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ベゴニア

作者: 小走煌

 母さんが庭にぼくを呼んで、ピンクに咲く花を指さして言った。「この花、なにか分かる?」ぼくは分からないと答えた。「ベゴニアっていうの」母さんは優しい笑みを浮かべてその花を見つめた。

「美しいでしょう。この花を見ているとね、まるで心が洗われる感じがするの。あなたと父さんとの素敵な暮らしを、表現してくれている気がするの」

 小さな庭の小さな花壇にぽつりと咲いているベゴニアはまるで光が灯っているみたいにまぶしく見えた。でもぼくは不思議だった。こんなにキレイな花を見て、どうして母さんはため息をついて苦しそうなんだろう。

 ある日、母さんはいなくなった。父さんと夫婦でいることを止めたみたいだった。母さんのいない家には、いつも帰りの遅い父さんとぼくだけになった。ぼくはひとりでいる間、ベゴニアの花を世話することにした。たまに水をやっては、しゃがみ込んでできるだけ近くでじっと見た。この花を見続けていれば、母さんがどうしてため息をついていたのか分かるかも知れなかった。でも、どれだけ見てもぼくにはよく分からなかった。

 やがて得体の知れない病気が広がり、簡単に外へ出られない世の中になった。父さんは仕事がなくなったのか、家で酒を飲んでばかりになった。父さんはうわごとのように「おまえの母さんはとってもできた母さんだよ」と繰り返した。母さんがいなくなって、家にずっといるようになってから、いつもだんまりだった父さんが嘘のようにおしゃべりになった。毎晩のように酔っぱらっては意味の分からないことを叫ぶように言って、そして話の最後には「おまえはずっと父さんと一緒だからな」と言って眠りについていた。

 そんな日がしばらく続いて、やがて父さんは亡くなった。父さんは最後までなにも言わなかったけど、体を悪くしていたみたいだった。ぼくは親戚に引き取られることになった。引っ越しのために部屋で必要なものを整理している時、ふと窓の外を見ると、ベゴニアがこっちを見ているかのように咲いていた。

 うわごとばっかりだった父さんが本当に言いたかったことはなんだったのか、ため息をついた母さんが思っていたことはどんなことだったのか、ぼくには分からない。あのベゴニアがなにか教えてくれるのか、どんな風に見ればいいのか、分からない。

 父さんの葬式が終わって、ぼくは母さんに会いに行くことにした。父さんが亡くなったことを知らせなければいけないと思った。母さんとはすぐに連絡が取れて、居場所を教えてくれた。母さんは遠い町にいた。

 待ち合わせ場所に現れた母さんはやせ細って、すっかり元気をなくしたようだった。父さんが亡くなったことを聞くと、俯いてしばらくなにも言わなかった。ぼくは父さんと母さんの思い出話をしようと思ったけど、上手く言葉にできなかった。そう言えば、父さんと母さんがなにか会話をしているのを見た記憶がない。

「いい父さんだったのにね。残念だわ」

 母さんはか細い声で呟く。ぼくは気になっていたことを聞いた。どうして父さんと別れたのか。大好きなベゴニアや家族を置いて、どうして出て行ってしまったのか。母さんはいつか見たあのため息をふうと吐いて、ゆっくりと言った。

「大人にはね、分かり合えないことってあるものなのよ」

 ぼくはなぜかいつも見ていたベゴニアのことを思い出した。庭に出るとすぐに目が合ったベゴニア。近くまで寄って、しゃがんで視線を合わせて観察すると、いろんな色を見せてくれたベゴニア。

 あの花は、ぼくが水を与えなければ枯れてしまう。いや、しっかり世話をしてもやがてダメになってしまうだろう。それは確かに寂しいことだ。でも、庭を少しでも明るくしようと真っピンクに咲き誇っているあの花は、とてもけなげでとても美しい。花びらから、茎から、生きるためのエネルギーを感じずにいられない。花びらから地面までベゴニアの全身をくまなく見ていると、根っこの部分は見えないことに気づく。そうだ、必死に生命活動を続ける根っこも表からは見えないけどきっと輝いているに違いない。

 その時、ぼくにはなんとなく分かった。目の前のうつろな母さん、ため息ばかりの母さんと庭の植物をぜんぜん見ていない、いつもだんまりの父さん。きっとふたりは見方が違ったんだろう。母さんはもっと、ベゴニアに希望を見るべきだったんじゃないか。父さんはもっと、ベゴニアに目を向けるべきだったんじゃないか。通じ合えなかったふたりを思って、ぼくはなんだか悲しくなった。


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