第三話 奏翔ハーレム
秀道高校の朝のHRは、まずチャイムが鳴ったあとに五分ほど各々の机周りを軽く清掃する決まりになっている。そのため、チャイムと共に担任教師がすぐに入ってくることはなく、少し間を空けたあとに入室してくるのが通例となっている。
しかしながら、これが奏翔達のクラスの場合となると──
「今日も来ないねえ。先生。チャイムが鳴ってからもう十分近く経つのに」
ざわざわとあちらこちらで話し声が響く中、隣の席で頬杖を突きながら漏らしたひなたの言葉に、奏翔は下敷きで顔を扇ぎながら「そうだな」と気怠げに頷いた。
「言っても、いつも通りだけどな。最初平然と遅れてやって来た時は驚いたけど」
「わたし達が一年生だった時の担任の先生は、きっちりしてたもんねー。ここだけみたいだよ、先生がHRの時間になってもなかなか来ないのは」
「他にもいてたまるかって話でもあるんだけどな。ま、さすがにもう今となっては慣れたもんだけど」
実際、周りにいるクラスメート達も動揺や困惑を露わにすることもなく、毎度のごとく担任教師が来るまで雑談に興じている者ばかりだ。
もっとも、あまり騒ぎ立てると他のクラスの教師が注意に来る可能性が高いため、皆一様にして声量を抑えるぐらいにはわきまえている。中にはこの暇な時間を利用して勉強したり、机に突っ伏して寝ている者もいたりと、各自、自由に過ごしていた。
こうなってくると、このクラスの委員長であり堅物である雛月霧絵が黙っていないはずなのだが、あまりにも担任教師の遅刻が多過ぎて次第に心が折れてきたのか、いつの頃からか、過剰に騒ぎ立てない限りは口煩く注意することもなくなっていた。
さて、そんな真面目を絵に描いたような霧絵を諦めの境地に至らせるほどの教師とは、一体いかような人物なのかと言うと──
「あ、来たみたいだよ、先生」
ひなたの呟きに「やっとか」と奏翔は嘆息を吐きつつ、廊下側の窓に映る黒いシルエットに目を向ける。
そうして、なぜかフラフラとした歩調で教壇側の戸の前へと来たその人物は、これまた弱々しい動作で戸を少しずつ開いて、
「……うっぷ。昨日は飲み過ぎた……」
と口許を片手で押さえながら、戸口にもたれかかりつつ教室へと入ってきた。
長い黒髪のポニーテール。成人女性としては割と高めの身長。安物のジャージ姿ではあるが、それでもエリカと勝るとも劣らないほど抜群にスタイルが整っているのが、服の上からでも見て取れる。
これだけでも十二分に魅力的ではあるし、顔の造形も思わず見惚れてしまうほど色気に溢れているが、今やその艶美な雰囲気も、鼻を刺す酒臭さと二日酔いで蒼白となっている顔色で台無しとなっていた。
宵町竜子──ちょうど奏翔がこの高校に入学したのと同じ時期に赴任してきた教師であり、残念ながら奏翔の担任でもある女性だ。
「先生! 今日は十三分も遅刻ですよ! 一体なにをされていたのですかっ?」
「……うん。雛月、少し静かにしようか。頭にズキズキ響くから」
一番後ろの席から勢いよく立って怒声を飛ばしてきた霧絵に、顔をしかめながら額を押さえる宵町先生。こんなのが担任なのかと思うと、今さらながら悲しい気分になる。
それを霧絵も改めて痛感したのか、一度まっすぐ挙げた手を力なく下げて、そのまま溜め息と共に席に座り直した。
一方の宵町先生は、相変わらず覚束ない足取りで教壇へと向かい、手にしていた学級日誌を教卓の上へと滑り込ませるように置いて生徒達の前に立った。
「はぁい。それじゃあ今日も憂鬱に朝のHRを始めま~す。日直、学校破壊して」
「いや先生、さも当然のように犯罪行為を命じないでください。そこは号令のはずです」
宵町先生の無茶振りに、今日の日直であり、教卓のすぐ前の席にいる小山という男子が即座に突っ込んだ。
「え~。だめなの~? 今日は体調も悪いし、早く家に帰りたいんだけど」
「それは、単なるお酒の飲み過ぎなせいでは?」
「飲み過ぎとか言っちゃってくれるけどさあ、大人には飲まなきゃやってられないことがいっぱいあるんだよ。社会人とお酒は切っても切れない関係なんだよ」
「大人の事情はよくわかりませんが、少なくとも社会人なら翌日まで残るような飲酒は避けるべきなのでは?」
「ばっかお前。酒でも大量に飲まなきゃ、その日の嫌だったことなんて忘れられねぇだろうが。いっそ酒に溺れたいくらいだわ。酒瓶を抱いて溺死したいわ」
「それは死体の後片付けが大変になるのでやめた方がいいかと」
「え、そこは自殺を止めるところじゃないの? なんで私が死んだあとのことだけ心配してんの?」
小山のツッコミに、悲しそうな表情を浮かべる宵町先生。なにげにツッコミが辛辣というか、色々と容赦ない小山だった。
「じゃあ訊きますけど、そうまでして忘れたいことって一体なんなんですか?」
「……………………五対五で合コンに行ったら、なんでか私だけあぶれた」
直後、クラス全体が重苦しい静寂に包まれた。
「……ふふふ。笑っちゃうよね。アラサーの男女だけが集まる合コンだったんだけどね、私以外はみんな昔懐かしい話で盛り上がってんの。けど私が話す時だけ、みんな引きつった笑みを浮かべんの。へへ、可笑しいよね……」
死んだ魚みたいな目で譫言のように呟く宵町先生に、あまりのいたたまれなさに押し黙るクラス一同。もはやどう慰めの声をかけたらいいか、だれにもわからなかった。
「……あれかなあ。つい酔って酒瓶を振り回したのがまずかったのかなあ……」
確実にそれが原因だろ。
そう思いはしたが、奏翔はもちろん、だれもが呆れて物も言えなかった。
「くそう。いつになったら私を養ってくれる人が現れるんだ。こちとらさっさと仕事なんか辞めて、一生家事もせずにぐーたら生活していたいのにさあ!」
「そんなダメ人間みたいなことばかり言っているから結婚できないんですよ、先生」
すかさず突っ込む小山。本当にその通りだと思う。
「うっせばーかばーか! これがラノベだったら絶対挿し絵にもならないようなモブキャラ野郎が!」
「モ、モブキャラ……」
教師とは思えない暴言に、小山は心底ショックを受けたように固まった。
「はい! もうHR終わり! 出席確認なんて知るかいちきしょうめ! 各自、勝手に調べろバカヤロー! あ、叫んだら余計頭痛くなっちゃった……」
と、それだけ吐き捨てるように告げた宵町先生は、頭を押さえながらフラフラと千鳥足で教室から出て行った。ああいう大人にだけはなりたくないものだ。
「……あの人、なんでクビにされないんだろうな。どう考えても教師失格なのに」
「あはは……」
半眼で言った奏翔に、ひなたは特に言葉を返すこともなく苦笑だけ浮かべた。同意しないということは、あの先生をそれなりに気に入っているからなのだろうが、個人的にどうかと思う。
「ほんと、音無君と同意見だわ」
と、宵町先生が退室していったから少し経って、後ろの席からこちらの方へと歩いてきてきた霧絵が、憤懣やる方ないといった様子で声をかけてきた。
「なんであんな人が教師なんてやれているのかしら。校長先生もなにも口出ししていないみたいだし。まったく、どうかしているわ」
「でも、よいちゃん先生って以外と人気あるんだよ? 大雑把でだらしないけど、さばさばした性格だから男子でも女子でもすごく話しやすいって」
「人気があること自体は認めるけれど、みんなもう少し危機感を持った方がいいんじゃないかしら……」
ひなたの言葉に、霧絵は何事もなかったかのように会話を楽しむクラスメート達を見渡しながら、深い溜め息を吐いた。
「まあ黙っていたら綺麗な方だし、なにかと緩い先生だから、それでみんなから好かれているのかもね。僕には全然理解できないけど」
「大丈夫よ。私も全然わからないから」
「えー? わたしは好きだけどなあ、よいちゃん先生。見ていて面白いし」
「見ていて面白いだけの先生なんて芸人となにも変わらないわ。仮にも教職なら生徒から尊敬される人であるべきよ」
大人の見本という意味でもね、と一言付け足す雛月。確かに教師が一番身近にいる余所の大人でもあるし、人生の師としてもキチンとしてもらいものだ。
「ところで笹野さん。音無君とはもう仲直りは済んだのかしら?」
「へ? 仲直りって?」
「あら? 今朝、下駄箱近くで笹野さんを見かけた時に機嫌が悪そうに見えたから、てっきり音無君とケンカでもしたのかとばかり思っていたのだけれど?」
「かなちゃんとケンカ~? かなちゃん、わたし達っていつからケンカしてたの?」
「うん。忘れているならいいや……」
いつまでも立腹されているよりはマシだし、こちらとしてもその方が好都合だ。
「おーっほほほほほほ! これもわたくしが用意したお菓子のおかげですわね!」
と、いつから奏翔達の会話を聞いていたのか、離れた席にいるエリカが、いつもの高笑いを上げながらこちらの方へと近寄ってきた。
「……けど、実際に用意したのは黒服の人」
「ちょっと柊さん! 余計なことを付け足さないでくださいまし!」
背後の方からぬっと現れた柊に、エリカは即座に後ろを振り返って声を荒げた。
「それに、用意したのは向こうだとしても、買いに行かせたのはこのわたくしですわ。とどのつまり、わたくしが用意したも同然! 称賛されるべきはわたくしにありますわ!」
「……強引な論理展開。黒服の二人がとても不憫」
奏翔もそう思う。心の底から。
ちなみにその黒服の二人はというと、教室の一番奥の方で直立しながら待機していた。これだけでも十分異様なのだが、ボディガードが常に教室にいるにも関わらず、周りにいるだれも気にも留めていないことの方がどうかしているように思えた。慣れって怖い。
「……ちょっと千条院さん。今のはどういうことかしら?」
と上機嫌に語るエリカに対し、霧絵が聞き捨てならないと言わんばかりに腕を組んだ。
「学校にお菓子を持ち込むのは校則で禁止されているはずよ。学級委員長として看過できないわ」
「うっ……。相変わらずお堅い人ですわね……」
睨むように見つめてくる霧絵に、顔を引きつらせてたじろぐエリカ。
「べ、別にいいじゃありませんの委員長。そのおかげでひなたさんの機嫌も直ったことですし。ひなたさんも、美味しく頂いたでしょう?」
「うん! すごく美味しいクッキーだった~!」
「そうでしょうとも。なぜなら要人御用達の一流ホテルに務めていたパティシエが作った最高級のクッキーの詰め合わせなのですから」
「え、そんな高い物だったの? どうしよう、知らずに僕も食べちゃったよ……」
「ああ、ご安心してくださいまし。高いと言ってもあくまでも一般人基準のもの。わたくしにしてみれば小銭同然ですわ」
「……さすがエリカ。お嬢様なだけあって、味も文句なしの一品だった」
「って、音無君だけじゃなく御影さんまで食べちゃったの!?」
どうりで私が挨拶運動から戻ってきた時、四人揃って教室にいなかったわけだわ、と霧絵は心底呆れたように頭を振った。
「もう、本当にあなた達は……。二年生になって初めて同じクラスになったけれど、こんなに問題行動を起こす人達とは思ってもみなかったわ」
「ちょっと待ってくれ委員長。それって僕も含まれていたりするの? だとしたら他の三人はともかく、こっちは心外なんだけど」
「あ、かなちゃんずるい! 自分だけ言い逃れしようとしてる~!」
「……しかも矛先をしっかりボク達に向けている」
「わたくしの婿ながら、ちゃっかりと抜け目ないですわねえ」
人聞きの悪いことを言わないでほしい。こっちは事実を述べているだけなのだから。
「私にしてみたら全員同罪よ。笹野さんはしょっちゅう赤点を取っては親しい人によく泣きついていたりするし、御影さんはいつも物静かだけど面倒事があったらすぐ気配を消してどこかに行っちゃうし、千条院さんは平気でボディガードを学校の中まで連れ回すし、席替えの時にお金で席順を買収しようとして自分だけ好きなところに座ろうとするし、体育の授業中に堂々と紅茶を飲み始めたりするし!」
「……わたくしだけ、他の方よりやたら不満が多くありませんこと?」
憤然と語る霧絵に、エリカはショックを受けたように表情を曇らせた。実際どれも本当のことなので、不満を持たれるのは無理からぬ話だと思う。
「特に問題なのは音無君の方よ。音無君自体は目立った問題行動はないけれど、あなたを中心にすると笹野さん達が暴走しやすくなるのよね。さっきのお菓子の件もそうだし、ゴールデンウイーク前に社会見学で奈良に行った時だって、音無君のグループだけ行方不明になって大変な騒ぎになった時があったじゃない。忘れたとは言わせないわよ?」
キッと凄んできた霧絵に、奏翔は痛いところを突かれたと言わんばかりに「うっ」と仰け反った。
だがこっちにも色々事情があったのだ。あの時はひなたとエリカと柊の四人で行動していたのだが、自由行動中にひなたが目に映るすべての屋台や土産物に嬉々として飛び付いたり、柊が野生の鹿に異様な興味を持ってなかなか離れなかったり、エリカが高級和菓子店を買収しようとしたりと、一言では説明しきれないほど様々なトラブルがあったのだ。
しかもその時、運悪く奏翔のスマホの充電が切れており、事前に教師陣と連絡を取り合うことすら叶わない状況だった。あれ以来、学校行事でスマホの充電をこまめに気にするようになったのは言うまでもない。
「まあ、あれは宵町先生も悪かったと思うけれど。生徒の様子を見て回らずにバスの中でずっと爆眠していたなんて、一体どういう神経をしているのかしら。おかげで委員長の私が色々と動き回る羽目になってしまったわ」
「あの時は本当にご迷惑をおかけいたしまして……」
「別にもういいわよ。結果的には無事に済んだわけだし」
と、始終低頭する奏翔に対し、霧絵はやれやれと言わんばかりに肩を竦めて苦笑した。
「でも、あの一件で音無君達から目が離せないようになってしまったのは紛れもない事実ね。学級委員長として、余計なトラブルは事前に防いでおきたいし」
言われてもみれば、あれ以来霧絵の監視の目が厳しくなったというか、図らずも初めて会った時に比べて交流が増えたような気がする。そのおかげもあって、初対面時のお堅いイメージから意外と面倒見の良い人という認識に変わりもしたが。
「けどさ、それって僕の方が問題児っていう理屈にはならなくないかな? 社会見学の時は確かに僕にも非はあったけれど、ほとんどはひなた達が起こしたトラブルなわけだし、相対的に考えて僕の方が周りに迷惑をかけていないように思えるんだけど?」
「さっきも言ったけれど、音無君の行動自体に問題があるわけじゃないの。音無君を中心にトラブルが起きやすいのよ。言わば、事故誘発型のトラブルメーカーというやつね」
「え、なにその不名誉過ぎる称号」
いや、まったく心当たりがないわけではないが、どれも不可抗力なものが多いし、なにより本当に奏翔との意思とは関係なくトラブルを誘発しているのだとしたら、寝耳に水もいいところだった。そんなもの、直そうにも直しようがないではないか。
「だからこうして私がなるべく近くにいてあげているんじゃない。安心してちょうだい。私がそばにいる限り、これ以上音無君のイメージを下げさせたりはしないわ!」
『くそっ。音無の奴、いつの間にかあの委員長までハーレムに加えやがって……』
『なんであいつの周りだけ女子が集まりやすいんだろうな? しかも美少女ばっかりだし……』
『憎し……! 音無ハーレム羨ま憎し……!』
「あの、委員長? 現在進行形でイメージが下がっているんだけど……」
「? どこが? 学級委員長の私がそばにいるんだから、これ以上評判が下がるわけがないじゃない」
おかしい。今明らかに周りにいた男子達がこちらのことを妬ましげに話していたはずなのに、なにゆえ霧絵にだけ聞こえていないのだ。いくら小声で会話していたとはいえ、奏翔にもはっきり聞き取れたというのに。
それにしても、前々からクラスの男子と折り合いが悪いとは思っていたが、まさかここまで嫉妬されていたとは。どうりでなかなか同性の友達ができないわけだ。
「……友達が一人もいないよりはマシなんだろうけど、すげえ複雑な気分……」
「ちょっと、それってどういう意味? 私が近くにいたら迷惑とでも言いたいの? そ、そりゃあ笹野さん達に比べたら、私なんて全然可愛げがないんでしょうけど……」
『おい音無の奴、委員長を悲しませるようなことを言いやがったぞ……!』
『あいつ、一体何様のつもりなんだよっ』
『処す……? 処す……?』
「いやいや! 可愛いよ! 委員長も十分可愛いから! ほんと、お世辞抜きで!」
「や、やだ。そんな大きな声で急に褒めないでよ。照れちゃうじゃない……」
『『『よし。今からあの野郎を呪ってやろう』』』
もうどうしろというのだ。