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討幕の終わりと、自由・平等・人権確立の戦いの始まり

  第22話 上野戦争










 1868年(慶応4)4月4日


江戸城無血開城が決まり、


5月3日の総攻撃は回避された。




 その前日の5月2日、


ようやく東征大総督府に追いついた退助は、


その時初めて総攻撃中止を聞く。


 「へ?」


暫く頭の中がウニになる。


 明日の作戦参加のため


死にもの狂いで駆け付けた今までの努力は


一体何だったのか?


 しかし、西郷の説得を


意外にあっさり受け入れた。




 退助の頭の中には迷いがある。


旧幕府軍などの旧勢力を


ここで徹底的に叩いておかないと、


後に禍根を残す。


 しかし、江戸市中を戦火で覆い蹂躙すると、


お菊の住む日本橋の店も被害を受ける。


 退助は常にお菊の安否が気がかりだった。




 実は無血開城の交渉が決裂した場合、


勝海舟は江戸市中に火を放つつもりでいた。


 薄皮一枚の自制による合意が


江戸壊滅を回避した。




 5月13日東征大総督 熾仁親王が江戸城入城。


正式に大総督府の管下に入り、


江戸城明け渡しが完了した。


 しかし、江戸市中は不穏な空気が充満していた。


江戸に入った新政府軍に対する敵意が


むき出しになっていたのだった。


 と云っても敵意をむき出しにしたのは


武士階級での話。




 江戸庶民は市中が争いごとに巻き込まれるのを


恐れている。


 将軍様が居なくなり、


それに仕えていた偉そうな武士がどうなろうと


どうでも良かった。








 戊辰戦争の特徴。


それは武士階級での内乱であり、


一般市民が広く参加できる性格のものではない。


 それはその後続く東北・北海道の戦いでも


同様である。


 庶民は蚊帳の外での戦争であり、


その限定された階級闘争は、


後の自由民権運動の難しさを予感させた。










 慶喜は御三卿一橋家出身。


一橋は10万石であるが、


一か所のまとまった領地を持つわけではない。


 継ぎはぎの領地を合計し、


ようやく10万石なのだ。


故にその家格に相応しい家臣団を持っていない。


 そんな中、側近の家臣渋沢誠一郎(渋沢栄一の従兄)、


天野八郎らが新政府に反発する者を集め


彰義隊を結成した。


 彰義隊は当初、勝海舟により慶喜警護を任され


不平家臣や浪人たちの懐柔に利用されていたが、


慶喜の謹慎場所を江戸から水戸へ移されると、


頭取の渋沢誠一郎は上野からの撤退を主張する。


しかし武闘派の副頭取天野八郎との対立が発生、


彰義隊を脱退した。


これにより天野の新政府への徹底抗戦派が


主権を握った。




 この当時、上野を拠点にした彰義隊をはじめ、


不平旧幕臣たちによる薩摩藩士殺害、


肥前藩士や尾張藩士などのテロ行為が散発した。




 更に輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)


を擁立する暴挙に出る。


 つまり天皇がふたり存在する事態となり、


外国列強勢力は広くこの事件を報道した。




 


 「えらいこっちゃ!!)








 この事態に及び、東征大総督府は


上野の東叡山に集結する


旧幕府軍を討伐する決定を下す。




指揮官の大村益次郎は


敗残する彰義隊の逃亡に前もって備え、


忍に芸州藩、川越に筑前藩、


古川に肥前藩を配置する周到さを見せた。




 更に上野を封鎖するため各所に兵を配置、


神田川、墨田川、主要街道の遮断。


三方に兵を配備、


根岸に敵の退路を残し逃走予定路とした。




 討伐作戦計画の説明を聞いた西郷隆盛は


作戦を指揮する長州藩の大村益次郎に


「皆殺しにするつもりですか?」


と聞く。益次郎は一言、


「はい、そうです。」


平然と答えた。






 作戦を聞いた退助。


ある決心をする。




 この戦乱にお菊を巻き込むわけにはいかない。


治安の悪い江戸市中での危険を冒し、


お菊の元に駆け付けようと考えた。




 周到な変装に身をまとい、


日本橋のお菊の元へ急ぐ。


 あくまでも私用での市中移動に


供の警護をつける訳にはいかない。


二度と自分の命を守るために


部下を失わないと決めていた。


 退助は八王子での一件を


一生忘れられないであろう。




 大隊指揮官として


どれだけ軽率無謀の誹りを受けようと、


人の生死には代えられないのだ。




 目指すお菊の店舗に辿り着くと


ひっそりと閉ざされていた。




 裏に回り戸を叩く。


何度も何度も叩いていると、


中から一人の男が出て来た。




 巧妙な変装により


すぐには訪問者が退助と分からない。


 しかし退助が


「お菊に会いたい。」と声をかけると、


状況を察した留守番の男は、


「おかみさんはここには居られません。


ひと月ほど前にお国に避難されました。」


「ほう、そうか。


ここには居らぬか。」


「はい、おかみさんは、最後までここに残ると


申しておりましたが、旦那様の説得で


引きずられるようにお立ちになりました。」




 退助はお菊の気持ちを慮おもんばかった。


戦乱が迫り、必ず自分が迎えに来ると信じるお菊。


逃げ出そうとする筈はないのだ。




 お菊の不在を知った退助は


もうここに用はない。


「邪魔をした。」


そう言い残し、急ぎ隊に戻った。




 戻った退助は、来るべき彰義隊との戦いに


臨むつもりでいた。


 しかしその前に前哨戦が始まる。




 1868年(慶応4)江戸城無血開城に従わぬ


旧幕臣の一部2000人が船橋大神宮に布陣。


 5月24日船橋にて新政府軍800人と衝突した。


数に勝る旧幕府軍を見事撃退、追撃し


5月27日の五井戦争も勝利する。




 そうした中、東北地方・新潟で


奥羽越列藩同盟が結ばれた2週間後、


7月4日新政府軍10000人が彰義隊4000人を攻撃、


上野戦争が始まった。




 新政府軍は土佐隊の活躍や、


佐賀藩の新装備、アームストリング砲の


強力で絶対的な威力により、


彰義隊を撃退、その日のうちに


新政府軍圧勝で上野戦争は幕を閉じた。








 いずれの戦いに於いても獅子奮迅の活躍を見せる退助。




 土佐の赤熊隊は戦いくさを重ねるごとに、


その勇猛果敢の戦いぶりから名声を得てきた。




 八王子での死闘を経験した退助の采配は、


それ以降別人と云える指揮を執る。




 お菊を一日も早く江戸に戻したい。


それと退助の描く自由な世を造りたい。


 迅衝隊、断金隊、護国隊等を率いながらも


わが身を守るため命を落とした部下二人を思い、


冷静沈着、緻密にして勇敢な指揮官になっていた。




 そんな退助に、思いもしなかった話が持ち上がる。 




 退助が戦の最中の江戸に戻ったわずかな間、


迅衝隊総督 深尾成質から


意外な提案を告げられた。




 本国の土佐に新婚の嫁が居るのに、


江戸住まいのある女性を権妻(妾)としてどうか?


との打診であった。




 「へ?」




この回2度目の「へ?」である。












    第23話 また見合い












 まだ戊辰戦争の最中だというのに、


迅衝隊総督 深尾成質から信じられない言葉を聞いた。


 「妻をめとらぬか?」


思いもよらない申し出に、退助は言葉に詰まる。


「しかし私には国許に妻がおります。」


「そんな事は存じておる。


 それを承知で言っておるのが分らぬか?」


分らぬか、と言われて少々ムッとする退助。


「何故今、私に別の妻なのですか?」


「お主は今や、歴戦のヒーローぞ。


土佐の期待とこの国の将来に


なくてはならぬ男になったというのに、


そのお主に未だ子が居らぬ。


 そんなことで良いと思ってか?」


「別に。良いと思っております。


何故いけないのです?」


「お主は先祖の板垣姓を名乗ったではないか。


名門の誉れ高い板垣姓を名乗ると云う事は、


後々までの覚悟と責任が必要ではないのか?


今、後継の者を残さずして何とする。


 離れて暮らすお主の妻に


子が儲けられると申すか?


 この戦で明日の身の存続も分からぬのに、


何を呑気に構えておるのじゃ?


 自覚が足らんぞ!!」


 そう言われてはぐうの音も出ない退助であった。


「しかし私は、恥ずかしながら


妻の展子ひろこを愛しております。」


「『愛してる』???このワシの前で


よくもいけしゃあしゃあと


その面つらで言ったもんじゃ!」


「この面?(手鏡を持つ仕草で)


あら、いい男!」


「何、ふざけて寝言をほざいておる。


たわけた事を言ってないで、


現実に戻ってこい!


次の戦いくさが始まる前に


さっさと見合いのお膳立てをするから


そのつもりでおれ。


 これは国許の殿(容堂公)からの要望でもある。


 話しは以上。」








「殿の要望?この嘘つき!!」


退助は思った。


 (殿がそこまでお節介を焼くか?


無粋を嫌う殿の事。


そんな気は絶対に使わぬはず。


大方、深尾殿の縁者から


娘を片付けたいので


誰か適当な者はおらぬか?


と泣き付かれたのであろう。)






 戦前いくさまえの


駆け込み婚は聞いた事があるが、


戦いくさの最中さなか、


敵陣中での見合いなど、


そんな非常識で破天荒な事、聞いた事無いぞ。


しかし弱った、これは断れない。


 上官の深尾成質からの


謂わば強制的に近い申し渡しに


途方に暮れる退助であった。




 展子に何と言おう?


きっと大きな衝撃を受けるであろう。


 出来れば傷つけたくない。


 もう、口をきいてくれぬであろうな。


夜も共にしてはくれぬだろう。


 しかしさすがに内緒という訳にもいくまい。


 何と書こう?迷いに迷う退助であったが、


急ぎ国許の妻展子に


正直に見合いを告げる書を送った。




 退助からの手紙を受け取った展子は、


案外冷静だった。


 この当時、身分の高い者たちが、


何人もの妻を持つのは


当たり前の時代。


 夫の退助だけが例外と思う方が


身勝手な独りよがりと、


反対に非難されてしまう


女にとって悲しい時代なのだ。




 しかし悲しくない筈はない。


寂しくない筈はない。


 夫は戦場に出て、


もう何か月も帰ってこないでいる。


生きて帰れるのかさえ分からない。


 軍功なんぞ立てなくともよい。


 立身出世なんぞしなくともよい。


 ただ無事であって欲しい。


 私の元に帰ってきて欲しい。


 涙を堪こらえ夫を送り出したが、


満面の笑顔で夫を迎えたい。


 浮気はするなと言って送り出したはずなのに、


まさか私以外に妻を持つ?


 今は涙に暮れても、


夫の前だけでは気丈でいよう。


 そう決心する展子であった。




 承諾の書を展子から受け取った退助。


一言「済まぬ。」と心で詫びた。




 数日後、どこから聞いたか


制度取調参与福岡孝弟が退助に皮肉を言った。


「退助殿に近々御縁談があるそうな。


おめでとうござる。


 国許の奥様もさぞお喜びの事でしょう。」




 福岡孝弟は古くからの因習、


特に多妻を許す権妻制度に反対を表明、


廃止を主張している。


 そんな孝弟だから、


日頃から自由と平等を標榜する退助に対し、


情け容赦ない追い打ちの言葉を放つ。


「退助殿の言う自由とは、平等とは、


男社会の為だけの志だったのですね。」


 反論できず、黙ってその場を去る事しかできない。


(フッ!所詮ワシもただの男。


 情けないが、今は自己矛盾でも


受け入れざるを得まい。


孝弟に言われなくとも分かっておるわい。)






 3日後、退助は見合いの席に臨んだ。


 相手は小谷善五郎が娘、鈴すずと云った。


 深尾成質の縁者であり、


今は江戸住まいという。


 退助の第一印象は、


チャキチャキの江戸っ子の正体を


取り澄ました見合いの着物という鎧に隠した


現代っ子の様だと感じた。




 ・・・しかし心惹かれる。


ハッキリ言って好みのタイプだった。






  だから男って・・・(><;








 「板垣退助である。」


 「小谷鈴と申します。」


「こんな非常時に婚礼話など


驚いたであろう?」


「はい、正直大そう驚きました。」


「ワシが何をしているかは聞いておろうな?」


「はい、勿論存じております。


 とても偉い軍人さんだと伺っております。」


「フム、そんなに偉くはないが、


はるばるこの江戸まで出張ってまいった。」


「ご活躍は江戸中の評判でございます。


 歴戦の勇士であられましょう。


 瓦版に描かれたあなた様のお姿とは


似ておらぬとは思いましたが。」


「そうか、似ておらぬか?


そもそもワシが瓦版?


どのように描かれておったというのか?」


「それは男前に。


まるで歌舞伎役者市川團十郎の様でございます。」


「歌舞伎役者か。


で?実際のワシと比べて、


どちらが男前であるか?」




「それはもちろん、市川團十郎でございます。」


「ははは、本人を前にして大胆不敵な答えであるなぁ」


「でもあなた様もご愛敬と、


どこか憎めない、人を引き付ける魅力を感じます。


 何故でございましょう?


何処となく、ほっとけない危うさと言うか、


母性本能をくすぐられるようなお方かと。」


「やっぱり和主は只者ではないな。


初対面の人物に遠慮なくそこまで言うか?」


「そうでございましょうか?


 私など、江戸のそこいらに無数に埋もれた


パンピー(一般ピープル)に過ぎませぬ。」




 退助は、江戸留学の経験がある。


だから江戸の女の事はソコソコ知っている。


 で、その結論。


 やっぱり江戸の女は恐ろしい。


 そういつもズケズケと思った事を言われていたら、


こっちの身が持たぬではないか。






「ワシには既に国許に妻が居る。


それも知っておるか?」


「はい、それも存じております。」


「和主はワシの江戸での妻と云う事になるが、


それでも良いというのか?


不満は無いのか?」


「不満などございませぬ。


何せ私は団十郎に負けない男前の


貴方様に嫁すのですから。


 後世までの誉れになります。」


「さっき団十郎の方が男前だと申したではないか。」


「団十郎とは違った男前だと申しております。」


「あれぇ?そうだったか?」


「もう、男のくせに細々と・・・。


詰まらぬ事にこだわらず、


男らしく泰全と構えてくだされ。」




 初対面なのに、


早くも尻に敷かれそうな退助であった。




 再び戦いくさに戻る二日前、


形ばかりの祝言をあげた。












   第24話 東北遠征












 菊、里、展子、鈴・・・。


退助の女性遍歴を見ると、


あるひとつの傾向がある。


 それは容姿ではなく、


退助に対する態度というか、


相対的な立場にあった。


 好みというより、


接し易さが重要なのだ。


 常に影のように付き従う


撫子のような女性は苦手だった。 


 それは上級武士出身の生い立ちと


親譲りの性質にある。




 退助の両親も、退助自身も、


身分の上下を厳格に守るような


人付き合いは好きではない。


 常に畏かしこまれ、指示待ちの者は疲れる。


自分の意見や感じたことを


正直にぶつけて欲しい。


 退助に対し物怖ものおじせず、


何でもズケズケ言ってくるような性格。


 自分より強い立場で追い込んでくる女性。


 つまり最初の女性ひと、お菊に原点があった。




 女性に追い込まれると心地よいのだ。




少々変態じみて聞こえるが、


追い込むことで自分(退助)という男に興味を示し、


言葉のゲームを楽しむような


そんな時間を共有できる女性。


 そういう人を面白いと思う。


 知らず知らず好きになる。




 でもそんな女性の好みを


当の退助は気づいていない。










 退助と鈴の簡易婚礼は滞りなく終了したが、


新居が決まっているわけではない。


 まだまだ江戸の治安は悪く、


そんな時なのに、すぐ遠征に出なければならない。


 本格的な新居探しは、凱旋後と云う事になる。




 しかし何故深尾はこんな大切な時期、


強引に婚姻を推し進めたのか?




 それは退助がしばしば単独行動や


少ない供しか引き連れず、


危ない目に遭っていたからだった。




 指揮官としてあまりに自覚が足りない。


無謀な行動や、隙のある行動をとり過ぎる。


 まだまだ戦いは続くのだから、


もっと慎重に行動させるべく、


もう一人妻を持つことで


責任感を自覚させようとしたのだった。




 深尾の狙い通り、二人目の妻を持ち、


これ以降の退助は、鬼神のごとき


獅子奮迅の活躍を見せながらも


慎重に行動する司令官の風格を身に着けていた。




 深尾の策にまんまとはまる


実は結構単純な退助であった。




 そんな退助は休む間もなく迅衝隊を率い、


宇都宮戦争第二次攻城戦の援軍として遠征した。


 それは江戸城開城以降新設された


『奥羽鎮撫総督府』という組織の新政府軍が、


第一次攻城戦で旧幕府軍に負け、


宇都宮城を奪われたからであった。




 壬生城の戦い、野洲戦争を経て


退助率いる迅衝隊は


ここでも当然のように


鮮やかな手柄を立て勝利する。




 宇都宮城奪還後、戦の舞台は日光に移った。


退助ら迅衝隊は、旧幕府軍の大鳥部隊を追う。


 その結果旧幕府軍と今市付近で交戦、


追われるように大鳥隊は徳川家の聖地である


日光廟を背に陣を張った。




 決戦準備を整えたその時、


日光山僧たちが退助のもとに嘆願書を提出した。


 日光東照宮を戦災にまみれさせないで欲しい


との申し入れである。




 退助は真摯な態度で訴えに耳を傾ける。




 そして日光という土地は


初代領主である山内一豊公を


土佐に封じた御恩を


何代も後に続いた豊信公が


未だ忘れていない事。


 そんな主君の意を汲み、


土佐藩の代表として敬意を表すべきである。


東照宮の文化遺産である建築や宝物を守りたい。


 そんな聖地を戦災で失うのは愚かな行為である。


故に日光山を戦場にするのは是非避けたい


との思いを旧幕府軍の大鳥に向け使者を送り、


日光山を下山するよう説得した。


 一方旧幕府軍は多数の負傷者を抱え


疲労も限界にある事。


 また物資不足も深刻化していたため一旦下山し


会津での決戦を決めた。




 これにより、日光は戦火を免れた。




 6月10日会津藩・仙台藩連合軍が白河城を占領。


(第一次白河城攻防戦)




 退助の新政府軍の別動隊は、


長引く白河の戦いの間、


1868年(慶応4)6月24日(新暦8月12日)


僅か一日で棚倉城落城させ、


その後も続き次々と城を落とした。




 しかし注目すべきは


驚異的な退助の迅衝隊の動きで


棚倉の戦いの前、何と5月15日(新暦7月4日)


上野戦争に参加しているのだ。


 時系列上、第22話の上野戦争が


先に紹介された形になり混乱するが、


宇都宮戦争から東北へと


戦場が移る間に上野戦争があったのだ。


(ややこしくてすみません。)






 1868年(慶応4)6月21日


宇都宮城の戦い、とんぼ返りで


7月4日に江戸にて上野戦争、


更に東北に移動、8月12日に棚倉城戦。




 まさに退助が率いる


迅衝隊や断金隊はスーパーマンであった。




 9月2日三春藩、奥羽越列藩同盟を脱退。




 その陰にはある人物の活躍があった。


 三春藩郷士河野広中である。


河野は棚倉城落城の知らせを聞くと、


退助率いる断金隊に赴き直談判をする。


 三春藩は東北の小藩。


石高5万石でしかない。


周辺の奥羽越列藩同盟への


諸藩の参加の動きに抗しきれず、


止む無く同盟に引きずり込まれたが、


元々勤王の志に重きを置く藩であった。


 河野は云う。


「奥羽越列藩同盟を脱退、新政府軍に加盟したい。」


そして三春藩の窮状と、


そもそも勤皇の藩であることを訴えた。


 河野の言を聞き退助は、


「貴殿の申し出は嬉しいが、


それは仲間への裏切りではないのか?」


しかし退助の反応に臆することなく、


正面からしっかり見据え、


「錦の御旗に背く事こそ大罪であり


造反の極み。


 我らの意思は勤王にあり。


それこそが三春武士の本懐です。」


と言い切った。






 ここで退助の側近


断金隊隊長、美正貫一郎が執り成す。




「ひとりで訴えにきたその心意気。


この者、信じるに足る人物とお見受け致す。」


 すると退助は、


「美正殿、あい分かった。


貴殿が言う通り、


ワシもこの者の胆力と誠実さを信じよう。」


かくして三春藩は戦禍を免れ、


奥羽越列藩同盟を脱退、


新政府軍への加入が認められた。


 そして河野達三春藩は


会津藩攻略のため、


最大限の協力を自ら買って出る事になる。






 磐城平攻略を果たした新政府軍と


断金隊が合流。


 退助は高らかに宣言する。


「次の敵は三春藩!者ども進め!!」


三春藩の造反を列藩同盟諸藩に悟らせないよう


三春藩攻略の進軍のポーズを取り続けた。




 三春藩領に到着すると、


重臣たちが出迎えていた。


 互いに頷きあい、


かくして三春城無血開城は成された。




 これはあくまでも三春藩が寝返ったのではなく、


雄々しく戦ったがダメだったと諸藩に思わせるため。


三春藩の名誉を守るための心遣いだった。




 その後河野は退助と行動を共にし、


その人柄に惚れ、


自由民権運動の強力なメンバーとなった。




 でもそれは別の話。








 三春藩の案内にて徹底底抗戦にあいながらも


二本松城を撃破した。






 進軍する度、味方を増やす退助。


いよいよ会津攻防戦に臨むのであった。














   第25話 会津戦争~孤独な戦い~












 会津戦争は1868年(慶応4)6月15日の


白河口の戦いに始まり、


9月15日の二本松城の戦い等を経て


若松城籠城戦にて結末を迎える。






 上野戦争に於いて彰義隊殲滅作戦を立案、


指揮を執った大村益次郎は、


仙台藩、米沢藩への攻撃、


その後完全に孤立化させた会津藩への総攻撃を


主張した。




 それに対し、退助と伊地知正治は


会津藩への直接攻撃を主張、


退助たちの案が採用され


会津若松城への進軍が開始された。




 新政府軍は10月6日主街道を避け、


脇道を通り母成峠にて会津守備隊と激突、撃破した。


 その後約40㎞の電撃移動を敢行、


10月8日会津若松城の前に姿を見せる。




 会津領各地に守備隊を分散配置していた


会津側は虚を突かれた。




 実は会津藩側も兵員不足を認識し、


対策を取っていた。


 少年兵で構成した白虎隊の他、


領内の農民などの庶民たちが次々と徴兵されている。


 しかし彼らは領主への忠誠心は無い。


徴兵しても逃亡を繰返し、


士気は低く、全く戦いに協力しなかった。




 後の世のテレビドラマなどを見ると、


勇猛な会津藩の戦いの描写が


見る者の感動を誘っている。


 しかしその実態は藩士である武士だけが戦い、


殆どの領民は藩に対し、恨みしか持っていない。


 その結果の非協力的態度だった。




 勿論会津戦争を含め、戊申戦争は武士の戦争。


武士以外の庶民に関りは無い。




 しかし近代の戦争は総力戦であり、


農民や商人にとって


「あっしには関りの無い事でござんす。」


とはいかない。


 そういった意味で戊辰戦争は


武士中心の最後の戦争と云える。




 その後勃発した西南戦争は、


薩摩藩側は武士が主体だが、


 政府軍は平民からも徴兵した混合軍であり


質的な違いがあった。




 旧体制を守ろうとした最後の武士の軍隊が負けた。


時代の転換点と云えるのが、


この会津戦争と、


その後戊辰戦争を終結させた函館戦争なのだった。




 会津戦争で会津藩が負けた原因。


それは領民全体の協力を得られなかったから。


 近代兵器云々より、まずそれが一番まずい。




 人心掌握の点で会津藩はうまく行っていなかった。


付き従うべき領民にそっぽを向かれては、


勝てる筈はないのだ。




 では何故領民たちが非協力的だったと云えるのか?


私が指摘する論調は


「聞いた事がないよ!」という人がほとんどだろう。


でも史実は残念ながらそうなのである。




 その根拠は年貢にある。




 農民たち、町人たちの立場に立ってみると分かる。




 一般的な幕府天領は五公五民であるが、


会津藩は53%(資料に残る会津藩年貢率)であり、


しかも京都守護職に任命され、


多数の藩士を派遣するに至り、


更に徴用金が課せられ、会津戦争時


町人たちは資産の殆どを徴発されている。




 年貢で53%徴収され、


農民の殆どが小作であるため、


更に小作料が上乗せされむしり取られる。


 汗水流してようやく収穫した米の


何と6割以上が自分のものでなくなる。




 誰がそんなにたくさん差し出したいか?




 そうした背景もあり、


侵略してきた新政府軍を官軍様と呼び、


会津軍藩士を『会賊ども』と呼び捨てにしている。




 更に開戦前夜、


家老西郷頼母の母や妻子など21人が自刃したが、


当の頼母は敗戦後行方不明になっている。


 敵前逃亡した頼母。




 総大将の松平容保は罪一等を減じ謹慎処分となる。


全ての責任者として切腹するべき人が、


その責任を取っていない。




 トップとナンバー2がその有様。




 白虎隊の悲劇など


壮絶で悲惨な部分のみが脚光を浴びているが、


実情を見透かした庶民の間では


逆に支配者が変わることにより


希望を見いだし、喜んでいる。




 その証拠に


会津藩の降伏を契機に、重税に苦しむ農民たちが、


1868年(明治元)11月16日~翌1月13日


ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)を起こしている。




 また養子の喜徳とともに東京に護送された容保。




 しかし庶民は何の関心も示さず、


見送りにも殆ど現れていない。




 勇猛な戦いぶりとは裏腹に、


言葉にならない程、


無様な戦後を見て退助は思った。




 実は無様だったのは会津だけではない。


鳥羽伏見も、甲州勝沼の戦い、二本松、上野戦争など、


どの戦いも共通して幕府軍は無様であった。




 支配する領民の協力を得られず、


冷徹な視線を浴びながら


士分のみの孤独な戦いを強いられた。






 江戸時代の長所として


文化の熟成や教育水準、


進んだ治水・集約農業などをあげる向きもあるが、


度々起きる飢饉。


 過酷な年貢と小作制度。


人口の大半を占める小作農民にとって


江戸時代は地獄の時代だった。




 江戸時代の人口統計を見ると、


終始総人口は伸びていない。


 人口2700万人に達した途端、飢饉に合い


2500万人台に減る。


 飢饉が終わり徐々に人口が増えるとまた飢饉、


2500万人台に戻る。




餓死と間引きによる人口減少。




*間引き:貧しさ故、跡継ぎ以降生まれた子を殺し、


     又は強制的に流産させるなど、


     口減らしをする悪習。






 徳川家康公の発した言葉。




『百姓は生かすべからず、殺すべからず』


それが江戸幕府の方針だった。




 過酷な年貢や厳しい身分制度。


武士に許された特権『切捨て御免』のような理不尽。


やむに已まれぬ一揆でも死罪。


 260年も虐げてきた支配層に対し、


一体誰が自らの命を投げ出すというのか?






 『武士になりたい』との一念で結成した


新選組のような例外は、その後当然現れない。








 しかし列強の覇権争いが激化し、


侵略の意図から日本に進出してきた世情の中


神戸事件や堺事件が頻発する。




 不平等条約を強要され、国際緊張に晒された日本。




 外国勢力の圧力に屈しない強い国家をつくるには、


旧態然とした幕藩体制、


非合理的で非生産性に満ちた社会制度を


根本から変えていかなければならない。




 いち早く中央集権国家を打ち立てた


イギリスやフランスに習い


近代国家に変貌させなければならない。


 イタリアやドイツのように


いつまでも封建制度から脱却できない国は、


近代化が遅れ、活路を植民地獲得に求め


再分割の悲惨な戦争の渦中に


自ら飛び込む事となる。




 ましてやアジアの遅れた技術と


意識しか持たない国は尚更。




 日本はセポイの乱やアヘン戦争で負けた


インドや清国のように


植民地化されてはいけない。






 多くの民が笑顔で暮らし、


外国の圧力など簡単に跳ね返すことができる国家。




 退助は考える。




 不条理な身分制度を廃し、


誰にもチャンスの門戸が開かれた平等な社会。




 不平等条約を撤回させる強力な国家を造るため、


殖産興業、国民皆兵、富国強兵の実現。




 自由な言論、及び経済的生活の保障による


貧困からの脱却と幸福の希求。




 五箇条の御誓文の目指す精神を


推進する事こそ、自分のすべき責務であると


改めて思い、決意するのだった。








 戦争や国民皆兵を礼賛しているのではない。


当時の国際社会は弱肉強食のそうした時代だったのだ。


 生き残るためには強くなければならない。


そうした時代だったことに注意を払うべきである。






 その点で云うと退助はただの戦いくさ馬鹿ではない。


戦いくさそのものより、


その後の手当を大切にしてきた。




 その結果、退助を慕っての


断金隊、護国隊などの結集。


日光の戦いを避け東照宮の文化遺産を保護して以降、


民衆の人心を掌握。


 三春藩の名誉を守る無血開城により、


その感謝の気持ちと


退助の人柄に心酔した者たちを中心にした


(後に表す)自由民権運動の活発化。




 そして会津藩では


敗戦後の傷ついた藩士の心情を慮り


名誉回復に努めた退助。


 またヤーヤー一揆に対し、


積極的鎮圧行動には出ず、


会津藩の旧役人を交渉の矢面に立たせ、


多くの要求を実現させた。




 その戦後処理の温情と対策に感謝し、


多くの会津人が土佐を訪れている。




 それとは対照的に、


(信じられない事に、)


戦争後150年以上経過しても、


未だに怨讐に取り憑かれている


会津人と長州、薩摩人。




 退助の戦後処理が


如何に卓越した行為であったかを


如実に物語っている。






 1868年11月17日


御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督


板垣退助は新政府より凱旋の令を拝し、


12月12日東山道総督府先鋒参謀


伊地知正治と共に東京に凱旋。


 一連の功績、


特に会津攻防戦での采配は


「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられ、


恩賞として賞典碌一千石を賜る。


 1869年(明治元)1月 土佐藩陸軍総督に任命され、


家老格に出世、家禄600石に加増された。




 ただし、退助本人は出世や


俸禄の加増には興味を示さず、


江戸の妻、鈴、土佐の妻 展子に思いを馳せ、


凱旋再会後、妻たちに何と言葉を掛けようか?


 そればかり考えていた。




 凱旋の移動中は


退助にとって(妻たちとの対峙前の)


嵐の前の休息となる。




 特に展子の出迎えの反応が


怖いと思う退助であった。












     第26回 凱旋












 退助の戊辰戦争は、


その後に起きる箱館戦争を残し終わった。








 1868年11月17日


総督 板垣退助、朝廷より凱旋の令を拝す。


これに伴い凱旋の全軍に諭戒した。






「不肖、退助、推おされて一軍の將となり、


當初、剣を仗たづさへて諸君と共に故郷を出づるの時、


生きて再び還る念慮は毫すこしも無かりし。


 屍しかばねを馬革に裹(つゝ)み、


骨を原野に曝さらすは固もとより覺悟の上の事なり。


 想はせり今日征討の功を了をへ、


凱旋の機會に接せんとは。


 これ何等の幸せぞや。


ひとつ悲みに堪へざるは、


吾等、戰友同志は露に臥ふし、


雨に餐まかするの餘あまり、


竟つひに一死大節に殉じ、


永く英魂を此土(こゝ)に留むるに至る。


 眸まのあたり賊徒平定の快を見て


之を禁闕きんけつに復奏する事


能あたはざるの一事なり。


 而して我等、


此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、


低徊あてなき躊躇さまよひの情(こゝろ)に


堪へざるものあり。


 それを何事ぞや諸君らの中に


刻を競ふて


南に歸さんと冀こひねがふは。


 そもそも此の殉國諸士の


墓標おくつきに対し心に


恥づ處なき乎や。


 今時、凱旋奏功の時に臨み、


敢て惰心を起して


王師にしきのみはたを汚す者あらば、


忽たちまちにして軍法を以て處す。


然れば全軍謹んで之を戒めよ。」






  板垣退助






 退助が凱旋にあたり残した諭戒は、


戦死し、現地に残す英霊たちへの労りと気遣い、


そして生き残った兵士たちの自分本位の


望郷の逸はやる気持ちを諫め、


勝軍の狼藉を厳しく咎めるものだった。




 薩長土連合の官軍兵士の中には、


会津藩が俄にわか仕立てに結成した


会津女性隊を捕獲後に性的暴行したり、


市中への放火、略奪を犯す者など


鬼畜にも劣る不心得者が多発した。




 現在に至る会津人の怨讐も


その時の官軍の行状に起因したものもあった。


(ただし、放火、略奪は会津側もやっているが。)




 「年貢を半分にしてやる。」と


噓を言い、農民を徴兵するなど、


略奪、謀略の限りを尽くした戦いくさ。






 あまりに人を愚弄した支配者たち。


とうとう農民は怒りを爆発させる。


 官軍の勝利が見えた時、反抗の時は来た。


 それが「ヤーヤー一揆」である。


 一揆が始まったのが11月16日。




 その翌日、退助たちは朝廷から凱旋の令を拝する。




 引き上げが決まった退助は、


わが身の凱旋ではなく、


何とか被害を受けた農民の


窮状を救う手立てはないかと考えた。




 会津戦争は、退助率いる


迅衝隊・断金隊等の超人的活躍で


予想より大幅な短期終結をみた。


 当然準備した兵糧も大量に余った。


 これを持ち帰るのは難儀であり


無駄な負担となる。




 そこで迅衝隊左半大隊司令


片岡健吉を呼び出す。




 片岡司令に対し


「ワシらの戦は終わった。


 この地を引き払う前に、


多大な迷惑をかけた会津領民に対し、


残った兵糧を分け与えようと思う。


 これは相談ではない。


ワシの独断による命令である。


 故ゆえに、兵糧浪費の責任と


それに伴う罪は、総てワシが負う。


 ただし、与えた領民たちには


領外への他言は無用、


内密にするよう、含み置くように。」


「何故なにゆえ内密に?


人心掌握の良き宣伝となりましょうに。」


「人気取りの評判なんぞ要らん。


 今まで歩んできた他の戦で、


施ほどこしは行っておらん。


 ワシたちの責務は、今できる最善を尽くすのみ。


だが今回だけの例外的援助措置は、


他の国の被災した者たちにとって


全くの不公平であろう?


これを聞いた二本松や宇都宮の民は何と思うか?」


「は!分かり申した。


廻りに触れ回る事の無きよう、


よく申し伝えます。」


 合点がいった片岡司令は、


退助の配慮に感心し、復命した。




 こうして凱旋に必要な最低限の兵糧を残し、


会津領内の戦被害に遭った地区の民に対し、


立場の上下に関わらず、


家族の人数分が公平に行き渡るよう、


直ちに庄屋(村長)を通じて配り終えた。




 退助の独断で行ったその行為は、


会津平定の功と


その後の戦いくさ始末の手際よさが評価され、


新政府により不問に付された。




 ただ官軍日誌にも、政府の公式記録にも


一切残されていない。


当事者たちの記憶の中にだけ、


埋もれた事実であった。






 全ての被災民に


余剰兵糧が平等に行き渡った頃合いを見計らい、


退助は検分のため、


いくつかの民家を非公式に視察する。




 そこで退助が見たもの。




 ある農家の前を通過したとき、


丁度その家では夕餉の支度と


配膳を終えたところだった。


粗末な家の開け放たれた縁側の奥で、


 7~8歳くらいであろうか?


幼き娘子が目を丸くして言う。


「わぁ~!!


ぜぇ~んぶお米の飯だ!!


これ、本当に喰ってええんか?」


「ああ、有難き官軍様からの授かりもの。


心して喰え。おかわりもできるぞ。」


「えぇ?本当ヶ!!


夢の様じゃ!夢の様じゃ!!夢の様じゃ!!!


正月でもそんなに喰えたこと無いのに。」




「うめぇ~!!」




 稼業としてコメ作りをしているのに、


小作人の子供たちはお腹いっぱい


コメのご飯など食べた事は無い。




 いつも粟あわか稗ひえのみ。


そんな粗末な食事でさえ、


お腹いっぱい食べるなど夢のまた夢なのだ。




 一度だけでも、粟と稗だけの飯を


食べてみると良い。


不味くて食べられたものではないから。




 退助は思った。


「日本全国に蔓延する貧困の闇と不平等。


何としてもワシが変えねば。」










 12月12日、一揆の行方を見届ける前に


御親征東山道総督府先鋒参謀兼迅衝隊総督 板垣退助が、


東山道総督府先鋒参謀 伊地知正治と共に東京に凱旋した。






 1868年9月3日江戸から東京に改称。


その直後の凱旋だった。


 到着後退助は、新妻 鈴の元に会いに行く。


鈴は相変わらず、チャキチャキの江戸っ子だった。


 退助を前に空色の笑顔で迎え、


ポンポンと思った事を言う。




 開口一番






「あれぇ?退助様少しお痩せになりましたぁ?


 でもその方が水も滴る良い男と云うもの。


 鈴は自慢の夫を持てて幸せ者でございます。


 でもその服装は・・・、取って付けた借り物みたい。


 ちょっとダサいかも?」


「何?新調した最新式の洋装で決めて来たのに、


何と失礼な女子おなごぞ!


成敗してくれようか?」


 退助の目は笑い、おどけた口調で言った。


 そして


「ご無事のお帰り、おめでとうございます、


の言葉とかは無いのか?」


「ご無事のお帰り、おめでとうございます。」


と、オウム返しにウインクしながら、


お茶目な鈴が言う。


「これだから江戸の女子は・・・。はぁ(*´Д`)」


それを聞いた鈴は


「これだから土佐の男は・・・。はぁ(*´Д`)」


と返す。更に


「今は江戸とは申しません。


「東京」と呼び名は変わっておりまする。」


何とも憎々し気に口を尖らし、追い打ちをかける。


 ムスッ!とする退助。




 数日後、千住に手ごろな空き家を見つけ


新婚家庭の居を定めた。






 さて・・・、


今度は難解の土佐の本妻


「展子ひろこ」の元に行かねばならぬ。




 何の落ち度もない展子に対し、何と云おう。


このとき程、幾千の戦いくさの敵より


妻を怖く感じた事は無い。












  第27話 退助の凱旋〜土佐編〜






   






 12月12日東京凱旋後、


新政府議政官の上局、議定に就任し、


議事体裁取調方総裁となった


旧藩主山内豊信公に謁見、


凱旋の挨拶を済ませると、僅か6日の


12月18日板垣退助と大軍監 谷干城ら


442名が土佐藩船夕顔丸に乗り土佐に凱旋した。




 その間、東京の妻 鈴との新居を決めたが、


多忙な短期滞在のため、


戦の疲れを癒す時間的余裕は無かった。




 それにしても退助の帰りの荷は多い。


凱旋の帰郷にしては人目に付くほど。


 まるで一時期の中国人観光客で話題になった


日本製土産を持ち帰る『爆買い』


の風景の様である。




 凱旋の船の中、谷干城が言う。


「さすが御大将!


凱旋土産も錦の御旗のような華々しさ!


恐れ入ってござるな。


ハハハ!」




 もちろん江戸住まいの経験がある


退助がお上りさんの筈はない。


 この大量の土産は、


土佐の本妻 展子への気遣いと


ご機嫌取りの作戦であった。




 だから谷の皮肉に憮然とする退助であったが、


取り合っている余裕はない。




 これから今まで戦ってきた戊辰戦争以上、


最大の戦の天王山


『本妻展子からのご赦免をいただく戦いくさ』


が待っているのだ。






 土佐の邸宅に辿り着くと、


本妻 展子ひろこが笑顔で待ち受けていた。




 展子が笑っている・・・。


東京にて新たな妻を得た退助は後ろめたい。




 展子の薄笑いが何より怖い。




「おかえりなさいませ。ご無事の御帰還、


一日千秋の思いでお待ち申しておりました。」


「ふむ、今帰った。」


 退助の目は落ち着きなく宙を泳ぐ。


「奥へ。」


 玄関先から座敷奥へ誘う展子であった。


 あくまで感情を表に出さない。


 その無表情さが嵐の前の静けさに思える。




 旅の疲れを癒し、くつろぐ心境にはなれない。


なにしろ、そこいらに地雷が埋め込まれているのだ。




 「それにしても大層なお荷物です事。」


「ソチへの土産である。喜んでくれると良いが。」


「まあ、それは嬉しや。


何だか東京の匂いがするようですわ。」


 言葉と裏腹に、全然嬉しそうには見えない。


「東京で今流行りの洋服ぞ。


似合うと良いが。」


「あら、私のような田舎者に


似合う洋服などあるかしら?」




 早速、第一の地雷を踏んだ退助であった。




「ところで、ソチも母も息災であったか?」


と、話題を変えるが、


「生憎あいにくこちらは至って平穏。


 江戸から東京に激変するような


地殻変動は起きませぬ。


 私も母上も、


退助様がお出になった時のままでございます。


 退助様のお変わり様とは


比べるべくもありません。」


 とそっけない皮肉が飛ぶ。




 夜、床に就いてもなかなか寝付けない。


薄暗さに紛れて展子に口を窄めて近づくが、


 あと10センチの所で展子が目を開ける。




 「何でございましょう?」




 展子の言葉に遠い昔、


似たようなシュチエーションがあったような・・・。


 記憶を手繰ろうとする退助であった。




「和主が寂しかろうと思っての。」




「私、これからは、ひとりでも


強く生きてゆこうと決心いたしましたの。


 あなた様は東京で、


お子をたくさんお設けくだされ。」


「子は欲しくないと申すか?」


「お鈴様との間にお子ができるのなら、


私との子など必要ないでしょう?


子作りなど100万年早ようございます。」


「100万年!?そんなに待っていたら


干からびてアンモナイトの化石の如き


置物になってしまうではないか。」


「どうぞアンモナイトでも


首長竜でもお成りあそばせ。」








 翌日、第二の嵐が待ち受けていた。




 土産物の中に、鈴から展子への


挨拶状と写真が忍ばされていたのだ。




「結構なご挨拶状です事。」


「え?そんなものは知らぬぞ!」


「大方、お鈴様が忍ばせておいたのでしょう。


大そう、おきれいなお方。」




 このタイミングで後藤象二郎が


訪ねて来た。




 「退助殿、居るか?」


「よう、象二郎、こっちだ!」


「お互い多忙で、東京ではなかなか会えませぬな。」


「一足先に象二郎が帰っていると聞いていたので


今日あたり顔を出すかと思って居ったぞ。」


「奥様もご機嫌よろしゅう。」




 憮然としている展子。


只ならぬその様子に、




「何かございましたか?」と象二郎。


「何もかにも、鈴が余計な事をしよっての。」


「余計な事?何をしたのですか?」


「展子に宛てた挨拶状を


土産の中に紛れ込ませておった。」


「ああ、展子様にご挨拶ですか。


それは私が退ちゃんからお鈴様を紹介された折に、


土佐の本妻であられる展子様にも


ご挨拶されては?


とのアドバイスをしたからかもしれません。」


「何?象二郎の仕業か!


ソチはワシの家庭を壊すつもりか!」








「ご丁寧に写真まで同封しておったぞ」


「それは写真インスタ映えしているでしょう?


どれ、私にも見せてくだされ。」




 象二郎との会話中、黙っていた展子が口を開く。


「私も写真を撮りたくなりました。」


「何?ソチも?」


「はい、『私も』でございます。


お鈴様に返礼をしなければなりませぬ故。」




 また地雷を踏む退助。




 春間近の土佐の本宅。


温暖の地なのに、そこだけ寒々としていた。








 板垣家は凍てついているが


明治維新を推し進める高揚の波は熱い。




1869年(明治2)1月14日、


土佐の退助、薩摩の大久保利通、長州の廣澤真臣が、


京都で版籍奉還についての会合を行った。




 退助が目指す維新が始動する。














    第28話 版籍奉還 












 1869年(明治2)1月14日


退助は京都円山端寮(現:円山公園)で


薩摩藩吉井友実の草稿の版籍奉還案を検討すべく


会合に出席した。


 会合には退助の他、薩摩藩大久保利通、


長州藩廣澤真臣というメンバーであった。




 版籍奉還とは、幕藩体制下の根本制度、


諸藩の所領安堵と領民支配を


朝廷即ち、明治新政府に返納させる政策である。




 江戸幕府消滅と共に、


幕藩体制の安堵の約束の根拠が


失われた状態にあった。




 そのため、新たな秩序の構築が必要となり、


退助たちが集まり、


仕組みづくりをしようと云うのである。




 しかし、版籍奉還と一口で言うが


一旦手にした利権・特権を、


諸藩が簡単に手放すとは考えにくい。






 明治維新の基本政策のひとつである


版籍奉還と廃藩置県はセットであり、


その断行は絶対条件であった。




 諸大名を従わせるにはどうしたら良いか?




 最悪武力の行使も念頭に置かねばならない。




 そういう事情から、戦いくさの功労者で


軍事専門家、退助の意見が重要になる。


 明治新政府にとって、


退助はそれだけ重要な立場にあった。


単なる戊辰戦争のヒーローと云うだけではないのだ。






 大久保利通と廣澤真臣は


退助の顔を見るなり開口一番、


「おめでとう」と云う。


「へ?何が?」


「新たに妻を迎えたのであろう?」


「どうしてそれを?」


「後藤殿があちらこちらに触れ回っておるぞ。


知らんのか?」


(またか?象二郎の奴め!!!)


「象二郎は何を考えている!


何でいつもワシの噂を触れ回っておるん?


信じられんヤッチャ。」


退助は半分照れ隠しでそう言った。


「余程退助どんがお好きなのであろう。


とても嬉しそうに喋っておったぞ。」


「嬉しそうに?


『楽しそうに』の間違いでござろう?


 あいつときたら、


ワシを茶化すのが


生きがいだと考えている節がある。」


「何故でごわすか?」


「あいつは小さい頃、


いつもワシとの喧嘩で負けていたのでの。


その腹いせじゃろう。」


「そうであろうか?


後藤どんは、広か人物たい。


腹いせだの復讐だの、


そんなせせこましい事にこだわる吾人じゃなかろう?


 いつも退助どんを思い、


話題に出す。


 それが後藤象二郎という人物たい。


おいどんはそんな友を持つ板垣殿が羨ましかぁ。」




退助は心の中では納得し、


友をそういう評してもらえるのを


素直にうれしいと思った。




「・・・ところで、


退助どんの新妻はどんなお人か?


後藤どんは大そう美人だが、


典型的な江戸っ子だと申しておったが。


何と云って口説いた?


退助どんは美形故、


女子おなごにモテて


困っておると申しておったぞ。


二人目の妻を持った感想はどうじゃ?」




 羨ましくて、羨ましくて仕方ない


という表情を丸出しにし、


身を乗り出して聴こうとするふたりに、


「やっぱり面白おかしく


ワシを茶化しておるではないか!!


もう、誰も信じられん。


大体、今日は


天下国家の話をしに来たのとちゃうのか?


版籍奉還の話はどうした?」




 そこに配膳女中が入ってきた。


「きゃ~!板垣様よ!!


退助様、私たち熱烈なファンですのよ!」


「はぁ~?ファン??


嘘を申せ!ワシがそんなにモテる筈が無かろう?」


と、退助が顔を真っ赤にして狼狽うろたええた。


「江戸の瓦版では


市川團十郎に似ていらっしゃると


もっぱらの噂だったと聞きました。


噂通り良い男でございますわ。」




「ん?象二郎の奴、(大久保どんに)


そこまで触れ回っておったのか?


でも、そこもとの女中たちよ、


さてはそなたたち、大久保殿に頼まれたな?


 何ともはや、驚くほど用意周到な事よ!


 大久保殿もお人が悪い。


 今宵はそこまでして


ワシを徹底的に弄るおつもりか?


よぉ~し、それではワシにも考えがある。


 ワシも大久保殿の恥ずかしい話は


(象二郎から)沢山耳にしておる。


 今日は暴露合戦じゃな?」


「分かった、分かった、もうよい。


そろそろ真剣な話に移ろう。」




 横で廣澤真臣が無言でニヤニヤしていた。




 日本の将来を決定する大切な会合は


こうした雰囲気の中で進められた。


(・・・か、どうかは歴史の闇の中にある)




 1869年(明治2)7月25日


版籍奉還の勅許が下された。




 新政府の参与となった退助と象二郎。


 会合以降、東京で最初に再会した日、


いきなり象二郎にヘッドロックをかまし、


グーの中指の関節を折り曲げ


先端でグリグリしたのは言うまでもない。






 「分かった、分かった!


退ちゃん降参、降参!


お詫びに耳寄りな情報を教えるから


許してくれ!」


「情報?何じゃそれは?」


「お菊殿がな・・・。」


「お菊が如何いかがした?!」


「お菊殿が江戸に帰って来た。」


「何?帰ってきた?


 何故お主がそのことを?」


「私を誰だと思ぉちょるか?


天下の後藤象二郎ぞ!」


「天下の・・・のう…。


で、何故お主がお菊の動静に注目する?


 お菊は単なるワシの昔の姉替わりぞ?」


「退ちゃんは秘密にしていたつもりかもしれんが、


いつも無意識にお菊殿の事を口走っていたぞ。


 誰だって退ちゃんにとって


お菊殿が大切な存在だと


気づくに決まっておる。


 只ならぬお人だと云う事を。」


「只ならぬは余計であろう。


 あの女子おなごは人妻ぞ。


 妙な噂は立てんでくれ。


 でも、そうであったか。


 それは知らなんだ。


ワシだけが気づいていないなんて、


ピエロだな、ワシは。」


「そう、ピエロじゃ。


だから退ちゃんは


万人から愛されておるのじゃき。」


「褒められたのか?ワシは。」


「そうに決まっておろう!」






 その日の夜、早速お菊の店に


足早で急ぐ退助の姿があった。
















   第29話 四民平等










 退助はお菊の店があった日本橋に急ぐ。


店の名は土佐を連想させる「料亭むろと」


と改名されていたが、


その佇まいは以前のままだった。 




 暖簾をくぐると、以前に増して活気を感じる。


「いらっしゃいませ~!」


奥から女中の甲高い声が退助を迎える。


 「女将おかみは居るか?


退助が来たと伝えよ。」


「退助様?


ああ、板垣様でございますね。


女将から聞き及んでございます。


 どうぞこちらへ。」


政府高官となった退助は、


護衛の供を5人引き連れ


奥の座敷へ案内された。




 間もなく女将の菊が入室すると


供は隣の別室にて待機。




 「お久しゅうございます。


上野戦争のおり、留守居の平助に


退助坊ちゃまと思われる方がお越しになったと


報告を受けております。


 お元気そうで安心いたしました。


また無事の御帰還・御戦勝、


おめでとうございます。


とても嬉しく思います。」


「ふむ。ソチも元気そうで何よりじゃ。


 この店も繁盛しておるようじゃの。」


「東京に改称され、


お上の御尽力により、治安も回復しましたので、


この通り帰り、


再び商いを始めることができました。


有難い事でございます。」


「そうか、それはめでたい。


しかし、これからワシは何かと


断行しなければならない改革が目白押し故、


そう度々来られないかもしれぬ。


 だが都合の許す限り通うつもりでおる。


 そう心得てくれ。」


「ありがとうございます。


退助坊ちゃまは大そうご出世されましたので、


私などには到底手の届かぬお方。


 そう申して頂けるだけで、


私は嬉しゅう思います。」


「出世したとはいえ、まだまだ道半ば。


そもそもワシにとって出世は目的に非ず。


ワシの志こころざしは知っておろう。


 志即ち、ソチとの約束じゃ。


ソチは手の届かぬと云うたが、


初めから身分の差は有ったではないか。


 ワシは必ず


ソチと添い遂げて見せると申したはず。


 身分の差を無くし、添いたいもの同士、


自由に添える世の中にしてみせると。


 その一心でワシは戦ってきた。


 そして今、ようやく


この国の改革の第一線に立てた。


 これからのワシを信じよ。


 必ず誓いを達成させて見せるから。」


「退助様のそのお言葉と、実直な行いは


この菊にも痛い程分かります。


 心より感謝いたします。


 でも、私には夫が居ります。


 退助坊ちゃまにはお二人も奥様が居られます。


 お気持ちは嬉しいのですが、


それは無理と申すもの。


 そのお気持ちだけ受け取らせていただきます。」


「やはり象二郎から二人目の妻の事を


聞き及んでおるか。


 あ奴は本当に油断も隙も、抜け目も無い奴じゃ。」


「大切なご親友を


そう悪しざまに申してはいけませぬ。


 後藤様は退助坊ちゃまを


まるで我が事のようにお話になります。


 それはご存知ではありませぬか。」


「分かっておる。


ワシと象二郎の仲じゃ、捨て置け。


 それから今更ながらじゃが、


坊ちゃまは止めろ。


 ワシは幼い頃より、


ソチの事を真剣に想うておった。


 ワシにとって菊は最初の女子おなごぞ。


 坊ちゃまとしてではなく、


一人前の男として見て欲しい。


 その気持ちは今も変わらぬ。」


「そうは申されても、奥様達は如何なさいます?


そちらは捨て置くわけにはいきませぬ。」


「それよ!ワシの頭痛の種は、


妻を二人も持ってしまった事。


 如何したらよい?」


「知りませぬ。


ご自分でお考えあそばせ。


 何という身勝手なお言葉!


奥様達に知れたら、大変でございましょう?


少しは身をお慎みなさいませ。」




 退助は暫く考えた。


 そして


「最初にソチと添うて居ったら


そんな考えには及ばぬ。


 それが不可能だったから


今のワシが居るのじゃ。


 今でもワシはソチの幸せを心から願うておる。


勿論ソチの不幸など考えたくはない。


 しかし、もしソチの旦那にもしもの事があったら、


ワシはソチを全力で守る。


 そのためにも平等な世の中は必要なんじゃ。」






 菊の目がウルっときた。


「退助坊ちゃま、菊は幸せ者でございます。


 でも私は退助坊ちゃまの3番目の妻にも


4番目の妻にも成りとうはございません。




 私は今の夫の一番の妻でございます。




確か最初の奥様がお里様、


2番目の奥様が展子ひろこ様、


そして3番目の奥様が


お鈴様でございましたね。


 全くお盛んな事。


退助坊ちゃまの馬鹿。」




 そう云うと


退助の耳元に近づき小声でささやくように、


「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿バカバカバカバカパカパカパカパカ・・・」


と可愛らしく云った。


 退助はゲンコツでこつんと叩く仕草をし、


「パカで悪かったな。


それからワシの事、坊ちゃまと呼ぶな。」






 お菊のそばにいると、


いつも昔に帰り、心が安らぐ。






 しかし、そんな退助は、


民衆の貧困や不条理の痛みは分かるのに、


自分の妻たちの悲しみや痛みには鈍い。


 パカな男である。




 それらの報いから


退助は生涯、妻たちの地雷に怯える夫であった。








      武人退助








 1869年(明治2)6月


旧幕府のフランス人将校であったアントン、


旧伝習隊 沼間守一らを土佐に招く。


 それは御親兵(後の近衛師団)創設への布石である。




 1870年(明治3)12月16日


高知藩大参事となる。


国民皆兵制度断行のため、1月7日上京。


「人民平均の理」布告を太政官に具申、


2月13日土佐に帰り、山内豊範の名を以って布告。


四民平等にて国防の任に帰する宣言を発した。












     人民平均の理




 夫れ人間は天地間活動物の最も貴重なるものにして、


特に霊妙の天性を具備し、智識技能を兼有し、


所謂萬物の霊と稱するは、


固もとより士農工商の隔へだてもなく、


貴賤上下の階級に由るにあらざる也。


 然しかるに文武の業は自ら士の常職となりて、


平生は廟堂に坐して政權を持し、


一旦緩急あれば兵を執り亂を撥する等、


獨ひとり士族の責せめのみに委まかし、


国家の興亡安危に至りては


平民曾かつて與あづかり知らず、


坐視傍觀の勢となり行きしは、


全く中古封建制度の弊にして、


貴重靈物の責せめを私わたくしし、


賤民をして愈賤劣ならしむる所以也。




  (中略)




封建の舊を變し、


郡縣の政體を正さんとする際に當りて、


當藩(土佐藩)今や大改革の令を發するは、


固もとより朝旨を遵奉し、


王政(朝廷=新政府)の一端を掲起せんと欲すれば也。


 唯今日こんにち宇内の形勢を審つまびらかにし、


朝廷大變革、開明日新の事情に通し、


人間貴重の責をして士族に私わたくしし、


平民をして賤陋せんろうに歸せしむるの大弊を一洗し、


人民自己の貴重なるを自知し、


各互に協心戮力、


富強の道を助けしむるの大改革にして、


畢竟つまるところ民の富強は卽ち政府の富強、


民の貧弱は即ち政府の貧弱、


所謂いはゆる民ありて然しかる後ち政府立ち、


政府立ちて然しかる後ち民其生を遂ぐるを要するのみ。




  明治三年庚午十一月—








    (訳)




 戊辰戦争の反省にて


領民(庶民)の協力を得られず


武士のみの戦いにあっては、


列強の脅威を撥ね退けられず。


 封建制度の弊害は国家と庶民の貧困を生み、


侵略の脅威から脱せられない。


 四民(全国民)が等しく力を合わせ、


国を富ませ、民を富ませ、


外国の干渉と不平等条約を跳ね返す


強い国家を造るため、


ここに「人民平均の理」を布告する。








 退助の意を色濃く反映させた宣言であった。






 これを皮切りに、


退助の怒涛の改革が始まった。














    第30話 我が子














 1869年版籍奉還の勅許が下されると


廃藩置県の準備段階として


国民皆兵制度確立のため、人民平均の理を布告した。


 その後退助は新政府の参与として


重要案件に次々と関わる。


 1871年(明治4)8月29日、廃藩置県断行。


 その始末が済まないうちに政府要人を中心とした


洋行使節団派遣の計画が持ち上がった。


即ち『岩倉使節団』である。


 彼らの目的は西洋諸国の諸制度の研究、


及び不平等条約の改正にあった。




 使節団の政府要人の主なメンバーは


正使岩倉具視、副使に大久保利通、


木戸孝允、伊藤博文などであり、


その他、各分野の専門家育成に適した人物、


女子高等教育を見据えた人物などが選定されている。




 当時のアメリカ、ヨーロッパの情勢を見ると、


1865年アメリカ南北戦争終結、


1867年プロシアを中心にした北ドイツ連邦成立。


(封建的に分断された地方分立から国家統一へ)


1870年普仏戦争、フランス第三共和政宣言、


南ドイツ諸邦プロシアへ合邦、翌年ドイツ帝国成立。


ドイツと同じ封建分断国家のイタリア統一など、


激動と混乱の時期であった。




 日本が他のアジア諸国が次々と侵略されても


無事だったのは、巨大国家である


隣国『清国』があまりに広く、


侵略にてこずり時間がかかったのと、欧米諸国が


そうした力の微妙な均衡の上に辛うじて保つ


時期だったせいもある。




 しかしそれでも不平等条約や、


神戸・堺事件に見られる列強の横暴、


金銀交換レートの違いからくる経済混乱など、


すでに目を覆うばかりの弊害を被っている。




 列強侵略の脅威阻止と、殖産興業・富国強兵の


早期達成のための


制度・技術習得は待ったなしの状態であり、


極めて緊張感の高い時期とも言えた。




 岩倉使節団の洋行前、


残留組の西郷隆盛、板垣退助、井上馨、大隈重信


江藤新平との間に、重要な人事変更、


新制度の積極的導入は控える事


など、釘を刺される。




 しかしそれでも地租改正、学制新設、太陽暦採用、


徴兵令、断髪令など、矢継ぎ早に発布された。


 退助はそういう明治維新草創期に


多くの重要案件に関わった人物なのである。




 そんな重要な時期、


東京千住の板垣家に大きな出来事があった。






 お鈴に待望の嫡男が誕生した。


名を鉾太郎ほこたろうと命名。






 後に鉾太郎は従四位となり、


教育家となっている。






 「鈴、でかした。


よく無事に産んでくれたの。


これでワシもようやく父になれた。


 心から礼を云うぞ。」




 そこに生まれたてで、まだ目も見えず、


耳も聞こえぬ我が子に「ベロベロバ~!」


と何度も何度も繰り返す親パカがいた。




 「旦那様に喜んでいただけて


私もホッとしました。


嬉しいのは分かりますが、


そんなに顔を近づけ声をかけたら、


 赤ちゃんを起こしてしまいます。


 せっかく眠りについたばかり故


起こさないでくだされ。」




 (分かっておる。分かっておるが、


目を覚ましてこの父を見てほしいのよ。)


 そんな気持ちを口に出しては言わないが、


そのかわり


「おお、そうか。


 でもこんなに可愛くては


声を掛けずにいられまい。


 この子はきっと、ワシに似て


良き男子おのこになろうぞ。」


「よしてくだされ!


この子が旦那様に似てしまったら、


将来ろくな子になりませぬ。


 暴れん坊で、勉強嫌いで、女泣かせで、


むこうみずの男になってしまうなんて、


この子の将来が可愛そ過ぎます。」


「こりゃ!鈴!!


それはあまりに言い過ぎではないか?


失敬にも程がある。」


 そう言いながら、退助の目は笑っている。


「あら、そうでございましょうか?


私の認識の何処か間違っていましたかしら?


え?え?え?」


 こんなめでたいときでも、


容赦なく退助を追い込む鈴。


 でもそう言いながらも心の中では、


多分人生で一番幸せなひと時だったのかもしれない。


 そんな鈴の心を知ってか知らずか、


「分かった、分かった。


お鈴大権現様、大魔神様。


私めが悪うございました。」


 脛に傷持つ退助は、


こんな時に地雷を踏むのは何としても避けたい。


 大魔神様の顔が怒りの面相に変わる前に、


早々と平伏するのだった。




「大魔神様?


大権現様と云うのも不遜すぎてどうかと思うけど、


大魔神様とは何ですか?


誰の事を言っているのですか?


私を何だと思っているのですか?」


「大魔神様を知らぬのか?


知らぬならもうよい。


 要するにソチは偉いお方ぞ。


 ワシは只々ひたすら平伏するのみ。


ワシの子を産んで下された神様仏様ということだ。」


「私を神様と思召すなら、


もう一寸ちょっと大事にしてくだされ。」


「大切にしとるがな。」


「何故急に関西弁?」


「あわわわ、大事にしちょるじゃき。」


「なんだか土佐弁もおかしくない?変な人!」


と指をさしながらケタケタ笑う。




 退助は思った。


(本当にこの子の母が


こんなに気の強い鈴で良かったのだろうか?


ウン、きっと良かったのじゃろ。)


と自らを納得させながらも、


未熟な父に過ぎない自分の事を棚に上げ、


疑問が頭をよぎる父であった。




 鉾太郎が将来教育家になれたのは、


実は奇跡だったのかもしれない。




 でもやっぱり自分の子は可愛い。


口を窄すぼめ微かすかに


「ポッ、ポッ、ポッ、」


と口吸いをするような声を出し、


鉾太郎の顔に近づける父。


「あら嫌だ、旦那さまったら、


私に迫るときと同じ仕草をするのですね。」


「何を言う!


ワシがソチとこの子を一緒にしていると申すか?


この子は食べてしまいたいくらい可愛いが、


ソチは神仏に差し出したいくらい可愛い。


その差は大きいぞ。」


「何を言っているのか分かりませぬ。


神仏に差し出すとはどいう言う意味でしょう?」


「あまり深く考えるな。


それほどソチは神々しいとの言葉の綾じゃ。」


「そうでございましょうか?


何だか都合よく言包いいくるめられて


いるような気がしますが。」


「そんな事はありはせぬ。


ソチは可愛い可愛いワシの嫁ぞ。


一番の宝物じゃ。」




 眉間に皴しわを寄せ、目を細めながら


疑いの目を退助に注ぐお鈴。




 ああ、こんな時お里や、展子や、


菊の事は、鈴の頭を過よぎらないで欲しい。


そう心から願う退助であった。




 いつまでも、いつまでも、


この幸せが長く続いて欲しい。




 いつの世も、誰もがこんな時感じる幸せ。


大切にしたい、守りたい退助であった。








 だがこの直ぐ後、


退助を巡る政治環境に暗い


「李氏朝鮮」の影が覆い始める。




 世に言う『征韓論』の始まりであった。














   第31話 征韓論










 岩倉使節団の洋行中、


西郷、板垣たちの留守部隊は


次々と新たな国造り施策を実行してきた。


 彼らの仕事は国内政策に留まらず、


列強諸国との外交諸般の他、


近隣諸国との新たな条約締結にも及んだ。




 そこで、まず最初に取り組まなければならない国。


それが隣国『李氏朝鮮』である。


 当時李氏朝鮮は、摂政の興宣大院君が


極端で過激な鎖国・攘夷政策を取っていた。






 好むと好まざるとにかかわらず、


一番厄介で縁が深い国。




 特に江戸時代の李氏朝鮮は、


日本の将軍が代替わりする度


朝鮮通信使を送ってきた。(計11回)


 一回に470人から500人と云う規模で、


随行の対馬藩の役人及び、


警護1500人ほどが加わる。




 対馬藩士が随行の任にあたった訳は、


1675年(延宝6)釜山に草梁倭館建設、


外交拠点として対馬藩士が常駐、貿易や、


通信使関連の連絡、


情報収集の任についていたためである。




 通信使接遇には一度に約100万両


(1両≒




 当時通信使の行列は、異国情緒漂い、


庶民の見物の対象であり、


娯楽としての一面があった。


 その一方、通信使の中には国使としては


相応しからざる者も多数存在した。




 過去の記録によると




『屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、


酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、


席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、


供された食事に難癖をつける、


夜具や食器を盗む、


日本人下女を孕ませる、


魚なら大きいものを、


野菜ならば季節外れのものを要求、


予定外の行動を希望して、


拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかける、


といった乱暴狼藉を働くものもあった。


 警護に当たる対馬藩士が侮辱を受ける事もあり、


1764年(宝暦14)


通信使を殺害する事件も起きている。


 「今時の朝鮮人威儀なき事甚し」と、


儒学者菅茶山は朝鮮人が


伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。』




 など、誠に醜い行状が記されている。






 一方そんな時期、


ロシアは南下政策により、


樺太・千島へ触手を伸ばし、


対馬に於いて1861年(文久元)3月14日、


ロシア軍艦対馬占領事件が起きるなど、


露骨な侵略意図を見せている。




 更にロシアは朝鮮に圧力をかけ、


スパイを送り込み、


対日戦争に加担させようとしているとの


風説が流れていた。


(情報源 オランダ商館長:クルティウス)






 日本の朝鮮と通信使に対する印象は


決して良くはない。




 また朝鮮側も日本に対する印象は良くはない。




 1866年(慶応2)末、清国の新聞に、


日本人八戸順叔による


「征韓論」の記事が寄稿され、


清・朝鮮の疑念を招いた。


(八戸事件)




 それ故、摂政・興宣大院君による


鎖国・攘夷策に対し、


早急な対応が求められた。




 ロシアによる朝鮮半島への覇権は、


隣接する日本の安全が脅かされている。




 朝鮮も対日強硬姿勢を高めていた。








 勝海舟は欧米列強に対抗するため、


『我邦より船艦を出だし、


弘くアジア各国の主に説き、


横縦連合、共に海軍を盛大し、


有無を通じ、学術を研究」しなければならない』


と説いている。




 一致団結して列強に対抗しようと


呼びかけているのだ。




 日本の留守政府は、李氏朝鮮に対して、


新政府発足の通告と国交を望む交渉を行った。




 しかしその外交文書は


江戸時代の形式と異なることを理由に


国書受理拒否という回答を喰らう。




 その理由は従来、


日本の代表の大君(将軍)と、


朝鮮国王は対等な関係であるとしてきた。


 そこに朝鮮国王の上の位置にある


清国皇帝が使用する


「皇」「勅」などを含む国書は、


到底受理できない。


(朝鮮国王は清国の外臣との位置づけのため。)




 朝鮮は清国の外臣ではあるが、


日本に対する臣ではない。


 先の八戸事件もあいまって、


朝鮮側の非難の論調は過激さを増し、


天皇、皇族を侮辱する態度まで示す。




 佐田白茅外二人帰朝後見込建白の記録にも


『朝鮮は皇國を蔑視して、


文字に不遜ふそん有りと謂いう、


以って耻辱を皇國に與あたう。』


と記されている。




 その後の交渉に於いても


頑なに拒む朝鮮であった。




 排日の声ますます強まり、ついに釜山にて


官憲先導のボイコット運動が起きた。




 更に大院君が


「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、


我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」


という布告を出す。






 ここに日本国内において、


征韓論が嵐となり沸騰。




 1873年(明治6)年、


釜山日本公館駐在外務省広津弘信が


外務少輔上野景範に宛てた報告書により


閣議にて朝鮮問題が取り上げられる。




 この閣議の出席者は、太政大臣三条実美、


参議の西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、


江藤新平、大隈重信、大木喬任であった。




 退助は居留民保護のため、一大隊の兵を送り、


その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張。


 それに対し西郷は


「まずは責任ある全権大使を派遣し交渉すべき。」


と主張する。




 退助は自説を撤回し西郷の提案に賛成、


象二郎、江藤新平ら、出席者全員が同調した。




 ただし、結論は岩倉使節団の帰国を待って


決定する事とする。






 1873年(明治6)9月13日


岩倉使節団が帰国した。


 10月14日朝鮮問題関係閣議開催。


西郷は遣使即行を主張。


 しかしそれは交渉失敗が


初めから織り込まれた主張であり、


失敗した折は、


戦をも辞さないものであった。




 それに対し、西欧列強の進んだ産業、国力を


目の当たりにし、日本の現状に危機感を覚えた


遣欧使節団組の大久保、岩倉、木戸は、


内治優先論の立場から反対、


当初西郷案に同調していた三条や大木らまで


大久保案に同調する。




 その後も賛成、反対論の間で攻防を繰り広げ、


せめぎ合いの末、西郷の即時派遣を決定した。


 しかし、これに反発した


岩倉・大久保らが一旦辞表提出するなど、


紆余曲折を経て、最終的に


10月24日、明治天皇に裁断を仰ぎ


遣使を延期する最終決定をみた。




 破れた西郷は23日辞表を提出。


即、東京を離れる。


 また、24日


退助、象二郎、江藤らが一斉に下野、


それだけにとどまらず、


近衛将士などの軍人、官僚約600人も


一斉に職を辞する大規模な政変に発展した。




 これが世に言う『明治六年の政変』であり、


翌年1874年(明治7)1月12日


退助らが愛国公党を結成、


自由民権運動の素地を作る。


 更に同年、江藤新平の佐賀の乱や、


1877年(明治10)に勃発し、


国内最後の内戦となった西南戦争など、


不平士族の乱が多発、


日本史に多大な影響を残した。










 政争に敗れた退助が千住の自宅に帰ると、


ハイハイの鉾太郎が待つ。


 鉾太郎はもうそろそろ


立ち上がりそうな時期に来ている。


 父、退助を見ると


「あ、あ、」と声を出す。


まるで「お帰りなさい。」


と云うかのように。




「あら、旦那様、お帰りでしたか。」


いつものように鈴が奥から出迎える。


「お勤め、お疲れ様でございます。」


 退助の表情に気づき、


「何だか本当にお疲れの様でございますね。」


「ああ、今日は負け戦じゃ。


 こんなにボロ負けしたのは


ワシがまだボンズの頃以来じゃ。


 いや、殿の豊信公にも負け続けておったわい。


ハハハハハ。」


「そうでございますか?


それはお珍しい。


 疲れた表情の割には、


スカッとしておられますね。」


「おぅ、そうよ!


負けた腹いせに、参議の職を辞めてきた。」


その言葉に仰天した鈴は


「い!」


と目をまるくして


言葉にならない声を発した。


 そして


「話には聞いておりましたが、


旦那様は本当に浮き沈みの激しいお方でしたのね。」


 鈴は最初、顔を引きつらせていたが、


ふいにそんな状況が可笑しく感じたのか、


退助の屈託ない笑いに釣られたのか、


「ア~ハッ、ハッ、ハッ、」


と豪快に笑った。




 それをキョトンと二人を見つめる鉾太郎。


やがて自分もと云わんばかりに


「えへ、えへ、えへ!」


と言葉にできない笑い声をあげた。




 失業した直後のこんな状況に、


家族みんなで笑い合え、


何とも温かな感情につつまれた退助。




 後先考えず、下野すると息まき、


辞職した自分。


 己は失業者のくせに


こんな時幸せを実感するなんて、


ワシは何と恵まれているのだろう。




 すると退助の心に


みるみる力が湧いてきた。




 そうだ!ワシはこれから自由に動けるのだ!


政府の役人なんぞやっていては、


面倒なしがらみばかりで


思うように志こころざしのために


働けなんだ。


 これからはワシの理想だった


自由と平等を実現するため、


思う存分働いて見せようぞ!




 退助の目は輝き、勇気凛々、


まるで「少年ジェット」や


「幻まぼろし探偵」みたいな


正義の味方の少年ヒーロー並みに


力が漲みなぎった。




(例えが古い!古すぎる!


若い人は知らないだろうな~)






 その退助の変化に、


訝いぶかし気な表情の鈴が、


「旦那様、如何なさいましたか?」


と聞く。


「おぅ、鈴よ!


ワシは今日から正義の味方だ!


空を飛ぶし、光線をも発する!


ワシの活躍を見よ!!」


「・・・・旦那様ぁ~、


やはり大そうお疲れの様でございますね。


『下町のナポレオンⅢ世』でもお飲みになって


今宵は早うお休みくだされ。」




「おう、そうするか。


ではお鈴、こっちへ。」


と云いながら鈴を奥へ誘い、


ポポポポ・・・・、


と口を窄めて迫った。






 「バカ!」
















  (第32話)失業者たち














* 今日登場する面々は、皆政府高官だったので


 直ちに生活苦に陥るような人たちではありません。


ハッキリ言ってお金持ちです。


女将のお菊を含め、全員承知の上での会話である事


 を踏まえてお読みください。












 征韓論に敗れ下野した退助と象二郎。


失業者同士、傷を舐めあう残念会を


日本橋のお菊の料亭『むろと』で開いた。




 そこには呼んでもいないのに


江藤新平と元外務卿 副島種臣もついてきた。




 実は大久保の狙いは


西郷や板垣の追放ではなく、


江藤や反長州閥の追い落としにあった。




 目ざわりだったのは


いつも反発ばかりの江藤一派だったのだ。




 大久保にとって西郷、板垣は


新政府にとってなくてはならない存在。


 本気で追い出す気はなかった。




 とはいえ、結果は


その後の政局に大きな影響を及ぼす


明治六年の政変に発展してしまった。




 残留政府高官組は狼狽し、


その後の処理には大変苦労する羽目となる。


『後悔先に立たず』


臍を噛む思いで


その後の政治の切り盛りをせざるを得なかった。










 さて、退助の残念会は


およそ残念会とは思えぬ盛況であり、


笑いの絶えぬ宴席となった。




 出迎えた女将の菊に


「今宵は哀れな失業者の集まりである。


酒と象二郎のために黒烏龍茶をジャンジャン頼む。」




 退助の失脚を幾度も見てきたお菊は


少しも慌てず、


「あら、また失業されましたか?


懲りないお方。


 集まりと云う事は、


皆さま全員失業されたのですか?


それは豪気でいらっしやいます事。


おや、まぁ、象二郎様まで。


 退助坊ちゃまとはいつも一緒や、


とおっしゃっていましたが、


本当にお好きなのですね。」


「こりゃ!この象二郎様をからかうでない。


おまんがからかう相手は、


退ちゃんであろう?


天下の板垣退助の


隠れ専属辛口秘書であると


調べはついておるぞ。」


「こりゃ!象二郎!


おまんこそ、なんちゅう問題発言を吐いておるんじゃ!


新平も種臣どんも、誤解するじゃないか!」


 新平が口を挟む。


「そなたがあの悪名高い女将のお菊殿か?


後藤殿からかねがね噂は聞いております。」


「悪名高い?!象二郎様!


あなたは退助坊ちゃまだけでは飽き足らず、


私の悪口まで広めていらっしゃるのですか?」


「滅相もない!!


お菊殿は退ちゃんには


もったいないベッピンさんだと


申しておるよな!な?な?」


と新平と種臣に同意を求める。


しかしふたりはそっぽを向いて


知らぬふりを決め込む。


「この裏切者!!」


と象二郎が言うと、


退助が


「裏切者はどっちじゃ!


ワシの恥ずかしい話を方々に広めよって!」


「まあ、まあ、退助坊ちゃまも象二郎どんも


今宵は苦い酒でも飲んで、


憂さをはらしましょうぞ。


 女将、ジャンジャン酒を持ってきてくれ!」


と元外務卿として交渉のまとめ役だった


種臣が鉾を治めようとする。




 しかしお菊は


「象二郎様は下戸故、烏龍茶でございますね。


下町のナポレオン三世がたっぷり入った


美味しい烏龍茶をお持ちいたしますので


お待ちください。」


「許してくだされ、弁天様、お代官様、お菊様!」


と哀れな象二郎は手を合わせる。






 その日、たっぷり酒の入った4人は、


今後の明るい将来について語り合った。










 退助は夢を語る。




「この日の本は貧しすぎる。


先の戦で国中を転戦したが、何処に行っても


絵にかいたような貧乏生活ばかり。


 そんな環境だから、列強に舐められるんじゃ。


この国の民は賢い。


なのに、あんな奴らに馬鹿にされて良いものか?


新平どん、答えよ!」




「じゃあ、退助坊ちゃまはどうせよと申すか?」




「ワシを坊ちゃまと呼ぶでない!


この国は、もっともっと変えてゆかねばならぬ。


でも、一番変えなければならぬのは、


制度ではない。


 人の心じゃ。この国の民は皆、


今の貧しい生活を当たり前と思おちょる。


 貧困と不自由を当たり前と思うのは正常か?


ワシらは武士の生まれじゃが、


何故武士が偉いんか?


 武士の中にも愚か者は居る。


貧者の中にも賢い者は居る。




 人には生れながらに


人としての尊厳があって


然るべきと思おちょる。




 人には人間固有の権利があるはずじゃ。


基本的人権じゃ。




 そして基本的人権を形成する


重要な要素は自由と平等じゃ。




 だがワシは何も皆が同じ生活を


目指せと云うておるのではない。




 等しく機会を与えよと申しておる。


富める者が富を得るのは容易じゃが、


貧者でも能力と意欲を持つ者には


チャンスを与えよ!


身分を超えて生きる自由を与えよ!




 民を富ませ、国を富ませるのは


ひとりひとりの民の意識と奮闘努力ぞ。


 そうは思わぬか?」




「よく分からん。


しかし、退助どんの熱意は伝わった。


で、どうすれば良い?」




「ここでワシらがグダを巻いてばかりいても


埒が明かぬ。


結社を造るのじゃ。」


 一同が口をそろえて


「結社?」と聞く。


「おうよ、結社よ!


かつて我が藩には竜馬や慎太郎が掲げた


『陸援隊』や『海援隊』があったじゃろ?


それに倣って、政治結社を造るんじゃ。」




「結社か・・・。」


「結社を造ってどうする?」


「結社を造って、広くこの日の本に


基本的人権と自由と平等の


精神と概念を広めるんじゃ。


 そのためには今の藩閥政治じゃ駄目じゃ。


御誓文でも謳われているように、


『廣く会議を起こし』じゃ。


「そうか、こりゃ壮大な話じゃのぉ。」


「そこでじゃ、


残念じゃが、ここに居る面子じゃ


人として如何なものか疑問が残る故、


まず、準備段階として倶楽部を造る。」




「人として如何なものか?


そりゃ、退助どんの事か?」




「ワシの訳がなかろう!


ここにいるワシ以外じゃ!」


「そうか、退助どん以外か・・・


って、おはんが一番如何なものかと思うぞ!」


「まあ、細かい事は気にするな。


とにかく人材を集めて組織づくりじゃ。」


「資金はどうする?」


「募金と献金じゃ。」




「そうか、募金と献金か・・・。




って同じじゃないのか?




ところで、ここの飲み代はどうする?」




「おはんら!!皆、ここに手持ちの有り金を全部出せ。


そうすりゃ、飲み代くらい捻出できるじゃろ?」


「失業者から金を取るんかい?鬼じゃな!」


「おおよ、鬼じゃ!


ここにきてただ酒飲もうなんざ、


鬼にも劣るぞ!」




「おう、女将!


お愛想じゃ!」






「ところで女将、物は相談じゃが、


哀れな失業者の飲み代を少しは負けてくれんかの?」


「何セコイ事を!


さっきまで天下国家の志を語っていた殿方が、


飲み代を巻けろ~ォ?


びた一文負ける訳にはいきませぬ!


但し、出世払いにはできましょうぞ。


明日から死ぬ気で御働きを!


 それが嫌なら、今ここで全額お支払いいただきます。」




「お菊の鬼!!


うぬら、聞いたか?死ぬ気で働けとよ。


しゃあない、また死ぬ気で働いて出世するとするか。」




 象二郎が言った


「明日から死ぬ気で働くより、


ここは全額払った方が楽ではないか?」




「象二郎の『コロナウイルス』野郎!!」


「そのコロナナンチャラとは何じゃ?」


「未来のばい菌じゃき。」


「????」








 その後の11月


早速、銀座3丁目に一室を借り受け


幸福安全社を創設した。




 後の愛国公党を結成する母体である。




 退助が推進する民撰議院設立建白書を


提出するための第一歩となった。














   (第33話)「諸君!!」












 1874年(明治7)年1月12日、幸福安全社を基礎に


広く同志を集め、東京銀座の副島邸に愛国公党を結成。


 日本初の政治結社となった。


その理念は、天賦人権論に基づき、


基本的人権を保護し、


政府に民撰議院設立を要求する事にある。




 退助は、象二郎、江藤新平、小室信夫、


由利公正、岡本健三郎、古澤滋らと共に


左院に対し


『民撰議院設立建白書』を提出した。




 だが大久保率いる政府に


時期尚早として却下される。




 退助たちの行動は実に画期的ではあったが、


永く封建制が続いた明治初期には


民主主義の概念が存在しない。


 やはり、大久保の言う通り


時期尚早であった。




 退助は思った。




 日本全国に我らの志こころざしを


伝えねばならない。


 粘り強く訴えなければ、機運は育たない。




 それならばワシは国許の土佐に帰り、


まず、土佐人に浸透させる。


 初心に還り、土佐で同志を集めるのだ。


そして戊辰戦争の時のように、


先頭を切ってこの国を変える戦いに打ち込もう。




 そう決心したらその後の行動は早かった。




 土佐に帰るとすぐに演説会を開催する。


弁士は勿論このワシ、板垣退助である。




 象二郎が心配した。


「退ちゃんが弁士で大丈夫じゃろか?


わしゃ、心配じゃき。」


「ワシの何処が心配じゃ?


ワシの申す事は、いつも完璧じゃろが!」


「退ちゃんが完璧?


本妻の展子ひろこ殿の前でもそう言えるか?


確か昨日の夜も地雷を踏む音が


土佐中に響いておったぞ。」


「ここで展子の名を出すでない。


大体象二郎は作り話が大げさでいかん。


ワシがいつ展子の地雷を踏んだ?


その地雷の音が土佐中に響きわたる?


 ワシは展子なんぞ、怖くはないゾ。」






 すると背後から展子が近づく。




「あなた・・・。」






 「ワッ!」




 退助が怯えた声で叫び、


飛び上がって振り返った。




 展子は怖い目をしながら、


「私の事で、何かおっしゃいましたか?」




「おお、展子、


応援に駆けつけてくれたか?


これは心強い!


 展子が居れば千人力、万人力、億万人力じゃき。」




「私は化け物ですか?」




 また早速地雷を踏み、


象二郎がクスッ!と笑う。


講演のエピソードとして格好の餌食となる


哀れな退助。




「ウォッホン、とにかくワシは


迅衝隊や断金隊の前で


毎朝訓示をたれた身ぞ。


演説なんぞ朝飯前じゃ!」


「確かに朝飯の前に訓示をたれていたかもしれぬが、


それは意味が違うと思うぞ。」


「いや、それこそ意味が違うじゃろ?


そうじゃなくて・・・。


えぇい、面倒臭い!


とにかく見ておれ、


ワシの一世一代の名演説を。」






「はいはい、聞かせていただきます。」


と展子と象二郎が同時に言った。










     退助の演説






 「諸君!!






 我々は今、重大な岐路にきている。


 徳川260年、永く永く風雪に耐えてきた。




 私が昔、免奉行をしていた折の、


見知った面々もこの中には居るようだ。




 あの頃私はここに集まる諸君から、


多額の税を取り立てる立場だった。




 諸君は涙を流す想いで


税を納めてくれた。


 私は思い出すだけで頭が下がる。




 しかし、それは当時の制度として


当たり前と思っていた。


 諸君、そして私もだ!




 だが、本当にそれは当たり前だったのか?




 これから私は、


「有難い」話をしよう。




 諸君!


諸君は今の税をどう思う?




 仕方ないか?


もう少し減らして欲しいか?


もう、納めたくはないか?




 さぁ、どう思っている?




(会場の聴衆から)


「減らして欲しい!」


「納めなくともよいなら、納めたくねえ!」






 そうであろう!


でも、それを決めるのは誰か?








 (聴衆)「お上。」




 今まではそうであった。




 でもいつまでもそれで良いか?


不作の時も同じだけ納めるのは


苦痛であろう?




 ではどうする?


治める税額を決めるのが、


自分たちならどうする?




(聴衆)「そんな事ができるのか?」


    「そんなの夢の様じゃ!」




「税だけではない、


誰もが読み書き算術を学び、


やりたい職業に就いてみたいと思わぬか?


百姓が医者になってはいけぬのか?


 商いがしたい漁師が居てもおかしくなかろう?


 誰もが好きなところに行けるのはどうじゃ?




私はハワイに行きたい!


草津の湯でも良いぞ!




 身分を気にせず、


好きな女子おなごと添う事ができたら、


とは思わぬか?




 (聴衆)「思う!」


     「ワシもじゃ!」(笑)




 我が子に明るい未来を与えたいとは思わぬか?


子にたらふく喰わせたい、


子を良い仕事に就かせて


生涯裕福な生活をおくらせたいとは思わぬか?




 そういう願いを持っても良いのだ。




 そしてそういう願いを実現する権利を


基本的人権と呼ぶ。




 そしてその基本的人権を実現し、


維持するには、


自由と平等と云う概念が必要になる。




 自由とは、好きに生きる権利であり、


平等とは、誰もが等しく


機会チャンスを持つ事である。




 しかし、そのどちらも


責任が伴う。




 責任無くして権利はない。




 好きに生きるのも


機会を得るのも


責任が無ければ成り立たないのだ。




 税金が無ければ、それはそれは楽であろう。


でも、税が無ければ幸福に暮らせる制度も作れぬ。


外国に攻められても抗する事はできない。




 学ぶ場所も必要、


祭りごとを論ずる場所も必要。


実行する機関も必要である。




 ただし、今までそれを決めてきたのは


幕府であり、それぞれの藩であった。


 幕府の責任、藩の責任で


祭りごとは成されてきた。






 でも、もしこれから先、


それらを全部、


自分たちで決めることができたら


不満が減るとは思わぬか?


希望が持てるとは思わぬか?




 自分がしたい仕事を


思うように、したいように出来たら、


意欲が湧くとは思わぬか?




 今までの世はそれらを全部諦め、


「仕方ない」と思うのが当たり前であった。




「自分が決める」




 そんな事はあり得なかった世、


即ち、有難い世を


「ありがたい」世に造り変えるのだ。




 そしてそれができるのは、


心をひとつにし、力を合わせた諸君である。




 希望を以って、信念を持って、


自分たちが主体となった政治をつかみ取れ!






 (聴衆)「ワシらにそんな事ができるのか?」








  出来る!




 ついこの前、おはんら土佐の男たちが先頭を切って、


あの強大な幕府を倒したではないか!




 但し、私は諸君に人同士が殺し合う戦いくさに


身を捧げよと云うておるのではない。




 私は今諸君に求むのは只一点のみ!


自分自身との戦に挑め!


自分に沁みついた諦めと戦え!




 人に支配されるのを当たり前と思うな。


意味もなく偉いものにへつらうな!


自分を卑下するな!




 僕しもべ根性を拭い捨てよ!




 諸君にも覚えがあろう?


「へぇ、へぇ、」と偉き者に平伏する自分の姿を。




 しかしそれは諸君のせいに非ず。


全国に蔓延した社会制度にあり。




 「どうせ俺なんか」という思考を捨てよ。




 自由獲得の舞台に立つ前に、


そうした自分の意識を捨てよ!




 自由とは


その戦いに勝った者だけが得られると心得よ!


更にその先に平等との戦いが待っておる。




 もう一度云う。意識を変えよ!




 自らのため、後に続く子らのため、


今こそ立ちあがるのだ!


 諸君たちなら必ずできる!!




 我らは今、民撰議院設立建白書を出さんと欲す。


何度政府にはねつけられてもだ!


自由も平等も、その先にあり!




 今こそ広く会議を起こすため、


諸君の奮闘を求む!




 以上。
















    第34話 立志社












 退助の演説は強い反響を得た。


しかし聴衆の心を揺さぶっても、


その大半は貧しい生活のどん底にいた。




 どんなに希望を以って戦えと云われても、


明日の生活に事欠く身では動きが取れない。


 民権運動に参加し、活動する余裕などない。


有難い話が聴けたと満足するのが関の山なのだ。




 それでも全く成果が無かった訳でもない。


農村の民の参加は得られなかったが、


賛同の機運の手ごたえはあった。


 それに、農民たちの代わりに


士族たちの支持を得ることができた。




 維新以降、武士は士族へと変わり、


既得権が消滅してゆくにつれ、


不平を持つ者たちが数多あまたでる。




 彼ら不平士族たちは、


やり場のない不満と怒りの矛先を、


自由民権運動へと傾注するのだった。




 そうした彼らを結集し、


1874年(明治6)、


片岡健吉(元迅衝隊左半大隊司令、


後に衆議院議長を務める)を社長として、


立志社を立ち上げた。




 (社長と云っても、


株式会社ではありません。


政治結社の社長です。念のため。)




 そのメンバーは退助と片岡健吉の他、


山田平左衛門、林有造、植木枝盛と云った


早々たる面々である。




 そのいずれの者も


その後の国の発展に寄与した


重要な人物であり、


退助の人望に引き寄せられた者達だ。








    立志社の理念




 天賦人権をもとに、民衆の知識向上、


気風養成、福祉上進、自由浸透を目指す。


人民主権・一院制議会・人権保障など


民主主義の理念に基づいた立志社憲法見込案の発表。








 この理念に基づき、


国会期成同盟の中心的役割を果たし、


また機関紙を多数発行、


立志学舎を立ち上げ、


近代的教育の中、民権思想の普及に尽力した。




 この退助の動きと平行し、


先に提出した民撰議院設立建白書が


新聞に掲載され、国会開設請願が広く世間に広まる。


民選議院設立の可否について、


多くの新聞紙上に於いて論戦が交わされた。




 退助の撒いた種が大きなうねりとなり、


国中に認知される。










 初めて退助の演説を聞いた展子ひろこは


改めて夫・退助の偉大さ、


気高さに気づかされた。




 あの日以来、


板垣邸に続々と訪れる有志の者たち。


彼らは目を輝かせ、夫を師と仰ぎ、


行動を共にしようと馳せ参じる。




 展子にとって夫・退助は、


ガサツで危なっかしく、


厭いやらしい浮気者で、


脇の甘いダメ男に過ぎない。


 でも、こんなにたくさんの者たちに慕われ、


あんな熱弁を揮える人だったとは・・・。




 改めて退助の横顔をよぉく見てみる。








「あら、いい男・・・。」




 じゃなくって!!




 そんな大人物だったの?


私はそんな夫を尻に敷いていた訳?




(展子本人は、夫を尻に敷いた自覚は無い。


しかし象二郎がやたら囃し立てるので、


そうだったかもしれない、と思い始めていた。)




 その日を境に、


自分の夫がどんどん遠くに


行ってしまう気がする。




 只でさえ東京の別宅の鈴に待望の嫡男が生まれ、


自分が隅に追いやられた気がした展子。


 寂しさが募り、


退助に甘える傾向が強くなる。








 あの日の演説会以降、


立志社のメンバーが板垣邸に入り浸った。




 次の展開をどうするか?


民権運動の理論構築担当の植木枝盛が、


「先生(退助の事)は農民の感情に訴え過ぎです。


 彼らには、運動に参加したくともできない


経済的な制約があります。


 そんな事は先生自身が一番よくご存じな筈。


何故、呼びかけの相手が彼らなのですか?


 今は士族に的を絞って訴えかけるべきです。」


「それはいけん。


日本の根幹は庶民に有り。


特に水吞み百姓(小作農民)が自立の意思を持たねば


この国は諸外国に太刀打ちできん。


 生れながらに独立精神を叩きこまれた士族どもは、


黙っていてもついてくる。


 しかし抑圧されるのが当たり前の平民は違う。


 彼らを目覚めさせなければ、


 この運動の意味はない。


 急がば廻れ!


我らの使命を忘れるな!




 それからワシを先生と呼ぶな。


そう呼ばれると、


どうもケツの穴がムズムズしていけん。」




 象二郎が口を挟む。


「退助先生様はな、


自由と平等にうるさい。


 特に女子おなごとの交際に関してはな。」


「象二郎!煩うるさいぞ!!


またある事ない事広めよって!」




「女子?」


林有造が喰いつく。




「知らんのか?


退助先生様は特に女子には煩い。


先だっても・・・」




 すかさずヘッドロックをかまし、


口封じを図る退助。


「象二郎!口を慎まないと


お前の恥ずかしい秘密も暴露するぞ!」






 と、そこにお茶を運んできた展子が、


「あら、先だっても?


象二郎様、女子に弱いうちの旦那様は


どうされたのですか?」




 目が怖い。






 「何もしちょらせん!」


「あなたに聞いておりません。


象二郎様、如何?」




「これは展子殿。


退助先生は人を身分で判断せません。


 分け隔てなく気軽に声をかけるのが


退ちゃんの良い所。


そう云う事です。」




 「そうですか。


分け隔てなく、きれいな娘には


お優しいのですね。」


「そうは申しておりません。


綺麗とは言えない娘こにも


優しくしております。」


「象二郎!フォローになっておらぬぞ!


人の女房の前でワシを追い込んでどうする?」






 平左衛門も有造も枝盛も


笑いを押し殺し、小刻みに肩を震わせていた。






「私も旦那様のお子が欲しい。」


突然、人目も憚らず


展子の口からそんな言葉が飛び出す。




 実は退助も展子のそんな心境の変化を


感じつつはあった。


 でも実際に素直な展子を初めて見、


自分を拒絶していた態度を軟化させる程、


展子を追い詰めていたのかと、


心の中で「済まない。」と思った。




 そっと優しく展子の肩を抱き寄せ、


抱きしめたいとの衝動に駆られた。




 「展子・・・・」






「何です?その厭らしい顔は!」


「何です?って、ソチが子が欲しいと・・・」


「何でそんな節操のない顔ができるのです?」


「節操のない顔で悪かったな。


寂しい思いをさせて悪かったと思おておるから


慰めてやろうとしたのに。」


「旦那様はデリカシーが無さ過ぎます。


女にはムードが必要でございますよ。


 こんなたくさんの殿方の見ている前で


何ですか!女心の分からぬお人!」


「何じゃ、そのデリカシーとか、ムードとかは?」


「大体旦那様は、ワンパターンなのでございます。


いつもポポポポと口を窄めて迫って来るのは、


如何なものかと思います。」


「ではどうしろと?


手を変え、品を変え、


趣向を凝らして迫れと申すか?」


「それもどうかと思いますが・・・。


兎に角、何か厭らしいのです。


私がそう思うくらいなのですから、


東京のお鈴様も


そう思っていらっしゃるのではないですか?」




(ギク!)と狼狽えながら、


「バカな!何ちゅうことを!」


覚えのある退助の目は宙を彷徨う。




「先日の堂々とした演説をした人物と


同一とは思えませぬ。もしかして、


先日のお人は影武者でございますか?」


「何を申す!そんな訳あるまい!


あの時の良い男も、今ここに居る良い男も


どっちもこのワシじゃ!


ワシの事を惚れ直したのなら、


黙ってついてこい。」




(どさくさに紛れて


自分から『良い男?』って云う?)




 見つめ合うふたり。




 と、ふいにヒョットコに似せたひょうきん顔で


「ポポポポ」と顔を近づける退助。




 ピシャ!と頬を叩く音が響く。






 唖然とするギャラリーたち。


板垣家の闇を垣間見てしまった事を


心から後悔するのだった。






 気まずい顔の退助。




 フッ!退ちゃん可哀そうに。


また地雷を踏んだな。




 付き合いの長い象二郎はそう悟った。






   つづく

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