拾った心臓、まだ動いてる
『拾った心臓、まだ動いてる。』
アスファルトに落ちていたそれは、
赤黒くて、濡れていて、ぬるぬるしていた。
最初は猫の死骸かと思った。
けど、違った。
皮膚も、毛も、骨もなかった。
ただ――肉だった。
しかも、鼓動していた。
トクン。
音が、した気がした。
幻聴かと思った。でも、手を伸ばせば、間違いなく動いていた。
脈打って、震えていた。
俺はそれを、拾った。
なんの迷いもなく。
“やめとけ”って声も、どっかでしてた気がする。でも、止まらなかった。
指先に、じんわりと熱が移る。
ぬめりが、皮膚に張りつく。
心臓。
どうして、そんなものが道端に?
なんで、誰も気づかない?
なんで、俺だけが?
考える前に、足が動いてた。
誰かに見つかる前に、カバンに突っ込んでた。
まるで、拾い食いする子どもみたいに。
「…なにこれ、キモ。」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
---
カバンを開く。
あいつは、まだ生きてた。
トクン。
部屋の空気が、濃くなる気がした。
何かが“入ってきた”みたいな、変な重さ。
中学のとき、理科の実験でカエルを解剖したことがある。
内臓を取り出して、ピンセットでつまんだ。
一人だけ、吐いた女子がいた。
あれと、ちょっと似てる気がした。
でも、俺は吐かなかった。
それどころか――
見下ろしてる自分の指が、やけにしっくりきた。
脈打つものを掌にのせていることが、不思議と“自然”に思えた。
なんでだろうな。
気持ち悪いのに、目が離せなかった。
じっと見てたら、なんか……落ち着く気がした。
ふと、こいつが今ここで止まったら、
“誰か”が死ぬのかもしれないな、って思った。
その「かもしれない」が、胸の奥を、ぞわっとくすぐった。
まるで、
自分のじゃない心臓を見てるんじゃなくて、
自分の胸を、外から覗き込んでるような――
トクン。
今度は、自分の鼓動と重なった気がして、背筋がざわついた。
俺のじゃない。こいつの音だ。そう思っても、どっちがどっちかわからなくなる。
息を吸った。
鉄の匂いが、肺の奥に刺さった。
---
俺の部屋にこもって、
あれをじっと見ていたのは、どれくらいだったか。
鼓動のリズムを、無意識に数えてた気がする。
……ドンッ!
下の階から、何かが床を叩く音がした。
次いで、怒鳴り声。
テレビの音と缶の転がる音が、混ざって聞こえる。
「……またかよ」
つぶやいて立ち上がる。
着ていた制服のジャケットを手に取った。
何の気なしに、あれをそっと内ポケットに滑り込ませる。
ぬめった感触。
鼓動が、服ごしに伝わってきた。
“持っていかなきゃ”と思った理由は、自分でもよくわからない。
ただ、置いていく気には、ならなかった。
――リビングのドアを開けると、
テレビの音が、壁を突き抜けるみたいに耳に刺さった。
野球中継の声。実況が怒鳴ってる。
それに重なるみたいに、ガラガラと缶ビールの音。
「おせぇぞ、クズが」
ソファに沈んだまま、目も合わさずに吐き捨てられる。
返事はしない。いつものことだ。
台所に行って、冷蔵庫から惣菜パックを出す。
無言で皿に移して、レンジで温める。
電子音が鳴るまでの30秒が、やたら長い。
そのあいだ、背中に熱い視線が突き刺さってる気がする。
「なあ、お前さあ」
「……」
「最近、態度悪くねぇか?」
振り返る前に、背中にドンと何かが飛んできた。
空の缶だった。痛くはない。でも、驚いたふりはする。
そうしないと、次は本当に痛いやつが飛んでくる。
「親に向かってなんだその態度はよ」
「すみません」
声が震えないように、喉に力を入れる。
胸の奥で、心臓が脈打つ。
内ポケットの中でも、もうひとつの鼓動が重なる。
ふたつの音が、体の中で交錯する。
どっちが本物の“俺”の音なんだろうって、一瞬思った。
でも、すぐにどうでもよくなった。
「すみません」
もう一度だけ繰り返して、皿を運ぶ。
やっと野球の音が、また響き始める。
実況が、打ったボールの軌道を叫んでいた。
そのとき俺の胸の中には、まだあの心臓があった。
誰のものかもわからないくせに、
やけに――馴染んでいる、と感じた。
――惣菜の皿を置いた瞬間、
テレビの実況が声を張り上げた。
『……おっと、痛い!これは痛恨のミスですねー!』
ボールが転がり、走者が一気に三塁を回る。
解説が沈んだ声になった。
あぁ、やめてくれ。
次の瞬間には、ビールの缶が、テーブルに乱暴に叩きつけられる。
「ったく……またこいつかよ。使えねぇなあ」
低くつぶやいた声が、空気をぬるく濁らせた。
「おい、聞いてんのか。飯が冷めるだろうが」
「……すみません」
反射的にそう答えた、その直後だった。
父がソファから立ち上がる音がした。
次の瞬間、胸ぐらを掴まれる。
「なめてんのか、コラ」
ジャケットをぐっと引き寄せられたとき、
内ポケットの中で、何かがぐに、と潰れる感触があった。
体が一瞬、しびれる。
「――ッ……!」
父の息が、引っかかった。
胸を押さえるように肩がわずかに動いたが、
すぐに咳払いでごまかされる。
「…お前よォ、ほんとに生意気になったな。クソが。」
俺はなにも言わなかった。
言葉が出なかった。
手の内側に残った、ぬめりと熱。
そして、ほんの少しだけ速くなった、自分の鼓動。
いや、あれは……
……どっちの音だった?
――皿を置いたあと、
父は無言で飯をかきこみ始める。
ガチャガチャ、クチャクチャ。
テレビの音だけがやけに大きく響いてる。
何も言わない。
怒鳴りもしない。
けど、明らかに何かに苛立ってる気配だけは伝わる。
呼吸を殺す。
音を立てないように、そっと椅子を引く。
でも、その動きすらも“逆鱗”に触れそうで、ピリつく。
テーブル越しに、
父の目線が、ふとこちらに向く。
言葉はない。
だが、そこには意味がある。
その“無言”がいちばん怖い。
ゆっくりと、椅子をずらした。
音を立てないように、足の位置を確かめながら。
「……何その顔」
その時、声が、落ちてきた。
「え?」
思わず聞き返した俺の声に、父の表情が歪んだ。
「てめぇ……睨んでんのかァ!?」
立ち上がる気配もなかった。
手だけが、音より速く飛んできた。
頬に衝撃。
口の中が鉄の味でいっぱいになる。
殴られた。
殴られたのに、何も起きてないみたいだった。
もう一発。
今度は後頭部に。
椅子ごと倒れた。視界が揺れる。
床の冷たさが、妙に現実的だった。
腹に膝が入る。
肋骨がきしむ音がした。
胸の内ポケットの中、あれがぐにゃりと動くのがわかる。
「……なんだ、その目は」
何も言ってないのに。
何もしてないのに。
…ただ生きてるだけで、こうなる。
「てめぇみたいな出来損ないが……!」
肩を掴まれ、引き起こされる。
視界の端で、照明がぐにゃっと歪んだ。
拳が振りかぶられる。
その時、ふと、ポケットの中で――あれが、止まった気がした。
ほんの一瞬、無音になる。
そして、父の動きも、止まった。
拳が振り下ろされる前に、
父の体がふらついた。
そのまま、足元から崩れ落ちる。
俺は、呆然と立ち尽くしていた。
倒れたまま、呻く声が聞こえた。
胸を押さえている。
けれど、立ち上がってこない。
目が合った。
口が何かを言っている。
声は、出ていなかった。
俺は、ゆっくりと後ずさった。
何も助けなかった。
何も考えなかった。
俺は、ただ部屋に戻った。
鍵をかけて、息を吐いた。
全身が痛い。
腕も脚も、背中も、顔も。
熱くて、痛くて、どうでもよくなっていた。
制服のボタンを外す。
内ポケットから、そっと、あれを取り出す。
血で濡れた手のひらにのせると、
心臓はもう、ほとんど動いていなかった。
ぬるい塊。
濡れた肉。
それを見ていたら、
なぜか、喉が――鳴った。
「食え」って、誰かの声がした気がした。
耳じゃない、頭の奥で。
そう思った瞬間には、もう口に運んでいた。
舌に触れた瞬間、
歯が、勝手に動いた。
鉄の味。
血の匂い。
繊維の感触。
全部が、ただただ――馴染んだ。
何かが、自分の中に流れ込んでくる。
それが何かなんて、考えたくなかった。
しばらくして、
口の中の肉は、とろけるように喉を通っていった。
何をしたのか、わかってはいた。
でも、考えなかった。
考えたら、崩れそうだった。
ベッドに倒れ込む。
目の奥が、痛む。
耳が、まだ少しだけ、ズキズキしてる。
部屋の外は、
驚くほど――静かだった。
テレビの音もない。
咀嚼の音も、缶を投げる音も。
怒鳴り声も。
何も、しない。
それが初めてだということに、気づいた。
あいつがいないと、
こんなに、音が消えるのか。
胸の奥が、すうっと軽くなる。
呼吸が、楽になる。
静寂が、
やけに、心地よかった。
このまま、二度と目を覚まさなくてもいい――
そう思った。
でも、なんとなくわかっていた。
たぶん、あいつは――もう、死んでいる。
そう思ったとき、
胸の中の、ほんのわずかな痛みが消えていた。
+++
――あれから、何日経ったのか。
時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていった。
父は、本当に死んでいた。
居間で倒れているのを、近所の人間が通報したらしい。
救急車も来た。警察も来た。
でも、俺は何も見ていない顔をした。
死因は、心筋梗塞。
検死官の言葉が、やけに小さく響いた。
それ以降、
俺の部屋には、あの“心臓”はいない。
食べた。
飲み込んだ。
全部、自分の中にある。
静かだった。
何もかもが、静かになった。
誰にも怒鳴られない。
物が飛んでこない。
気配を殺して歩かなくていい。
夜中にトイレへ行くときも、ビクつかなくていい。
……息が、しやすい。
こんなに、
生きるのが、楽だったのか。
そう思った。
けれど。
最近、少しだけ、変なことがある。
道を歩いていて、
前を歩くやつの背中がムカついた。
隣のやつの貧乏ゆすりに、無性に拳が出そうになった。
夜、鏡を見るたびに、
眉間にしわを寄せた自分の顔が、
どこかに似ている気がして――目をそらす。
こないだ、
すれ違った中学生が、
俺の顔を見て、ビクッとした。
そんな顔、
俺がいつ、してた?
俺は、
そんなつもり、なかったのに。
でも、最近。
何か気に障ると、
歯を食いしばってしまう。
手が、勝手に拳を握っている。
……なんでだろうな。
なんで、こんなに、
怒りっぽくなったんだろうな。
……なあ、俺は…
「……俺は、誰なんだ?」
言葉にした瞬間、
壊れたテレビに映るのは、止まった試合だった。
その中で、男が立っていた。
背格好が――どこか、俺に似ていた。