第四話 ゲームの続き
「委員長、ひとまず言動にだけは気を付けて。身の危険を感じたくないんだ……」
「音無君にだけは言われたくないセリフなんだけど……。でもまあわかったわ。私もいつトラブルに巻き込まれるか、わからないものね」
すでに巻き込まれているようなものだが、あえて黙っておくとしよう。
「けど私がいくら頑張ったところで、音無君とその周りにいる人達が気を付けてもらわないと効果は薄いでしょうし、ここはやっぱり笹野さん達にも積極的に協力してもらった方が──」
「いっけえええ! そのままエリちゃんとひいちゃんの消しゴムを落としちゃえー!」
「おほほほ! 甘いですわ! その程度の攻撃ではびくともしませんことよ!」
「……鉄壁の守り」
「──って、なにをしているのよあなた達ぃぃぃぃ!?」
と、いつの間にやら勝手に会話から外れて遊びに興じていたひなた達に、霧絵が盛大に
突っ込んだ。
「なにって、消しゴム飛ばしだよ?」
悪びれもせず、けろっとした顔でそう返答するひなた。さっきから妙に静かだと思っていたら、みんなと一緒に自分の席で遊んでいたのか。
「そういうことを訊いているんじゃないのよ! さっきまであなた達の普段の行動を注意していたのに、なんで当人達が知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのよ!?」
「だってきりちゃんの話、長くて退屈なんだもん」
「それでもちゃんと聞くのが常識というものでしょう? そもそも笹野さん、あなただって普段から音無君をよく叱っているくせに、よくそんな口が叩けるわね」
「かなちゃんはいいの! 出来の悪い息子みたいなものなんだから!」
「だれが出来の悪い息子だ、だれが」
見た目中学生の、天然おバカ娘にそんなことを言われる筋合いはない。
「だいたい消しゴム飛ばしって、男子小学生かお前は。むしろ、今どき小学生もやらないような遊びだぞ」
「ちっちっち。遅れてるなあ、かなちゃんは」
「……遅れてるって、なにがだよ?」
むすっとした顔で問いを投げた奏翔に、ひなたは得意げに消しゴムを指でつまんで、
「最近、消しゴム飛ばしがまたブームになり始めているんだよ。かなちゃんはゲーム以外の流行に疎いから、知らなくて当たり前だろうけどね~」
「くっ。こいつ、偉そうに威張りやがって……!」
だが、実際世間の流行には疎い方なので、なにも反論できないのが悔しいところだ。
「ああ、それなら私もニュースで観たことがあるわね。でもあれって、流行っているのはほとんど小学生ばかりって聞いたけれど?」
「え、そうなの? なんだ、じゃあこんな子供じみた遊びをしている奴なんて、ひなたぐらいしかいないってことじゃん」
「そ、そんなことないもん! その内高校生にも流行るもん! わたしは流行の兆しを先取りしただけだもん!」
「その先取り、思いっきり迷走してなくないか?」
今だって、ひなた達ぐらいしか消しゴム飛ばしをしている者なんて他にいないし、この先高校生にもブームになる兆しなんて皆無に等しかった。どうせ中身が子供のひなたのことだから、テレビでやっていた消しゴム飛ばしのニュースを観て自分でもやりたくなったとか、そんなところだろう。この俗っ子め。
「……けど、実際にやってみると案外面白い。戦略性もあって、なかなか奥が深い」
と、すっかり白けてしまった奏翔に、柊がすっと音もなく近寄って発言してきた。
「わたくしも同意見ですわ。このような庶民の遊びは初めてではありますが、わたくしとしたことがついつい熱を入れてしまいましたわ」
「え、エリカさんまで?」
なんだか意外だ。超お嬢様であるエリカが、こんなアナログな遊びに熱中するなんて。
「まったく、人の話を最後まで聞かないでなにをしているのかと思えば……」
はあ~、とこれで何度目になるかもわからない溜め息を吐きつつ、霧絵は嘆かわしいと言わんばかりに天井を仰いだ。
「この歳になってまで消しゴム飛ばしとか。私はこんな子供っぽい人達の面倒をあと半年も見なければならないの……?」
「失礼ですわね! ひなたさんはともかくとしても、わたくしまで子供扱いしないでくださいまし!」
「……そこはかとなく不愉快。そういうのはひなたにだけ言ってもらいたい」
「かなちゃん! みんなしてわたしのことをバカにしてくる~っ!」
「実際その通りだしなあ」
「うわ~んっ! Gメン楚歌だよ~っ」
それを言うなら四面楚歌だ。
「……そこまで言うなら、委員長も試しにやってみるといい。単なる児戯ではないということがすぐにわかるはず」
「いや、私は別にいいわよ。そんな幼稚な遊び」
「あら、やってもいないのにバカにするなんて、それこそ幼稚ではありませんこと? 委員長として、そういう偏見を持つのはどうなんですの?」
「偏見って、そんな大袈裟な……」
「そうだよ! 変形だよ! きりちゃんの変形だよ!」
「委員長はトランスフォームなんてしてねぇ」
先ほどから頓珍漢なことばかり言うひなたに、冷静にツッコミを入れる奏翔。この幼なじみは、感情が昂るとすぐ言動がおかしくなるから困る。
「こほん。と、とにかく」と場を仕切り直すように咳払いをしたあと、霧絵は表情を引き締めて言葉を継いだ。
「私は消しゴム飛ばしなんてしないわよ。興味もないし」
「んまっ。なんて強情な方。ここまで言ってもまだ断るなんて……」
「強情で結構。なんとでも言いなさい」
にべもない霧絵に、さすがのエリカも諦めが付いたのか「……仕方がありませんわね。無理強いもできませんし」と大仰に肩を竦めた。
「まあでも、確かにやる気が出ないのはわからないでもありませんわ。委員長はわたくしと違って、全然ハンデがありませんものね。おっぱいというハンデが」
そのなにげない感じで呟いたエリカの言葉に、霧絵がぴくっとこめかみを動かした。
「……どういう意味かしら?」
「どうもこうも、そのままの意味ですわ。わたくしやひなたさんならともかく、委員長のその小さめなおっぱいなら、消しゴムを飛ばすのになんら支障はないでしょうし、やる気が出ないのは無理ありませんわ。約束された勝利なんて面白味がありませんものね」
言いながら、エリカはその豊満な胸を見せつけるかのように下から持ち上げてたぷたぷと揺らした。目の前に奏翔という男子がいるにも関わらず、よくもまあ、あんな大胆な真似ができるものだ。しかも傍目には挑発としか思えないだろうが、それなりに付き合いのある奏翔だからこそわかる。あれが悪気のない純度百%の本音だということが。
「ほんと、エリちゃんの胸ってすごく大きいよね~。そういえば、まだ聞いたことなかったけれど、エリちゃんってなにカップなの?」
「フリーダムのFですわ」
「わっ。おっきい~! ちなみにわたしはダイナミックのDだよ~」
「あら、ひなたさんも見た目より大きいんですのね。柊さんは?」
「……ボクは微乳のB。奏翔は微妙なおっぱいは嫌い?」
「えっ。い、いや、別にそんなことはないけど……」
というか、なぜにBだけ日本語なのだろうか?
「で、委員長はどうなんですの?」
「ど、どうって……?」
「カップですわよ、カップ。委員長の胸はいくつなんですの? まさか委員長だけ黙秘なんてしませんわよね?」
エリカの言葉に、霧絵は渋るようにサマーベストの胸付近をぎゅっと掴んだあと、
「……………………よ」
「え? なんて仰いましたの? 声が小さくてよく聞き取れませんでしたわ」
「~っ! だから! AよA! 文句ある!?」
などと、若干涙目になりながら怒声を飛ばす霧絵。よほどコンプレックスなのか、顔も真っ赤だ。
「ああ。それでこの暑い中、ベストなんて着ていたのか……」
「ちょっと! どういう意味よ音無君! 私がベストを着ているのはブラ透けを避けるためであって、貧乳を隠すためなんかじゃないわ! 誤解しないでもらえる!?」
「あ、はい! すごく似合っていると思います! ベストなだけに!」
「別に上手くもなんともないわよっ!」
フォローを入れたつもりが、逆にめちゃくちゃ怒られてしまった。
「それと、千条院さんも千条院さんでなにか言いなさいよ! なんでさっきからド肝を抜かれたような顔をしているのよ!?」
「……ああいえ、驚きのあまり思わず固まってしまいまして……。Aカップって、都市伝説とかではありませんでしたの……?」
「なによ都市伝説って!? Aカップなんて存在していないとでも!?」
「え? 存在していませんわよね?」
「なにその認識!?」
真剣に問い返すエリカに、今度は霧絵が面喰らったように仰け反った。
「冗談でしょう? どうしてAカップが存在しないことになるのよ! だいたいその理屈だと、十歳未満の女の子だってBカップ以上ということになってしまうじゃない!」
「きりちゃん、さすがに第二次性徴前の女の子と比べちゃダメだよ……」
「……必死過ぎて、逆に憐れでならない」
「どうりでバストサイズを訊いた時に、躊躇するような仕草を見せたわけですわ。消しゴム飛ばしを断ったのも、屈んだ時に胸囲の格差をむざむざと見せつけられるのが嫌だったからなんですのね……」
「きいいいいいいいっ! あなた達は~っ!」
憐憫の眼差しを向けるひなた達に、霧絵は怒りの臨界点を超えたと言わんばかりに奏翔の机を乱暴に叩いた。
「もう我慢ならないわ! そこまで言うなら、私もその消しゴム飛ばしに参加してあげようじゃない! こうなったら徹底的に叩き潰して、私と同じくらいプライドをズタズタにしてあげるわ!」
私怨に燃える霧絵に「やったあ! これで四人目だ~っ!」と嬉々として瞳を輝かせるひなた。いや、喜んでいる場合ではないと思うのだが。本気で怒っているみたいだし。
「これでかなちゃんも入れたら、五人で遊べるね♪」
「いえ、音無君には外れてもらうわ」
「へ? なんでかなちゃんはダメなの? みんなで遊んだ方が楽しいよ?」
「さすがに机一つで五人も遊べないわよ。狭くて動きも制限されてしまうでしょうし、なにより──」
と、そこで霧絵は一拍置いて、睥睨するようにひなた達を見渡したあと、こう居丈高に告げた。
「これは女同士の尊厳を懸けた勝負──胸の大きさなんて公平な勝負の前ではなんの言い訳にもならないということを証明してあげるわ!」
「……いや、僕は別に見ているだけでもいいけどさ。でも胸が邪魔で屈みづらいってエリカさん達が言っている以上、今使っている机のままだと公平な勝負にはならなくない?」
「だったら、別の机を使えばいいだけの話よ」
「別の机って?」
そう訊ねた奏翔に、霧絵は「あれよ」と教卓の方を指差した。
「あれなら広さも問題ないし、高さも胸元近くまであるから、消しゴムを飛ばすのに屈む必要なんてないはずよ」
「え? いいの? 委員長だったら真っ先に注意しそうな行為なのに」
「私だってなんでもかんでも厳しく注意しているわけじゃないわよ。時と状況によるわ」
目を瞠る奏翔に、霧絵は心外だと言わんばかりに腕を組んだ。
「確かに教卓を遊び道具として使うのはあまり褒められたことじゃないけれど、次の授業で邪魔にさえならなければ問題ないわ。おあつらえ向きに、一時限目は宵町先生の授業だし、どうせまた遅れてやってくるでしょ」
「ああ、なるほど」
確かに宵町先生ならば、時間ギリギリまで教卓を使っても、なにも文句は言われないだろう。それ以前に教卓を使うのかどうかすら怪しいところだ。寝てばかりいるし。
「よーし! じゃあさっそく教卓に移動だ~!」
「おほほほ! どこでやろうと、優雅に勝利してみせますわ~!」
「……負けられない戦いがそこにある」
「ちょ、待ちなさい! 私まだ消しゴムを用意していないから!」
揚々と一足早く教卓へと向かったひなた達に、慌てて自分の席に戻る霧絵。そんな四人を見やりながら、奏翔はやれやれと苦笑を漏らしながら奏翔も後に続いた。
そんなわけで、それぞれ消しゴムを手に持って、教卓を囲むように集まったひなた達。一方の奏翔は窓側の少し離れた位置から、ひなた達の様子を眺めていた。
「それで、次はなにをしたらいいのかしら?」
「消しゴム飛ばし自体は知っているけれど、ルールの方はあまり詳しくないのよね」と口にした霧絵に対し、ひなたはおもむろに自分の消しゴムを教卓の上に置いて、
「えっとね、まずは消しゴムを好きなところに置いて、次にだれから先に消しゴムを指で弾くか順番を決めるの。それで、みんなで消しゴムをぶつけ合って、最後まで自分の消しゴムが机の上に残っていた方が勝ちだよ~」
「要はビリヤードと似たようなものだと思えばいいのね。ビリヤードみたいに固定の穴に落とす必要がない分、こっちの方が壁もなくて簡単そう」
「……しかし、ただ勢いよく落とせばいいというものではない。あまり勢いが強過ぎると相手と一緒に落ちてしまうリスクもある上、最悪軌道から外れて、自分の消しゴムだけが落ちてしまう危険性がある。ビリヤードと違って恐ろしいのは、そういったミスが往々にして起きる点にある」
柊の言うことはもっともだ。ビリヤードとは違い、消しゴム飛ばしは上手くスピードを調整しないと、逆に自分が窮地に陥りかねない遊びなのである。
「じゃあ、教卓の端に置くのはやめておいた方がよさそうね」
そう言って、霧絵は真ん中付近に新品の消しゴムを置いた。ちょうどひなたの右隣の位置だ。
「ま、セオリーですわね。とはいえ、必ずしも中心に置くのが正しいとは限りませんが」
言いながらエリカが選んだのは、奏翔から見て、ひなたと霧絵の消しゴムからやや離れた後方の位置だった。きっと距離を空けることによって、加速力を付けようという算段なのだろう。それが吉と出るか凶と出るかは定かではないが。
「……エリカの言うことは一理ある」
最後に柊が置いたのは、エリカとは逆側……ひなたと霧絵の置かれている消しゴムからやや離れた前方寄りだった。エリカ同様、柊も加速を優先したようだ。
順番に関しては、手っ取り早くじゃんけんで決めることになった。ちなみに、ひなた、エリカ、柊、霧絵の順である。
「よーしっ。一番手はわたしだね~」
意気揚々に肩を回して、教卓の上に右腕を載せるひなた。立ち位置からして、まずは柊を狙うことにしたようだ。
「いくよ、ひいちゃん!」
「……どんと来い」
指を構えるひなたに対し、表情を変えないまま静かに応える柊。
そうして、照準を定めるように柊の消しゴムを矯めつ眇めつ見やったあと、ひなたは一気に自分の消しゴムを指で弾いた。
綺麗にまっすぐ滑ったひなたの消しゴムは、見事柊の消しゴムに命中しつつも、教卓から落とすほどのパワーはなかったようで、端から数センチ離れた位置で両者縦並びの状態で停止した。
「う~っ。一発で落とすつもりだったのに~っ」
「あらあら。残念でしたわねえ」
悔しがりながら後ろに下がるひなたに代わり、今度はエリカが愉快げな笑みと共に教卓のそばに立った。
「ご安心くださいまし。ひなたさんの後始末はわたくしがしてあげますわ。もっとも、その時は柊さんと一緒に脱落しているでしょうが」
「あっ。ずる~い! わたしも一緒に狙うなんて~!」
「おーっほほほほほほ! 勝負の世界はいつだって非情なものですわ」
言いながら、エリカはひなたと柊側に照準を定めて教室に右腕を載せた。始めの時より距離が開いてしまったので、それなりにスピードを付けないとひなた達の消しゴムまで届かないが、ここで二人を脱落させたら残るは初心者の霧絵のみ。ここでの勝利はかなり大きいものとなる。
「行きますわよっ!」
そんな高らかな宣言と共に打ち出されたエリカの消しゴムは、途中で一度回転しつつもひなたの消しゴムにヒットした。
が、これまたパワー不足だったのか、はたまた途中で回転して加速を失ったのが災いしたのか、ひなたの消しゴムを柊の消しゴムのすぐ横に寄せただけで、結果的には一つも落とせずに終わってしまった。
「くうっ! わたくしとしたことが、なんたる不覚……!」
「……二兎を追う者は一兎をも得ず。欲張るのはよくない」
がくっと大仰に膝を付いて落胆するエリカに代わって、次は柊が戒めのことわざの共に教卓の前へと立った。
「……勝負は何事も堅実に。ここはひなたの消しゴムをどかして離脱を図る」
教卓に左腕を載せて、中指に力を加える柊。言葉通り、まずは壁となっているひなたの消しゴムをどかして安全地帯に逃げるつもりでいるのだろう、目線は教卓の中心に向いていた。
果たして、結果は──
「……ん。少しズレた。でも及第点」
「……やりますわね。完全に離脱できたと言わないまでも、直前に比べれば中心に寄れた方ですし、ちゃっかりとひなたさんを一番端まで寄せるあたり、抜け目ありませんわ」
「わ~ん! 今度はわたしが追い込まれちゃったよ~っ」
最も危険な位置まで消しゴムを移動させられて、涙目で頭を抱えるひなた。ちなみに、現在それぞれの消しゴムがどこにあるかというと、一番右上端にひなた、その斜め左後方に柊、そのすぐ後ろにエリカ、そして霧絵はだれにも的にされていないので以前のまま、という配置になる。
「おおっ。委員長の消しゴムだけ一切動いていないのに、いつの間にやら一番有利な位置にいる! これは面白くなってきた……!」
思わず興奮する奏翔に、霧絵は状況がよくわかっていないのか、小難しげに眉をひそめて「え? どういうこと?」と首を傾げた。
見た通りだよと、奏翔は教卓の上を指差した。
「ほら、ちょうどひなた達の消しゴムが斜めに並んでいるでしょ? これで一番近くにいるエリカさんの消しゴムにアタックしたら、連鎖反応でひなたの消しゴムを落とすことができるし、上手くいけば柊さんも一緒に落とせるかもしれないってことだよ。いや、運さえよければ、三つ全部いけるかも……?」
「つまり、千載一遇のチャンスというわけね!」
奏翔の説明を聞いて、霧絵は気合いが入ったようにガッツポーズを取った。なんだかんだ言いながら、霧絵もこの勝負を楽しんでいるようだ。
「どうしようどうしよう! このままじゃあ、わたしの負け確定だよ~っ」
「……ボクも少しまずいかもしれない。身から出た錆だけど」
「わたくしも柊さんより離れているとはいえ、威力次第では委員長に落とされかねませんわね……」
霧絵の圧倒的有利な状況に、焦燥を見せる三人。初心者で未だ一度も消しゴムを弾いてすらいない霧絵に、まさかこんな幸運が訪れるとはだれも予想すらしていなかったことだろう。
「ふふ──やっぱり胸の大きさなんて勝負の世界に関係ないのよ! 勝負に必要なのはいつだって知略と度胸と時の運! 身体的特徴を言い訳に逃げ道を作るなんて愚の骨頂ということね! 特に巨乳とか!」
よほど根に持っていたのか、ことさら胸という単語を強調して言う霧絵。まあ実際そこまで巨乳がハンデになるとは言い切れないが。だからと言って、そこまで目の敵にするのもどうかと思う。
「さあ、いよいよ私の番ね」
と、霧絵は芝居がかったように前髪を掻き上げて、教卓の前に立った。いつもよりどこか凛然としていて、さながらドラマのワンシーンのようだ。
「見ていなさい。私が完全勝利するところを!」
まだ一度も消しゴムを飛ばしたことすらないド素人なのに、そんな大見得を切って大丈夫なのだろうか?
なんて奏翔の心配をよそに、霧絵は自信満々といった態で教卓の上に右腕を載せた。矛先をエリカに向けているあたり、みんなが懸念していた通りに一挙両得を狙っているようだ。
そうして奏翔達が固唾を呑んで見守る中、霧絵は力を込めるように息を吸い込んで「ていっ!」と一気に消しゴムを弾いた。
勢いよく疾駆する霧絵の消しゴム。そのスピードたるや、さながら蒼穹を突き抜けるかのごとく軽やかに飛翔していき──
いや、ちょっと待て。消しゴムが飛翔している……?
そう疑問に思ったのは奏翔だけではないようで、卓上にあるべき視線が、皆一様にしてぽかんと頭上を見上げていた。正確には、頭上を飛ぶ消しゴムに。
その後、当然のことながら消しゴムは放物線を描きながら教卓を超えて落下していき、そのまま教室の床をコロコロと転がっていった。