第六話 不穏の始まり
「……はあい。これで連絡事項は以上~。部活のない奴はさっさと帰れよ~。はあ~、私もさっさと帰りたい。このあともまだ仕事が続くなんて考えたくない……」
時は進んで帰りのHR。朝に比べて幾分顔色は良くなったものの、この世の終わりのような辛気臭い顔でHRを締めた宵町先生は、力ない足取りで教室から出ていった。
「ん~っ。今日も疲れた~」
宵町先生が退出していったのを見計らったように大きく両腕を伸ばして欠伸するひなたに「なにが『疲れた』だよ。五時限目の古典の時なんて、ただひたすらぼーっとしていただけじゃんか」と奏翔は半眼で苦言を入れた。
「だって、古典の授業って難しくて眠くなっちゃうんだもん。先生もなに言ってるのかわかんない時もがあるし~」
「あー。それは、まあ……」
確かに、奏翔のクラスの古典を受け持つ教師は、今年で齢六十ということもあってか、たまに発音が聞き取りにくいことがままあったりする。そういう意味では、眠らずに頑張って起きていただけ、マシとも言えなくもない。その代わり板書もしていないので、この一か月後にある中間テストで絶対泣きを見ることだろうが。
「ていうか、わたしよりきりちゃんの方を心配したらどう? 今日なんて朝からずっと心ここにあらずって感じだし」
「確かに……」
ひなたの言葉にそう首肯して、奏翔は霧絵がいる方を振り返った。
「ありえない……ありえないわ……あそこであんなとんでもないミスを犯すなんて……。これはきっと夢よ……夢に違いないわ……私は悪夢を見ているだけなのよ……」
机に突っ伏してぶつくさと呪詛のように小言を漏らす霧絵。その姿はまるでギャンブルに全財産を費やして大敗した人間のようで、かなり哀れに見えた。
「かなちゃん、励ましに行ってみたらどう?」
「え? 僕が? ひなたじゃなくて?」
「だって、わたしが励ましに行ったら嫌味みたいになりそうだもん。きりちゃん、あんな負け方しちゃったわけだし」
「それは一理あるけどさ、でも僕なんかで励ましになるかあ?」
「ものは試しだよ。ほらほら!」
「……しょうがないなあ」
ひなたに背中を押され、しぶしぶ霧絵の席へと向かう奏翔。
まあしかし、霧絵をあのままにしておくというのもなんだか忍びない。今回の件で奏翔になんら非はないものの、励ますだけで元気になってもらえるなら安いものだ。
「……えーと。あのさ、委員長」
言葉に迷いつつ、奏翔は未だ机に伏せたままの霧絵の前に立って、訥々と口を開いた。
「あんな失敗をしてすごくショックだったのはわかるけど、たかが消しゴム飛ばしなんだし、そこまで落ち込むようなことじゃないと思うよ?」
「ふふふ……そうね……たかが消しゴム飛ばしよね……。そのたかが消しゴム飛ばしであんな生き恥を晒した私なんて、もはや存在する価値もないわよね……あはは……」
ダメだ。完全に目が死んでいる。虚ろな空笑いが壊れた人形みたいで、軽くホラーだ。
「あちゃー。こりゃ思っていたより重症だねー。なんだか今にも悲しみの向こうに逝っちゃいそう」
「言ってる場合か」
ずっと背中に隠れたままのひなたにすかさずツッコミを入れる奏翔。いや冗談抜きで、こんな状態の霧絵をどう元気付けろというのだろうか。無理ゲーが過ぎる。
「あら、まだ落ち込んでいますの? いつもの口煩い委員長らしくもありませんわねえ」
「……プライドが高い人ほど、心が折れたら存外脆いもの」
と、エリカと柊も霧絵の様子が気になったのか、二人揃って奏翔のそばに歩んできた。
「いや、こうなったのもエリカさん達が強引に委員長を消しゴム飛ばしに誘ったからだと思うんだけど……」
「それは事実ではありますけれど、ああなったのは完全に委員長のドジが主原因だと思いますわよ?」
実際その通りなので、返す言葉もない。
「……けど、委員長を落ち込ませるきっかけを与えてしまったことには変わりない。そういう意味では、ボク達に責任がないわけではない」
「それにもう放課後だし、いつまでもきりちゃんをこのままにもしておけないよね」
「教室もその内施錠されるだろうしな」
当然ながら、教室もずっと開いているわけではない。この学校では日直の仕事が終わり次第、すぐに教室を施錠しなければならない決まりになっている。
とどのつまり、それまでに霧絵を復活させる必要があるのだが──
「でも、どうしたらいいのかな? さっきもかなちゃんが励ましたばかりなんだけど、ほとんど効果なかったし」
「そうなんだよなあ。励まして無理なら、もっと他の方法を考えないと……」
「なら、手っ取り早く褒め倒してみては?」
「おっ。エリちゃんナイスアイデア! さっそくやってみよ~!」
「……じゃあ、まずはボクが行く」
そう小さく挙手して、柊は霧絵の真横に立った。
褒め倒すとは言うが、果たしてそんな簡単にうまくいくものなのだろうか?
「……委員長。委員長の日頃の仕事ぶりにはいつも関心させられている。ここまで委員長としての役割を完璧にこなしている人物なんて、雛月霧絵以外に知らない」
ピクっ。
と、その時霧絵の耳が僅かながら反応したような気がした。
これは、ひょっとしたらひょっとするとかもしれない……!
「では、次はわたくしが行きますわ」
ふぁさっと優美に髪を掻き上げつつ、今度はエリカが霧絵のそばに近寄った。
「委員長、いつまでそうして落ち込んでいますの? みっともないですわよ」
「ちょ! エリカさん!?」
柊に続いて霧絵を励ましてくれるのかと思いきや、まさかの叱咤に奏翔は慌てて声を上げた。
が、エリカは任せてと言わんばかりにウインクを送って、改めて霧絵に向き直った。
「これでもわたくし、委員長のことを少し買っているんですのよ? 最初はやたらとルールに厳しい人だと疎ましく思っていましたが、ここまで徹底して規律を重んじている人なんて委員長が初めてで、逆に感心したくらいなのですから。だから委員長には、そうやって落ち込んでもらうよりも、いつもの毅然とした姿の方がお似合いだと思いますわ」
ピクピクっ、と柊の時よりも敏感に反応する霧絵の耳。まさに飴と鞭──こんな巧みな話術で霧絵の気分を上げようとは。千条院エリカ、恐ろしい子……!
「よーし! 最後はわたしだね~!」
トリはひなた──正直ここが一番の不安の種なのだが、本人はやる気満々なようだし、ここはひとまず静観してみるか。
「わたしも、きりちゃんはよく頑張っていると思うよ? いつも周りをよく見ていて、自分のこともちゃんとしていて。ほんと、きりちゃんはすごいな~。憧れちゃうな~。だから、いつものキリッとしたカッコいいきりちゃんに戻ってほしいなあ~」
ピクピクピク! とこれまで以上に霧絵の耳が歓喜するように躍動した。
そうして、しばらく待っていると──
「ふふ……ふふふふふふふ……!」
突如、霧絵の口から漏れ出た不気味な笑声。やがてその笑声は鳴りを潜め、代わりに晴れ渡るような満面の笑みを浮かべて、霧絵はやにわに立ち上がった。
「しょうがないわね! そこまで言われたらいつまでも落ち込んでいられないわ!」
そう言って、むふんと嬉しそうに胸を張る霧絵。
「さあみんな、用がないならさっさと教室から出るわよ。私もこれから塾があるから今すぐに帰らせてもらうけど、くれぐれも寄り道はしちゃダメよ? いいわね?」
それじゃあね! と霧絵はさも何事もなかったように通学鞄を持って、颯爽と教室から出ていった。
「あの方、ご自分が思っているより相当チョロいですわよね」
「チョロチョロだよねー」
「……チョロイン」
忙しなく帰っていく霧絵の後ろ姿を見送りながら、異口同音に感想を述べる三人。実際その通りだと思うので、なにも弁護できない。
「じゃあ、僕達も帰ろうか。ひなたは途中で買い物に行くんだっけ?」
「そうだよ~。だから途中まで一緒に帰ろうよ、かなちゃん♪」
「別にいいけど、途中で買い物に付き合えとか、そういうのは無しだからな?」
「ちぇー。たまにはわたしの買い物に付き合ってくれてもいいのに~」
「やだよ。どうせ荷物持ちをさせられるだけなんだからさ」
「……はあ~。羨ましいですわ」
と、ひなたと話していた最中、不意にエリカが聞こえよがしに溜め息を吐いた。
「わたくしなんてこれから父の客人──それも総理大臣の相手をしなければならないというのに。叶うならわたくしも総理大臣なんかよりも奏翔さんと一緒に帰りたいですわ~」
「……ボクもこれから家の用事がある」
言って、エリカは物憂げに、一方の柊は表情を崩さないまでも、どことなくしゅんと落ち込んだ様子で目線を伏せた。というか、総理大臣なんかって。千条院家では総理大臣と会うのが恒例行事になっているのだろうか? 一体どんな家庭なのだ。
それはさておき、こうして思い返してみれば今までエリカや柊と一緒に帰った覚えが一度もないが、それだけ忙しい身なのだろうか? いや、エリカも柊も共に家の用事らしいので奏翔にはどうすることもできないが、ここまで肩を落とされると、なんだかこっちの方まで悪いことをしたような気になってしまう。奏翔にはなんら落ち度はないが。
「けど、ま、これも千条院家に生まれた者の宿命と思うしかありませんわね。それでは奏翔さん、ひなたさん、柊さん、さよならですわ」
「……また明日」
「うん! また明日学校でね~!」
「さよなら。二人共、帰り道に気を付けて」
教室から出ていくエリカ(ずっとそばに控えていた黒服も含め)と柊に手を振って、ひなたと奏翔は二人の後ろ姿を最後まで見送った。
「さて、と。僕らも行こうか」
「うん。荷物持ちよろしくね~」
「だから買い物には付き合わないって言ってんだろ」
先ほどのやり取りを忘れたかのように厚かましいことを言うひなたに、ジト目で突っ込む奏翔。ほんと、油断ならなくて困る。
などと人知れず嘆息を吐く奏翔とは対照的に、ひなたはニコニコ顔で隣を歩く。
そうして、二人して廊下に出たところで、
「おや。音無君に笹野さん。今日も一緒に帰りかい?」
と、とある男性教師が朗らかに声をかけてきた。
「あ、まっしー先生。うん、今日もかなちゃんと一緒だよ~」
「二人は本当に仲がいいねえ」
笑顔で答えるひなたに、真城と呼ばれた教師もつられたように口許を綻ばせた。
真城十輝。
奏翔達のクラスの化学担当で、最近この学校に赴任したばかりの教師だ。
年齢はまだ二十四と若く、見た目も眼鏡と白衣が似合う爽やかイケメンということもあって、女子生徒から多大な支持を受けている。また温厚な人柄もあってか、赴任したばかりだというのに生徒から相談を受けることが多いらしい。
また一学期からではなく二学期から赴任という妙な時期から来た真城先生ではあるが、これは単にそれまで二学年の化学を担当していた教師が不慮の事故で足を骨折したための代人であって、特段複雑な事情はなにもない。どこにでもありふれた話だ。
「ところで二人共、あれから風邪とか大丈夫だったかい? この間の雨の時、ずぶ濡れで登校してきただろう?」
「あ、はい。特に問題ありません」
「真城先生、あの時はタオルを持ってきてくれてありがとね~」
笑顔で礼を言うひなたに、真城も柔和に微笑み返して、
「いやいや。俺なんて単に保健室からタオルを持ってきただけだから。特に音無君はカッターシャツが肌に貼り付くくらいに濡れていたから、少し心配だったんだよね」
「そうだ、聞いてよまっしー先生っ。あの時、わたしが学校に行く前に何度も傘を持っていった方がいいって言ったのに、かなちゃんってば全然聞いてくれなかったんだよ? 本当だったら濡れずに済んだのに!」
「……またその話か。朝にも言ったけどさ、あんな土砂降りになるとは思わなかったんだよ。傘持つの面倒だったし」
「でも、結局わたしの傘に入ることになっちゃったじゃん。かなちゃんが傘を持ってきてたら、わたしもかなちゃんも濡れずに済んだのにさー」
「別に頼んでないだろ? ひなたが無理やり入れてきたんじゃん」
「はいはい二人共。ケンカはダメだよ」
と口論が激しくなりかけてきたところで、真城先生が両手を叩いて仲裁に入ってきた。
「ケンカするほど仲がいいってやつなんだろうけど、ケンカしないに越したことはないからね。それと音無君は、少しくらい笹野さんに感謝してあげてもバチは当たらないんじゃないかな? これだけ心配してくれているんだから」
「……あ、はい。すみません……」
素直に頭を下げる奏翔。確かに、人前でするような話ではなかった。
と、心中で反省したとこでふとひなたの方を見てみると「やーい。叱られた~」とでも言わんばかりの子憎たらしい笑みを浮かべていた。こいつ、真城先生が気付いていないからって調子に乗りおって。あとで覚えておけ。
「おっと。つい話し込んでしまった。いきなり呼び止めてしまってすまないね」
「ああいえ、この間のお礼も言えたことですし、僕としてもちょうどよかったです」
「お礼を言ったのはわたしなんだけど~?」
「はいはい。ありがとさん」
「ははは。まるで夫婦漫才みたいだね」
冗談でもやめてほしい。こいつと夫婦なんて、全然笑えない。
「じゃあまっしー先生、わたし達もう帰るね~」
「失礼します」
「はい。二人共、さようなら」
横を通り過ぎる奏翔とひなたに、笑顔で手を振る真城先生。ああやってだれに対しても分け隔てなく愛想の良いところを見ると、真城先生がモテるのも頷けるというものだ。
「──くれぐれも、帰り道には気を付けて」
と、さながら予言を告げるかのごとく、意味深に呟かれたその言葉に「え?」ととっさに振り返ってみるも、そこには小さくなっていく真城先生の後ろ姿しかなかった。
「……なんだ今の?」
「かなちゃ~ん。なにしてるの~? 早く行こうよ~っ」
「ああうん。今行く」
まあ、単に教師として注意喚起をしただけだろう。
そう軽く受け止めて、奏翔は先を行くひなたの元に足を急がせた。