第一話 僕、俺、入れ替わってる!?
既に完結まで執筆完了しております。
最後までお付き合い、宜しくお願いいたします。
「母さん、そろそろ起きないと、遅刻するよ」
テーブルに並べた朝食の香りと共に、ソファでまだ眠っている母さんへと声を掛ける。
長い藍色の髪を寝ぐせで暴れさせたまま、母さんは目を開けずに口だけを動かした。
「んん……素直、ママ、まだ、ちょっと眠い……」
霧暮良子――今年で三十八歳になる僕の母さんは、まるで学生のように睡眠を求める。
ちゃんと返事をしているけど、意識はまだ、まどろみの中といった感じかな。
三分ほど様子を見ていたけど、すぐさま寝息を立て始めてしまった。
僕の為に仕事を頑張ってくれているのはありがたいけど、ここは心を鬼にしないといけない。
そうじゃないと、遺影の父さんからも怒られてしまうよ。
「母さん、もう支度しないと間に合わなくなるよ……って、母さん、なんて恰好で寝ているのさ」
毛布をはぎ取ると、母さんは人様には見せられないような恰好で眠っていた。
上はボタンが掛けられていないブラウスに、下はショーツのみ。
玄関の方を見れば、廊下には脱ぎ捨てられた衣服の数々が残ったままだ。
帰宅して洋服を脱ぎ捨て、そのままソファで寝た感じかな。
「……んっ、寒い……」
ぐっと引き寄せられると、とても大きな、昔と変わらない柔らかさが僕を包み込んだ。
相変わらず大きい胸だ、とはいえ母さんだから、何とも思わないけど。
ぐいっと大きなお餅みたいな胸をどけて、ぺちぺちと頬を叩く。
「時間、もう七時半だよ」
「七時半……嘘でしょ?」
「本当、あと十分で出るんじゃないの?」
点けたままのテレビにも、七時三十分と表示されている。
途端、母さんは飛び跳ねるようにして、洗面所へと走った。
顔を洗って髪を整え、凄まじい速度で下着姿のまま廊下を走り、身なりを整えキッチンへと戻る。
僅か五分でこれらを終わらせて、残りはお化粧にあてる。
電車通勤だけど車内では化粧はしない、これは母さんのポリシーだ。
「これ、母さんのお弁当だよ。それと朝食、ゼリー飲料ぐらいは飲みなね」
用意してあった二つを手に取ると、化粧の手を止めてぎゅーっと抱きしめてくる。
「素直、毎日ありがとう! でも、出来たらもう十分早く起こしてね!」
「母さんが僕の為に頑張っているの分かるからさ、起こすの可哀想になっちゃった」
「素直……もう、徹さんに似て、優しいんだから」
母さんと二人、遺影の前へと向かい、静かに手を合わせる。
霧暮徹は、僕の父さんだ。
三歳の時に事故で亡くなってしまったから、僕は父さんのことをほとんど覚えていない。
両親が恋愛結婚だったのは、見ていれば何となく想像できる。
早すぎる死に、母さんが沢山悲しんでいただろう事も。
「ゴミ捨て、しておくからね」
「ありがとう、じゃあ素直、行ってきます」
「うん、僕も行ってきます」
母さんは職場である出版社へと向かい、僕は今年から通い始めた高校へと向かう。
母子家庭だけど、母さんの頑張りのお陰で、僕は何一つ不自由をしていない。
とてもありがたいことだ、母さんにだけは、迷惑を掛けずに生きていきたいと思う。
迷惑を掛けたくないから、僕はあまり友達をつくらずに生きてきている。
五月に入り、高校の教室では、人間関係とカースト的なものが、既に出来上がっていた。
ぎこちなかった四月を終え、周囲からの賑やかな談笑をBGMに、僕は読書を楽しむ。
友達関係は、お金が掛かるから。
本はいい、図書室で無料で借りられるし、ウチの高校はライトノベルにも寛大だ。
最新刊が一週間以内には手に入る、読書家には最高の環境と言ってもいいだろう。
「霧暮、お前また小説読んでんのか」
「姫野宮君……うん、アノコイの最新刊が入荷したからね」
〝あの日の恋を、僕達は忘れない〟
よくある十代の恋愛小説で、既に単行本が八巻まで出ている。
幼馴染恋愛から始まり、ささいな喧嘩から二人は別れを選択するも、幼馴染という繋がりから友達関係を保持する二人。七巻目のラストでは、元彼女だった幼馴染が寄りを戻さないかと言っている大事なシーンが書かれていて、八巻目では二人がどうなるのかが最大の目玉となっている。
今の所、間男的な存在もなく、まぁ仲直りするんだろうなぁ、といった感じで読み進めている所だ。
「そんなん、女が読むもんだろ?」
「いやいや、男子でも読むって。最近の女子はもっと過激な感じを好む傾向にあるよ?」
「そうなのか? まぁ、なんでもいいけどよ。たまには俺達に混ざってもいいんだぜ?」
姫野宮君のグループ。
カーストトップの陽キャ集団。
姫野宮君が良い人だというのは、同じクラスになってすぐに分かった。
彼には壁が無い、どこまで行ってもフラットな人間だ。
今だって純粋に好意、僕がクラスに馴染んでいないから、誘っているだけなのだろう。
けど、僕の視線の先、彼が存在すべき陽キャ集団の目は、そうは語っていない。
やめておけ、目だけで彼等はそう語っている。
僕としても、入ったところで発言も出来ずただ頷くだけ、そんな所に入って何が面白い。
言ってやりたいよね、アノコイ四巻について語れる人間はそこにいるのかと。
僕の話題は基本アニメ漫画小説だ、他が入る余地なんてどこにもない。
「なぁ、こんな本なんか家でも読めるんだからさ。お前もこっち来いって」
「入直、やめときなって。霧暮君、どう見ても困ってるじゃない」
強引に誘い続ける姫野宮君の腕を引っ張る女の子。
久栗佐保さんは、陽キャ集団の一人だ。
教室のLEDの光だけでも、彼女の髪は茶色く染まって見える。
バドミントン部に所属していて、彼女の恵体目当てに見学に向かう男子もいる程だ。
明るくて可愛くて元気で、彼女も姫野宮君と同様に、僕に優しくしてくれる。
「そうかぁ?」
「そうなの、ごめんね霧暮君、コイツはアタシが引き取るから」
「お、ちょちょ、おい霧暮、本返すぜ!」
ひょいと投げ渡された単行本をキャッチすると、二人は陽キャ集団の中へと溶け込んでしまった。
……いま、久栗さん、姫野宮君のことを下の名前で呼んでいたような。
やっぱり、二人はお付き合いしているのかな?
姫野宮君も地毛が茶髪で、二人は兄妹みたいだって周囲は言っているけど、違うよね。
どうみても恋人にしか見えない、距離も近いし、さっきだって服を摘まんでいたし。
今だってそう、彼女の隣には姫野宮君がいる。
お似合いだよね、そこに僕が入り込む余地は無さそうだ。
アノコイみたいに、僕と久栗さんが幼馴染だったりとかしないのかな。
しないよね、突然義理の妹になったりとかも、まぁしないだろう。
楽し気な談笑を耳にしながら、僕は再度、アノコイの世界へと没入した。
放課後。
部活に入らない生徒は、何か一つでも委員になりなさい。
なんて迷惑なルールなんだと、常々僕は思う。
本当は母さんの手助けがしたくて、バイトに専念したかった。
けれども、毎週火曜日と木曜日の放課後だけは、図書室で夕方六時まで受付をしないといけない。
この高校一番の帰宅部もどきである図書委員が、僕に唯一与えられた責務だ。
「失礼します」
吹奏楽部の音色がどこからか聞こえてくる図書室は、それでも静謐さを保っている。
カウンターへと向かい、席について自分のIDカードを認証させると、ピッと電子音が鳴った。
お店のレジカウンターを起動させる感じ、これで認証させないと、本の貸出しが出来なくなる。
さてとと、当然のように本を開こうとすると、待ったの声が掛けられてしまった。
「霧暮君、アノコイの最新刊、貸出し希望者……ほら、このリストの人。もう、そこにいるの」
隣のクラスの図書委員、伊静流早蕨さんが、貸出し希望者リストを僕へと見せる。
機械化した管理システムは、いつ、どこで、誰が本を借りていったのかを明確にする。
それは他の生徒も閲覧可能であり、アノコイ八巻は二冊しか入荷していない。
その内の一冊を、僕が保持してしまっている。
タブレットに記載されている返却予定日は今日、そして次の貸出し希望者は僕の目の前にいる。
「それ、返却しないと、図書委員の職権乱用とか言われちゃうかも」
伊静流さんが掛けていた眼鏡を直しながら、僕へとアドバイスを送る。
職権乱用の何が悪い、だったら全員図書委員になるべきだ。
大体今日返却ということは、今日の夕方六時返却だって構わないはずだ。
なぜ図書室に来ていきなり返さないといけない。
僕は読むのが遅いんだ、まだ読み終わってないんだよ。
そういう訳だから、六時までそこで待っていてくれ、急いで読み終わるから。
「新刊の貸出し期限は二泊三日となっておりますので、必ず期限内に返却をお願いいたします」
事務的に作業をこなし、アノコイ八巻は僕の手を去っていった。
睨まれながらの読書なんか出来るか、くそ。
「……まだ、読み終わってなかったのにね」
持ち去られたアノコイ八巻の後ろ髪をこれでもかと引いていると、伊静流さんが妙なことを言った。
「なんで、僕が読み終わってないって分かったの?」
「え? ……だって、霧暮君、いつも読み終わると、その本を開かないで返却するから」
そうなの? そういえば、そうかも。
「言われるまで気付かなかった、よく見ているね。探偵みたいだ」
「そんな、ちゃんと見ている訳じゃ、ないんだけど……」
落とすような黒髪を耳に掛けながら、伊静流さんはそっぽを向いてしまった。
その内、自然と彼女も本を取り出すと、静かにページを捲り始める。
僕も本当なら、アノコイ八巻を読破する予定だったんだけどな。
することが無くなってしまった。
暇つぶしに、図書委員の仕事でもしようかな。
「伊静流さん、僕、返却本、片してくるね」
「あ……うん、私も手伝うね」
「いいよ、誰か来たら対応しなきゃだし。伊静流さんも本、読みたいでしょ?」
ほけーっと僕の顔を見た後、コクリと彼女は頷く。
高い所の作業もあったりするから、脚立を担いでえんやこらと。
〝偉人八犬伝、この世の事実全て丸わかり、全一巻〟
こんな本、誰が借りたんだか。
無駄に高い場所に収納されていたみたいだし。
脚立に乗って本をあった場所に戻した後、そのまま脚立に座りこんで、高い位置から校庭を眺める。
サッカー部がパス練習していて、テニス部がラリーの練習をしている。
遠くでは陸上部が走り込みをしていて、野球部の金属バットの音がどこからか聞こえてくる。
青春の音って奴なんだろうな。
僕にはとんと、縁が無い音だ。
「お? 霧暮じゃん、なにしてんだお前、そんな高い所に座り込んで」
聞きなれた声。
下を見ると、そこには姫野宮君の姿があった。
ジャージの上にゼッケンを着けたままだけど、部活中に図書室に来たの?
そんな感じで眺めていると、ふいに、脚立が揺れる。
跨ぐように座っていたから、脚立の足がズレて――――あれ、これ、倒れる。
「危ねぇ!」
倒れる直前、姫野宮君が僕を守るように、身体を張ってくれるのが視界に入った。
――どずん!
耳に響く音、揺れる身体。
高い所から倒れたのに、痛くない。
沈む感触は、彼の身体の感触だ。
やっぱり彼は良い奴なんだ、後で謝罪して、何か奢ってあげよう。
ああ、そういえば脚立を使う時は必ず二人でって、先生が言っていたような。
その辺も怒られてしまいそうだ……ともかく、早く起き上がらないと。
「ごめん、姫野宮君、大丈夫だった?」
「ん……お、おお、いっつつ。お前なぁ、いきなり倒れるとか、あぶねぇだろうが」
良かった、特に怪我とかがしてないみ……たい、だ?
って、僕? 僕が僕を見ている?
え、なんで僕が目の前にいるの?
目の前にいる僕も、僕を見て瞠目している。
「え、なんで、俺がそこにいるんだ?」
「……え、ちょっと、待って」
まさか、そんな。
「俺達、入れ替わってる……?」
嘘だろ。
次話『僕、戻りたくないかも』
本日12時に公開します。