第18話 姫花、イベント、繋がらない電話
「……お兄ちゃん! 起きてー朝だよ」
天使の唄にも似た、柔らかな声が、上から降ってきた。
「んー……」
「今日イベントでしょ? はやく起きないと遅刻しちゃうよー」
目を半分ほど開くと、ベッドの横に亜麻色の髪をした女の子がいた。心配そうな表情で、俺の顔を覗き込んでいる。朝日はまだ出ていないはずなのに、俺の胸は柔らかなぬくもりに包まれる。
「姫花、お兄ちゃんまだ眠いよ……」
「仕方ないよ、だって今5時だもん」
「5時……せめてあと2時間」
「遅刻しちゃうよー。幕張遠いんだから」
「んーむにゃむにゃ……」
「てかお兄ちゃん、そんな朝弱かったっけ?」
「ホントは起きれるけどこうやってると姫花構ってくれるかなって」
「もー、お兄ちゃんってばー……そーゆー正直なとこ、嫌いじゃない、けど……」
姫花は困った表情をしつつ、甘えるように言った。白い頬は照れで薄い朱色に染まっており、産毛が朝日を受けてキラキラと輝いている。
俺はたまらなくなり、
「姫花ー!!」
姫花に抱きつこうとするが、
「ぶへっ」
いきなり、なんだかとてもつもなく汚いモノが顔面にぶつかってきた。
痛みをこらえながら見ると、兄・翔が足裏を見せながら側に立っていた。呆れた表情で、俺を見下ろしている。というか見下している。
左手にスマホ、右手にノートパソコンという出で立ちで、とりあえず多忙そうな雰囲気なのが鼻につく感じだ。
「高校生にもなってなにしてんだ、バカシスコン。なにやってんだはやく起きろ」
「バカってなんだよバカって! バカ言うやつがバカだっ!」
「IQ2かお前」
「やーいバーカバーカっ!!」
「……姫花もちゃんと起こせって」
「ごめんね、カケ兄」
シュンとする姫花の手を引っ張り、翔は無理やり立たせると、俺に言った。
「今日は俺たちにとって大事なイベントなんだ。遅刻もしないし遅延もしないし、ファンのみんなを絶対に楽しませる。たとえ実の弟であっても、それを邪魔するなら俺は許さない……わかってるよな、リョータ」
翔がすでにカケルになっているのが、口調からも目つきからもわかった。
「……ああ、もちろん。わかってるよ」
なので、俺は言葉に力を込めて返す。
もちろん、もう眠いなんて言ったりもしない。
今日、人気ユーチューバー・カケルはとても大事なイベントを迎えることになっている。活動開始から5周年。登録者数200万人を祝う、1万人ものファンを動員する大規模なイベントを、幕張で開催するのだ。
ライブが活動の中心のミュージシャンと違い、YouTuberがイベントを開くことはそう多くない。ただでさえ珍しい大規模イベントで、記念の日でもあるのだ。
「今日は俺たちが主役だからな」
翔が、俺に言い聞かせるように言う。俺は黙ってうなずく。
そんな大事な日だからこそ、普段は裏方という立ち位置の俺も、今日はステージに登壇することになっている。
だから、今日はカケルのイベントであると同時に、カケルとリョータのイベントでもあるのだ。
「お兄ちゃん、緊張してる?」
部屋を出てリビングで朝食を食べていると、姫花が尋ねてきた。その声色は優しく、煽る意図が一切ないことが伝わってくる。まだ朝早いし、寝てていいと言ったのだが、彼女は言うことを聞かず、こうして側にいることを選んでくれたのだ。
なお、両親はそもそも起きず、今もぐっすり眠っている。
「いや、大丈夫だ」
「そっか」
「ただちょっと全身に異変が起きてて、吐きそうでおしっこも常に漏れそうってくらいだ」
「ぜ、全然大丈夫じゃない!」
だが、焦る姫花を横に、翔はパソコンから視線を上げないまま、静かに答える。
「大丈夫だって。準備はたくさんしたんだし」
「……そうだよね。カケルとリョータだもんね」
そして、その言葉に姫花も納得してしまう。
俺たち3きょうだいは昔から、基本的に俺と姫花がじゃれ合って、それを翔が呆れて見ていることが多い。
世間的にはカケルは破天荒で金遣いが荒く、ビッグマウスで良くも悪くも好き嫌いが分かれやすいイメージだけど、実際は仕事人間でプロ意識の塊だ。家の中ではこうやってずっと仕事している。きっと、YouTubeアナリティクスを見て、昨日出した数字をチェックしているのだろう。
仕事熱心なのはわかるけど、姫花とのじゃれ合いの邪魔をされるのは、俺にとって不快でしかない。彼のストイックさ、自分への厳しさは尊敬に値するとは思っているけれど、だからと言って仕事の空気を家の中に持ち込んでくるのは反対なのだ。
なので、俺は違うじゃれ合い方を探すことにした。
「姫花も来ればいいのに」
「わたしはいいよお……」
「なんでだよっ」
「塾もあるし、それに……お兄ちゃんたちのいつもと違う姿見るの、なんか照れちゃうんだよね」
「姫花。そうは言ったって、もうYouTube始めて5年も経つんだぞ?」
「そうだけど……あと、やっぱり女の子のファンもいるワケでしょ? だから、そういう人を見ると嫉妬しちゃう……というか」
姫花はたどたどしい言葉で言った。俺から完全に視線を逸らして、言い終わったあとにこちらを視線だけで捉える。頬はすっかり真っ赤になっている。
「姫花。俺は他の女になびいたりなんかしない。俺の鼻の下はお前のためだけにある」
「お兄ちゃん……」
「姫花のためだけの俺は鼻の下を伸ばす。それでこそ姫花のお兄ちゃんなんだ」
「うん、わたしもお兄ちゃんのためだけの妹でいるねっ!」
そんな会話をしつつ、今度こそ抱きしめようと思ったら、翔が間にパソコンを挟んできた。結果、冷たいMacBookProに接吻することになる。
「……また邪魔してこの……」
「あのな。お前がシスコンなのは知ってるけど、今日は我慢しろ。早く準備するんだ。もうすぐ弥生さんと合流するぞ」
そう言うと、翔はひとり先に朝食を食べ終え、流し台へと移動。そのまま振り返らず、リビングを出ていく。
「お兄ちゃん、元気出して。カケ兄が言うとおり今日は大事な日だし、時間に余裕もって行ったほうがいいよ」
「姫花……」
「わたしも塾で応援してるからさ。ねっ? 元気出して?」
姫花が、優しい笑顔で言った。俺の心のなかで、みるみるうちに元気が出てくる。
「そうだな。お兄ちゃん、頑張ってくるよ」
「うん!」
○○○
先にも述べたとおり、この日は俺たち兄弟にとって大事な日だった。
なので、弥生さんらバズマジック社員さんたちの協力のもと、1年近い時間をかけてイベントを練り上げてきた。
YouTuberが単独でこのようなイベントを行なうことはまだ珍しいので、色んなメディアの人たちが取材に来てくれていることにもなっている。チャンネルとしても、会社としても決して失敗できないイベントなのだ。
タクシーに分乗して千葉に移動し、幕張の会場に到着。関係者用の入り口から入ると、時間をおかずして最終確認やリハーサルを行なっていく。本番は昼過ぎからだ。
やがて、他の同業者もぽつぽつと会場入りし始めた。バズマジ所属者を中心に、カケルチャンネルと親交の深い人たちに出演してもらうことになっているのだ。
そんな仲間たちに、俺とカケルは一緒に挨拶していった。みな、この日をいい日にしようと、真剣に臨んでくれているのがわかった。
そんなことをしているうちに、たっぷりあった時間はどんどんなくなっていった。時間が余れば仮眠でも取ろうかと思っていたが、そんな時間はなかった。姫花の言うことを聞いておいて良かったと思った。
「大丈夫そうだな」
そして、本番直前、カケルがつぶやいた。
その横顔には、自分への自信や自負が感じられる。弟として、相方として真横でずっと見てきた表情だが、すでに近くに1万人ものファンたちの声が聞こえる状況下でも変わらないのだから、やはりスゴイと思ってしまう。
だからこそ、俺は自信満々に返してやる。
「ああ。問題ないよ。企画内容、誰が考えたと思ってるんだ?」
「リョータ。カケルチャンネルの影の支配者・リョータだ」
カケルはそう言うと、ニヤッと笑って俺の腰を叩いた。
そして、真面目な表情に戻る。
「ここまで来るのは俺だけの力じゃ無理だった。お前が優秀な裏方として、企画、撮影、編集……色んなことで頑張ってくれたおかげだ」
「よせよ、こんなときに」
「こんなときだから言うんだよ。リョータ、いいイベントにしような」
そう言うと、カケルは手を伸ばしてきた。
俺も、すっと手を出す。ふたつの手のひらは重なり、ギュッと握りあった。
「じゃ、あと少しだな」
「トイレもう一回行っとこうかな」
「リョータ、緊張してるんだな」
「当たり前だ。俺、一応裏方だし」
と、そんなたわいない会話をしていたそのとき。
カケルのスマホが鳴るのが聞こえた。
「母さんか……ちょっと話してくる」
俺に断りを入れて、カケルは俺から少し離れた。なにか話しているけど、それなりの数の人がいるので、声までは聞こえてこない。
そして、電話を終えるとカケルは俺の近くに戻ってきた。
「なんの要件だって?」
「いや、その……頑張ってって」
「そんな要件で電話してきたのか。それなら朝起きて一言言えばいいのに」
「だ、だよなー……」
「ま、母さんらしいけどさ」
「……」
そして、俺はカケルに言った。
「今日はよろしくな。姫花の自慢のお兄ちゃんでいられるように、頑張るから」
「……」
自分で言っておいて、すぐに照れくさくなって横を向く。おまけで、カケルのお腹に真っ直ぐパンチを入れる。
だが、それでもカケルはなんの反応もしなかった。
「なんだよ、反応薄いな……ま、でもさすがに緊張するよな」
「……」
そんな話をしていると、
「そろそろ本番でーすっ!! 準備お願いしますっ!!」
スタッフさんの大きな声が聞こえ、俺たちはステージへと向かった。
そのとき緊張していた俺は、自分のことで精一杯で、横にいるカケルの表情が緊張以外の理由で引きつっていることには気づかなかったのだった。




