誰も深く聞いてこないと思ったから。

レイは、私の目をじっと見つめる。無表情のようでいて、彼女の瞳はいつも何かを見抜こうとしている気がする。

「私、ずっと偽ってた」ついに口にした。言葉は小さいが、ここに置けば少しは軽くなる気がした。レイは瞬きひとつで答えない。ただ、そこにいるだけで聞いてくれている気がして、私は続けた。

「父親いないの、みんなには“忙しい”って言ってた。母さん一人で頑張ってるの、恥ずかしくて言えなかったんだ。だから、私は“普通”に見えるようにしてた」

黙っていたら、誠司さんがふっと息をついて、お茶を差し出してくれた。ありがたい、と思った。でも、本当に聞いてほしかったのはレイで。

「でもね、レイといると、嘘をつかなくてよくなる。素直になれる。……私、疲れてたんだ」

レイは、その言葉にゆっくりと顔を向けた。目にわずかな光が宿る。言葉にはならないけれど、その視線は肯定と、少しのいたわりを含んでいるように見えた。

「……楓は、それでいい」――そんな声が聞こえた気がした。実際には彼女は「いい」とは言わなかったけれど、手のぬくもりがほんの少し強くなった。


その後、私たちは診療所の近所をゆっくり歩いた。いつもは忙しくてついてこれない誠司さんも、落ち着いたから、とついてきて、3人で。夕方の商店街は人の笑い声が戻り、八百屋のおばさんに声をかけられ、うどん屋からは湯気とだしの匂いが漂う。レイは歩き方や立ち止まり方、何気ない所作を私の真似をしてみることが増えた。初めて自分から道端の花に手を伸ばしたとき、私は心臓がきゅっとなって、世界がふわりと優しくなった気がした。

喫茶店の窓際で、私はいろんな話をした。

誠司さんもたまに笑って。

レイは黙って聞き、時折、指先でカップの縁を触るだけだった。その仕草が、段々と“友だちらしい居場所”に見えてきた。

「ねえ、レイ」私は勇気を出して言った。「もし、全部忘れても……名前だけは覚えててくれる? レイって呼ぶのは、私がつけた名前だから」

レイは目を閉じ、やがて一度だけ小さく笑ったように見えた。笑い声ではなく、口元の柔らかい上がり方。私は息が止まりそうになった。やっと、やっと彼女が“普通の少女”の顔を見せてくれた瞬間だった。

――やっと、普通の女の子になれたのに。

それが、胸に刺さる。嬉しさと同時に、深い切なさが滲む。

「私は…、ずっとレイの友達だからね」

なんとなくそう告げる。

窓から差し込む光は嵐の前のように静かで、

その鮮やかなオレンジはからのティーカップの白を染め上げた。



こんなの書いてると、学校で明るい子も苦労してるのかな、とか考えてみたりします。

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