一、
遠い未来のだんなさまは――
太く、高くそびえ立つ木の幹に右の手のひらをピタリとあてる。
私の身長よりもいくらか高い位置にある枝に、くくられているのは紅く色づいたヤツデの葉。
その葉を眺めて、一息つく。
そして私は、天高くへと、手紙を一通投げるのだ。
◆
幼なじみの龍くんは意地悪だ。
今日も私の苦手なダンゴムシを見せながら、からかって追いかけてくる。
「小夜はなんで虫なんかが怖いんだよー?」
と、ぎゃははっと笑われるけど、怖くて何が悪いのか。
小さくて、足と言えるものが多い。
その足も細くて、うにゃうにゃ動いて気持ちが悪い。見るだけでゾクゾクとして寒気が走るダンゴムシ。できることなら見たくないのに、龍くんは、わざわざそれを見せつける。
帰ろうと学校を出ようとすると、龍くんはいつも門の前で待ち伏せている。にやっとした顔で、得意気に腕を組んで立っている。ダンゴムシを見つけられた日はいつもそう。冬でも、眠ろうとして土に潜っているダンゴムシでも掘り起こしてでも見つけてくるのだ。
その日も、龍くんは門の前に立っていて、それに気が付いた私は、走って逃げることにした。ダッと、全速力で龍くんの横を通り過ぎて、門を出る。一目散に駆け抜けて、曲がり角を二回曲がった。そして、いつもならまっすぐに進んで自分の家に帰るところを、反対の方向に走り、また曲がり角を曲がった。これで、龍くんは私がいる方向とは反対の方に行ってくれるんじゃないかって思ったから。
曲がった角から龍くんを盗み見る。
すると、走ってきたであろう龍くんは立ち止まり、キョロリとあたりを見回した。
そして、目が合った。
――やばいっ。
と、思った私は、すぐにそこから離れようとして走った。通ったこともない道をまっすぐに、ひたすら走った。
だんだんと、息がはぁはぁと切れてきて、太ももの表面が引きつったように痛くなった。そして突っ張ったように、ふくらはぎが動かなくなり、道に転がった小石につまずいた。
「痛っ……。」
かすったようにできた傷から、にじみでるのは細長い血。血が出た途端、ツキツキと痛みだした膝小僧を手でおさえる。そして、はっとして走ってきた方を見ると、遠くから龍くんが追いかけてくるのがわかった。
私はただダンゴムシを見たくないだけ。
だというのに、なんでそんなに追いかけてくるのかという理不尽な思い。それと転んでしまった情けなさから、目の前が薄っすらとぼやけ始める。
けれど、このままここにいたら龍くんに捕まってしまう。
そう思うと逃げないわけにはいかなかった。私は、スンと鼻をすすり、手首で自分の両眼を拭って立ち上がった。
立ち上がって走り、私が逃げ込んだのは山の中。住宅街の中にひっそりとある小さな山。ここを通り抜ければ学校の方向へ逆戻り。だけど、小さいながらも木は生い茂っているから、隠れるには持ってこいだと、そう思って逃げ込んだ。
なるべく木が密集しているところ。隠れることができる場所を探して、ガサガサと小さな山の中を動き回った。
ガサガサと風で葉っぱが揺れる音と、自分が小枝を踏み、折る音。
それだけだったはずの空間に、風のせいではない、急いたような木々の揺れる音が響きだす。
――龍くんが来た。
そう思っても、走り疲れた私の足は、棒の様に硬くなっていた。膝を曲げることも諦めたらしい私の足の関節は、少し動かしただけできしむような音を立てていた。関節をきしませながら、その場にゆっくりしゃがみ込む。
もう見てやろうか、ダンゴムシぐらい。
私がゾワゾワとする恐怖心を我慢すればいいだけだ。
そう敗北を認め、おとなしく龍くんに従おうと私は諦めた。
「……っ、小夜っ!」
と、叫ぶような龍くんの声に、ガサガサと響く木を分ける音。
「こ……。」
ここだよ、と、龍くんに居場所を知らせようとしたそのとき、バサッと開いた、黒く大きな羽根が、私の視界を遮った。
そしてそのすぐ後で、誰かに口をふさがれた。
「ちょっとだけ、付き合ってくんね?」
真っ黒に染まった視界。
それと、口をふさがれたことに驚いた私の耳に届いたのは、低音が響く男の人の声だった。