くらげ
くらげは今日もくらげていた。静かな水槽をいつもの不規則な拍で漂っていた。人を小馬鹿にしたようなくらげ方に、さすがに腹が立った。
くらげも眠る夜のこと、わたしは怒りに震えていた。顔も知らぬ脚本家に改変された原稿。量産型の展開、情緒は見る影もない。わたしはくらげ。相手は透明なわたしに見たい色を着せる。無色な物言わぬ原作者。いつになったら、くらげにも神経が通っていることを人は知るのだろうか。張り詰めたこの神経は、目線さえも逃さない。目線程度の刺激でも、痛みは身体中を波紋のように広がり、表皮をみっともなく這う。
目線。それは視聴者の目線。学芸会のようなドラマをもたらした原作者の陳腐な筋書きを糾弾する。
目線。それは読者の目線。原作者が色目を使って、「売れる」ために魂を「売った」と失望する。
目線。それはわたしの目線。表現者でありながら、自分の媒体のなかでしか、十分に振舞えない情けなさ。そこにはこどもを守り通すことのできなかった保護者としての自責の念があった。
それらの目線が身体でこだまする午前4時。怒りはやがて、わたしを脚本家への非難へと駆り立てた。その投稿には、事実しか書かれていなかった。脚色も瑕疵もない鉄壁の泣き言に世間は絶対的な正義を確信した。明朝、その脚本家が槍玉に上がっていた。
正当化が始まる正午。わたしは何も悪いことをしていない。間違えていたのは、脚本家だ。きっとそいつには心の機微など分からない。そいつが「世間」から石を投げつけられるのは当然だ。心ある人にしか分からないわたしの作品を、勝手に大衆向けに書き直すから……。わたしの意思に共鳴するように拡がったその波紋は、世間を一端の批評家へと成長させていた。この種の痛みをわたしはよく知っている。そうか、あのいけ好かない脚本家も一匹のくらげでしかないのか。
そのまた次の朝、投稿削除の甲斐も無く、わたしの落とした一滴は幾波の波紋となって無常にも木霊し続けていた。
わたしの子どもは、わたしの思いだけで育つわけではない。ときには、他人の手を借りながら、横道にそれながらも、たしかに育っていく。わたしは、それを分かっていなかった。子どもが自分自身だと思い込んでいた。午前6時、くらげは短い眠りから醒め、思い出したように漂っていた。いつものぎこちなさも、優しさからくるものもあったのだろう。
くらげは今日もくらげている。わたしは、いつまでも、くらげでいればよかったのだ。
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