第七十話 「兄」
兄の名は、ライトと言った。
姓は“トリート”。シトリンと同じである。
それもそのはず。トリートという姓はライトからもらったものだからだ。
ライトいわく、“人間さんの真似事”らしい。
『人間さんには名前の他に、家族で繋がっている家名っていうのがあるんだって。すごく素敵だと思わないかい。何も言わなくても絆が繋がっているみたいでさ』
兄は人間が大好きだった。
好きだったあまり“人間さん”と呼んでいた。
人間さんが大好きで、人間さんに憧れて、人間さんみたいになりたいと事あるごとに口にしていた。
特に、人間特有の“絆”というものに、ライトは強く関心を示していた。
だから、同じエリアで生まれたシトリンのことを、幼い頃から妹のように可愛がっていたのも、人間さんの真似がしたかったかららしい。
そしてシトリンも、そんなライトのことを本当の兄のように慕っていた。
優しくしてもらったからというのもそうだが、自分と見た目が似ていたのも理由の一つとしてある。
金色の髪に控えめな角。眠そうに緩んだ瞳と細々とした体躯。魔族的な特徴が薄いところが、特に自分と似ている。
だからシトリンは、ライトのことを兄として認識し、“お兄ちゃん”と呼んでいた。
『どうしてお兄ちゃんは、そんなに人間さんのことが好きなの?』
『うーん、人間さんが好きっていうか、人間さん同士の絆が、僕は大好きなんだ』
魔人は本来、人間という存在を忌み嫌っている。
一説によると、“魔人”は“人間を恨む魂”が具現化したものではないかと言われている。
生前に人間を恨んでいた者が死に、その魂を邪神様がすくい取って、魔人に転生させているのではないかと古くから言い伝えられているのだ。
犬や猫といった動物の一部分を魔人が備えているのは、生前の姿が微かに投影されているからだともされている。
そしてその頃の記憶がぼんやりと、断片的に残っているため、人間を嫌っている魔人が多く存在するのだ。
だが、人間を敵視していない魔人も、中には少なからずいる。
生前の記憶がほとんど残っていないとか、転生後に人間に良くしてもらって心を改めたとか……
理由は様々だが、兄はそういう珍しい魔人の一人だった。
同様にシトリンも、生前の記憶がほとんど残っておらず、兄のライトの影響もあって、特に人間を敵視はしていなかった。
かといって別に好きでもないし、嫌いでもなかった。
『じゃあシトリンは、何が好きなの?』
『うーん……お兄ちゃん!』
そんな風に返して、兄を困らせたことがあったかもしれない。
たぶんそういう意味で聞いたのではなかったのだろうな。
なんて他愛のないやり取りばかりをしながら、シトリンはライトと一緒に黒曜山で暮らしていた。
静かで争いのない平和な毎日だった。
やはり黒曜山は半端に住みづらい分、他の者たちが寄ってこないという利点があったため、争いの嫌いな二人がこのエリアで生誕したのは僥倖だったと言える。
そこでの平穏な暮らしをどれくらい続けただろうか。
少なくともシトリンが生まれてから神器を授かるまでの十五年は、黒曜山で静かに過ごしていたと記憶している。
そういえば【微光の指輪】を授かった時、自分よりも兄の方が喜んでいたのがすごく印象的だった。
『シトリンも僕と同じ、指輪の神器なんだね。それに傷を癒せる力があるなんて、とても優しい神器だよ』
傷を治せる神器を授かることができて、自分も普通に嬉しかった。
何より、兄のライトが喜んでくれたことが一番嬉しかった。
兄にたくさん喜んでもらえるような神器を授かることができて、心の底からよかったと思った。
思えば、こんな会話もしたかもしれない。
『人間さんたちの間では、男女が恋仲になって正式に契りを結ぶ時に、お互いの左手薬指に指輪をつける風習があるんだって』
『それじゃあお兄ちゃんと一緒に左手薬指につければいいんだね!』
『ううん、違うよシトリン。僕たちは兄妹だから、左手の薬指につけるのはやめようねって言おうとしたんだよ。そうだな、シトリンは右手の人差し指にしようか』
『どうして?』
『人を差す指だからだよ。僕の神器はともかく、シトリンの神器には温かい光が灯るんだから、いつかその温かい光が、人間さんに向けて届きますようにっていう意味でさ』
だから自分は右手の人差し指に【微光の指輪】をつけている。
いつか兄の大好きな人間さんに、自分の癒しの光が届きますようにと。
ともあれこのようにして、自分は癒しの神器を邪神様から授かったのだった。
癒しの神器であり、優しい神器であり、誰も傷つけない神器。
……そう、あの時までは思っていた。
特になんでもない日のことだった。
いつも通り平穏な時間を過ごしていたある日、一人の傷ついた魔人が黒曜山にやってきた。
どうやら冒険者に追われて逃げ込んできたらしい。
傷だらけになって苦しそうにしていたので、シトリンが治療の手を貸した。
その時はほとんど何も考えずに魔人を助けて、兄にも『シトリンは優しいね』と褒めてもらったのを覚えている。
ただ一点、その魔人は礼の一つも言わずに、驚いた様子でどこかへ行ってしまったのだけが気掛かりだった。
そしてその気掛かりの種は、すぐに怪しい芽を出した。
黒曜山に、魔人の集団がやってきた。
『てめえが治癒能力を持ってる治癒師か? 俺んとこの魔人が世話になったな』
やってきた魔人集団は、『オニキス・レギオン』という名の徒党だった。
シトリンが治療した魔人が、その『オニキス・レギオン』の団員だったらしい。
そしてリーダーのオニキスは、そのとき治癒師を探している最中だった。
かつて冒険者に斬られて、右腕を失ってしまったとのこと。
両手がなければ神器の本領が発揮できないことから、長い間腕の治療に躍起になっているようだった。
基本的に魔人は治癒系の神器を授かることはなく、人間の中から探して治させるしかない。
しかしそもそも治癒師の数が少なく、そのうえ失った腕を元に戻せる位の使い手となると見つけるのは困難を極めた。
加えて片腕を失った状態で人間を拐うのは危険を伴う。
そんな折に現れた魔人の治癒師――シトリン。
オニキスが食いつくのは当然のことだった。
『俺んとこの魔人と同じように、この右腕も治してもらおうか。ついでにてめえには俺の徒党に入ってもらう』
魔王軍の再建を実現させるために、徒党の団員をかき集めている最中だという。
そのためオニキスはシトリンに徒党加入まで強制してきた。
さらに、言うことを聞かないと痛めつけるとまで言い出した。
初めて味わう絶望感は、これまでの温かな日々が嘘のように、とても冷たいものだった。
そうやって怯えるシトリンのことを、ライトは当然のように庇った。
『今のシトリンの力じゃ、腕を治すことまではできない。どうか諦めて帰ってほしい』
穏便に事を済ますために、ライトは相手を刺激しない声音で説得を試みた。
しかしオニキスは、ライトに微塵も興味が無さそうにあしらった。
『今は、だろ? なら話は簡単だ。そのガキが人間を殺して神器を成長させりゃ、腕を治すことだってできるようになるだろうが』
『シトリンがそれを望んでいないんだ。この子はとても優しい子で、人間さんを傷つけることなんて絶対にできない。させちゃダメなんだ』
オニキスはライトの言葉に、まったく耳を傾けなかった。
しまいには、無理矢理にでもシトリンを人間と戦わせるとまで言い始めた。
シトリンが殺されようがどうなろうが、心底どうでもいいという様子で。
このままでは、シトリンが酷い目に遭わされてしまう。
そう危惧したのか、ライトはシトリンを庇ってこう言った。
『逃げてシトリン! どこか遠くの場所まで!』
シトリンは混乱した。
逃げなきゃ酷い目に遭わされる。でも逃げたら一人きりになる。
この先、たった一人で生き延びることができるだろうか。
という不安はもちろんあったが、生まれた時からずっと一緒だったライトと離れ離れになることが、何よりも信じられないことだった。
これからもずっと一緒だと思っていたから、そうできないと悟った時、頭の中が真っ白になった。
そしてシトリンは、ライトに逃がしてもらうという形で、黒曜山を飛び出した。
逃げ切れたのは正直、奇跡だったと思う。
ライトが決死の覚悟で身代わりになってくれたからこそ、きっとオニキスの手から逃れることができたのだ。
シトリンはその後、人の町が近いエリアの方へと逃げ込んだ。
(お兄ちゃんを助けなきゃ!)
誰でもいい。兄のライトを救い出すために、誰かに助けを求めなければならないと思った。
そこで彼女が縋ったのが、人間の“冒険者”だった。
普段ならば、魔人として捕まりかねないので、なるべく近づかないようにしていたのだが。
あの『オニキス・レギオン』から兄を救い出せるのは、もう冒険者しかいないとシトリンは思った。
それにライトから幾度も“人間さん”の優しい話を聞いていたので、ちゃんと言葉を交わせばきっとわかってもらえると、シトリンは希望を抱いた。
だが、結果としてシトリンは、冒険者に追われる身となった。
何が良くなかったのかわからない。
兄が危険な状態だから助けてほしいと声を掛けただけなのに、一方的に神器を向けられてしまった。
魔人の徒党に追われ、冒険者にも命を狙われたシトリン。
彼女の居場所は、もうどこにも無くなってしまった。
何を信じて生きればいいのかも、わからなくなってしまった。
『私は、“この力”が嫌いだ』
そして、黒曜山から逃げ出した一月後。
オニキスが率いる『オニキス・レギオン』が、黒曜山を活動拠点にしたという噂を聞いた。
同時に、自分を庇ってくれた兄のライトが……
オニキスの手で殺害されたと知った。




