窓みの
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
太陽はなぜ東からのぼるのか?
自分は知っていても、みんなも将来、家庭を持つようになったなら聞かれる質問のひとつかもしれない。なんのために勉強するか? とはしばしばみんなが聞くが、先生個人としてはこうしたふとした質問に応え、一目置かれるとともに相手の成長を促す意味合いもあると思っている。
表に出されなくても、評価が下がって内心で舐められるとキツイぜ? なにせこちらが正しいことしているはずなのに、受け入れてもらえず、自分も相手も不幸な目に遭うかもしれないしな。
とまあ、それは置いといて、復習だ。
ざっくばらんにいうと、地球が反時計まわりに動いているためだな。西から東へ回転をしていくから太陽を含めて、月や星なども東からのぼってきているように思える。この運動をするようになってから、もうとてつもない時間が経っているわけだな。
長い時間、その環境になじむとそれらを利用するすべや、対策を練るというのは自然な流れだろう。
こちらがアクションを起こさずとも、向こうから提供してくれるものと考えたら、最大限利益にしない手はないからな。そしてそれは、なにも人間ばかりに限った話じゃない……。
つい最近、先生が父親から聞いた奇妙な話があってね。脱線がてら耳に入れてみないかい?
父が祖母に、昔から言われていたことに「窓みの」の話がある。
窓みのとは、窓の下にときどき現れるみのむしのごとき存在の話だという。
特に金属製のサッシが用いられるようになってから、しばしばみられるようになった存在とのことだ。
窓みのは、夜中の間にサッシの下あたりに、土や木の枝を用いた「みの」らしきものをこさえて張り付くのだが、それはもっぱら東向きの窓なのだという。
彼らは、登りたての陽にあたることを極上の喜びとし、観察していると、ときに身体を震わせるのだそうだ。まさに喜びに打ち震えるということだろうか。
当時は父も、好奇心が旺盛だった時期。ぜひ、その窓みのを見てみたいと祖母へ頼み込んだそうだ。
「許可するのは私じゃなくて、見つけたら勝手に見ればいいんだけどねえ」と笑いながら、祖母はこの家の東側の窓。それも二階にあるものたちを気を付けて見るように教えてくれたそうだ。
東側かつ、高い位置。その建物で、陽を浴びるに適したところへ、窓みのは自然とあらわれる……こともある。
そのときにめぐり合えるかは、運も大きい。祖母も興味をもってからの数年間で、目にしたことは数えるほどしかなかったとか。
それでもいい、と父はその日から熱心に東側の窓のサッシを観察するようになった。
自分はどこか特別である、というバイアスは多かれ少なかれ持つもの。なまじ他のことでも成功体験があるから、父も自分なら窓みのを見つけられると信じて疑わなかったらしい。
家の東側の窓の、夜明け前こそが窓みのの居座る時間。
陽を浴びてしばし経った後の彼らは、いずこかへ消えてしまう。みのむしはガの幼虫だと聞くけれども、窓みのはどうもその仲間じゃないらしい。
父は前の日、何時に眠っても夜の明けないうちから起き出して、見張ることを欠かさず、やがて窓みのに出会うことができたのは一か月半後のことだったとか。
話に聞いていたよりも、ずっと小さいというのが初見の印象。
父の小指の半分にも満たない細さの、枝が一本だけ。サッシの真下へ張り付いていたのだとか。ぱっと見ただけでは、ごみと勘違いしてもおかしくないいで立ちだった。
しかし、サッシの下へ差し込まれる風が吹き抜けるたび、その身はおおげさにぶらぶらと振り子のように揺れて、そのうちまた元の姿勢へ戻る。これが窓みのかどうかを見分けるポイントなのだと、祖母はいう。
――考えていたより、ずっと早く出会えたな。やっぱ、俺はついてるぜ。
つい、にやにやし始めてしまう父。
祖母の言う通りであるなら、やがて陽がのぼり出して家の壁と一緒に、窓みのを照らすとき、窓みのはまた大きく揺れる。
その揺れがおさまったとき、窓みのは自らの「みの」を脱ぎ去って、成った姿を見せるのだとか。
虫のごとき姿とは限らない。それは目にした者と機会によって変化すると語られていたのだけど。
いよいよ、東の空が白みはじめて、いつ太陽がのぞくかと待ちかねるばかりとなったタイミングで。
びゅっと、ひときわ強い風が吹いて、窓みのを大きく揺らしたんだ。
父もまた、思わず顔を手でおさえてしまうほどだったけれど、ふと祖母から注意されたことを思い出す。
「もし、窓みのを見つけたうえで、陽がのぼるより前にみのが落ちてしまいそうになったとき。できることなら、あんたの手で落ちないように助けておやり。そうしないと、よくないことが起こるかもだからね。見る覚悟あるものの責任のようなものだ」
ひょっとしたら、みのが風で引きはがされてしまうかもしれない。
父がそう思い、風に対するようにみのの背後へ手のひらを添えたのと、みのがぶちりとちぎれて父の手のひらへ飛び込んだのは、ほとんどラグがなかったという。
一瞬、沸騰したやかんへうかつに手を触れたかと思った。つい、飛び上がり、叫びたくなるほどの熱と痛みを、父は受けた。
なんとか、みのを放り投げたい衝動をおさえて、先ほどまであったサッシ下へ張り付けると、すぐに手のひらをひっこめた。
いくらも触っていないのに、手のひらの真ん中には窓みのの形に赤く腫れあがった皮膚の姿があり、湯気さえ漂っているような気がしたとか。
手を冷やしに、しばし席を外してしまった父は、その間の窓みのの動向は残念ながら見られていない。
ただ、戻ってきたときには窓下にやや虹色を帯びた塗料が残されていたそうな。
そうして上りくる朝日の光が、町じゅうを照らしていく。その光の加減は、これまでに幾度も見たような、虹の光のように思えたとか。
あの光のもとになることが、窓みのの幸福なのかもしれない、と父は話していたっけ。