第七十一話 「見つけた」
何が優しい神器だ。
何が誰も傷つけない神器だ。
この神器のせいで、大切な人を失ってしまった。
こんな指輪さえ持っていなければ、兄が死ぬこともなかったのに。
だから自分は、自分の神器が大嫌いだ。
そして目の前の魔人は、もっと嫌いだ。
「んなに睨むことねえだろうが。別にてめえの兄貴を殺すつもりはなかったんだぜ。けど、あいつが思った以上に反抗してくるからよ、腹立ってつい殺しちまったんだ」
呆れるようにぼやくオニキスを見て、嫌悪感は増す一方だった。
なぜこんな奴に兄を殺されなければならなかったのだろうか。
憎い、悔しい、情けない。数多の感情が胸の内で渦巻く。
「それに、これでも俺はあいつのことを買ってたんだぜ。人間を一人も殺さずに、初期状態の神器で俺に傷を付けたんだからな。順当に神器を成長させてりゃ、相当化けてたのは間違いねえ。だから俺の徒党にも勧誘してみたんだけどよ、やっぱあいつは聞く耳を持たなかったな」
兄のライトがオニキスの勧誘を受けなかったのは言われずともわかる。
同時にオニキスがライトを勧誘したのも大いに納得できた。
確かにライトは強かった。
人を誰一人として殺さずに、神器をまったく成長させていない状態で凶悪な魔物を圧倒していた。
神器の潜在能力はもちろんだが、戦闘的な勘が鋭かったのも彼の凄まじい強さに起因している。
戦う機会がほとんどなく、数えるほどしかライトの戦闘を見たことはなかったけれど、シトリンは兄こそが世界で一番強い魔人だとずっと思っていた。
だからオニキスに殺されたと聞いた時は、本当に信じられなかった。
「てなわけで、てめえも死にたくなかったらさっさとそいつらを殺して神器を成長させろ。それとも、『てめえが殺さねえなら俺が殺しちまうぞ』って脅した方が効果があったりすんのか? てめえもあいつと同じで人間が大好きなんだろ?」
「……」
シトリンは周りに倒れている冒険者たちを一瞥する。
そして密かに奥歯を噛み締めた。
この人たちを殺さなかったら、自分が殺されてしまう。
それは別に構わない。自分の命なんて今さら惜しくもなんともないからだ。
でも、自分が殺さなければオニキスが代わりに冒険者たちを殺してしまう。
それだけは絶対に見過ごせないことだ。関係ない人たちが殺されるのはもう耐えられない。
もしかしたらライトは、このことまで危惧して自分のことを逃がしてくれたのかもしれない。
こいつはどんな手を使っても、自分に人間を殺させようとしてくる。
シトリンがどうすることもできずに放心していると、オニキスが彼女の服の襟元を掴み、傷ついた冒険者たちの前へ放り投げた。
次いで奴は近くに転がっていた大きめの石を拾い、シトリンの手に握らせる。
「おらよ。これならてめえの貧弱な手でも殺せるだろ」
シトリンは握らされた石を見て、思わず固唾を呑んだ。
冷たくて重い、角張った石だった。
両手で何とか持ち上げることができる。
確かにこの凶器なら、瀕死の冒険者相手ならば充分に死に至らしめることができる。
神器を使わずに人間を殺しても神器は成長するので、この方法ならシトリンの神器を効率的に成長させることができるかもしれない。
でも、そんなこと、できるはずもない。
「死に損ないの冒険者に止めを刺すなんざチョー簡単だ。その石を頭に打ち付けてやればいい。一回じゃ無理なら何回でもな」
できるできないの話ではないのだ。こんなこと、絶対にやりたくない。
この石を叩きつけたら、本当にこの人たちは死んでしまう。
そしてその嫌な手触りが、耳障りな音が、きっと頭の中にこびり付いて、この先一生それを忘れられなくなってしまうだろう。
シトリンはそれが何よりも怖かった。
「なあ知ってるか。邪神様ってのは残虐なものがお好みみたいでな、人間を残酷に殺せば殺すほど、より神器に祝福をくれんだよ。だからてめえも、こいつらの頭部をすり潰すように石を叩きつけろ。そうすりゃびっくりするぐらい神器を急成長させられるからよォ」
シトリンの心中など知る由もなく、追い討ちを掛けるようにオニキスは言う。
恐怖心を煽られたシトリンは、息を詰まらせながら目の前に倒れている男性冒険者を見据えた。
全身に痛々しい生傷が広がっている。
浅くて細い息を弱々しく吐き、放っておいても絶命してしまいそうなほど衰弱している。
この人を今から……
呆然と固まるシトリンに、オニキスは脅しを掛けるように囁いた。
「さあ、殺れ」
「……」
殺らなければ、オニキスがこの人を殺す。
どちらにしても、この人は殺されてしまう。
それならいっそ、自分の手で……
そうと考えただけで息が乱れ、石を持つ手が震えてきた。
早くこの絶望感から解放されたい。そのためならこの人を殺しても、別に構わない。
そんな危うい気持ちすら抱いたシトリンは、オニキスに言われた通り、高々と石を振り上げた。
そして、倒れる冒険者の頭を目掛けて、角ばった石を――
「……【回復】」
――振り下ろすことはしなかった。
彼女は石を捨て、代わりに右手を男性冒険者にかざした。
すると、温かくて優しい光が右手に灯り、男性冒険者が照らされる。
その光が体中に付いていた幾多の傷を塞いでいき、やがて彼は驚いた様子で体を起こした。
傍らで見ていたオニキスが、低い声で呟く。
「……何してんだてめえ?」
「早くここから逃げてっ!」
そんなオニキスのことを無視し、シトリンは男性冒険者に叫んだ。
次いですかさず次の冒険者に駆け寄り、再び右手をかざす。
「【回復】!」
二人目の治療を終え、またすぐに次の怪我人に目を走らせた。
この冒険者たちをここから逃がす。
自分が殺すのも、オニキスに殺させるのも、絶対にどっちも阻止してみせる。
そのために、兄が自分にしてくれたのと同じように、ここから冒険者たちを逃がすんだ。
今度は自分の番だ。
「【回復】!」
手早く三人目の治療を終わらせ、次の冒険者へと手を伸ばす。
全員はおそらく助けられない。
でも、これだけの数の冒険者たちを治癒していけば、何人かはここから逃げ切れるかもしれない。
何だったら自分が盾になって冒険者たちを守ってみせる。
オニキスはシトリンの治癒能力を欲しがっている。なら下手にシトリンを傷つけることはしないはず。
ならシトリンが盾になれば攻撃するのを躊躇うかもしれない。
と考えたシトリンは、オニキスの動きを注視しながら、治療の手を進めようとした。
その最中、オニキスが呆れたようにため息を吐く。
「はぁ、しょうがねえクソガキだな」
それとほぼ同時に、治療を受けた冒険者たちが、遅れて状況を飲み込んで走り出した。
三人の冒険者が散り散りになって出口を目指し始める。
あれなら一度に全員を止めることはできない。
ここにはオニキスと側近の女魔人しかいないので、止められるとしてもせいぜい二人だけだ。
そして自分も四人目の治療に掛かり始めている。
大丈夫だ。絶対にみんなをここから逃がし……
「ぐあっ!」
「――っ!?」
突如、人間の叫びが洞窟内に響き渡った。
その声が一つではなく、複数人の声が重なったものだったので、シトリンは驚いて振り返る。
するとそこには……
「なん……で……」
大振りの“刀”を振り抜くオニキスと、再び傷だらけになって倒れる冒険者たちがいた。
信じがたい光景を前に、シトリンは声を失くして呆然とする。
あまりにも速すぎる。
自分が盾になる暇はおろか、振り返る隙すらないほどの早技だった。
それにオニキスは、三人の冒険者たちを殺しはせず、手心を加える余裕まで見せている。
計り知れない実力の差を感じて、自分が愚かだったと遅まきながら悟る。
浅はかだった。早計だった。あのライトを殺した凶悪な魔人に、一矢報いようだなんて馬鹿馬鹿しいにも程があった。
「あーあ、てめえのせいで余計に痛い目に遭わせちまったじゃねえかよ。加減すんのも結構気ぃ遣うんだぞ」
オニキスのその言葉を受け、シトリンは胃が縮まるような腹痛を覚える。
そして倒れ伏す冒険者たちを眺めて、掠れた声を漏らした。
「私の……せい……」
「そうだ、てめえのせいだよ。てめえが余計な真似しなかったら、無駄に傷つくこともなかったんだよ。余計に痛めつけられて可哀想だなー」
また、この神器のせいで誰かが傷ついた?
傷を治して逃がそうとしなければ、余計に傷つくこともなかったのに。
この神器のせい……
(……違う)
これは全部、自分のせいだ。
この人たちが余計に傷ついたのも、兄が死んでしまったのも、誰よりも自分が悪い。
神器のせいなんかじゃない。神器のせいにするな。現実を見ろ。
全部全部、自分のせいじゃないか。
「だからよォ、もうてめえの手で楽にしてやれよ。その方がこいつらも、これ以上傷つくこともなくなるんだからよォ」
オニキスはそう言って、先ほどの石を握らせてきた。
冷たくて重い感触が、再び手の中を支配してくる。
そしてオニキスは、震えるシトリンの耳元で、緩やかに囁いた。
「いいか? この石で頭を叩くんだ。角を上手く使うんだぞ」
「……いや」
「できるだけ残酷に殺すために、頭じゃなくて顔の方をすり潰せ」
「……いや」
「一回で無理なら何度でも叩いていいからな。きっとその方が邪神様も喜んでくれる」
「……いや」
「こいつらの眼球と脳味噌を盛大にブチ撒けろ。見分けがつかなくなるくらい顔面をすり潰すんだ。さあ殺れ今すぐにッ!」
「いやぁぁぁぁぁ――――!!!」
シトリンの悲痛な叫びが、洞窟の中に響き渡った。
もう、どうすることもできない。
逃げる場所なんてどこにもないのだ。
なんでも解決してくれた大好きな兄は、もうどこにもいないのだから。
ここに助けに来てくれることも、あの優しい笑顔を見せてくれることも、名前を呼んでくれることも、もう絶対にない。
それでも、願わずにはいられない。
(助けて、お兄ちゃん……)
届くはずのない涙声が、薄闇の奥底に消えていった。
「シトリンッ!!!」
刹那、洞窟に一人の少年の声が響き渡った。
名を呼ばれたシトリンは、驚いた様子でそちらを振り返る。
そして彼女は、信じがたい光景を前に、自分の目を疑ってしまった。
ドクッと心臓が高鳴る。止めどない感情が瞳から溢れ出る。
なぜならそこには、額に玉のような汗を滲ませ、激しく息を切らしている、“あの少年”がいたからだ。
まるで迷子を見つけたような、心から安心した表情でシトリンのことを見つめている。
(どうして……?)
どうして、そんな顔で自分を見ているのか。
どうして、自分の元へやってきてくれたのだろうか。
関係ないのに。約束もしてないのに。お兄ちゃんでもないのに。
その時、シトリンはふと、以前の自分の言葉を思い出した。
自分には、『迷子』という言葉は相応しくないと言った。
なぜなら『迷子』とは、帰る場所がある子に用いられる言葉だからである。
自分には帰る場所なんてない。だから『迷子』と言うのは間違っている。
そう、思っていたはずなのに……
「遅くなって、ごめんね」
「……」
自分は、迷子になれたのかもしれない。




