第9話 君色に染まる
夏休み明け直ぐの土曜日、潤は帝東藝術大学を訪れていた。目的は昨年同様、帝藝祭だ。
相変わらず、凄い人だな……
音楽学部は割と少人数精鋭って感じだけど、定期的にコンサートを演ってるくらいだ。
ファンというか……そういう関係者もいるんだろうな……
「潤、行くぞー」
「あぁー」
足が止まっていたのだろう。拓真に呼ばれ、再び歩み始めるのだった。
ーーーーーーーー上手い…………
さっきの椿姫も凄かったけど、このアンサンブルの人達……去年も弾いてたよな?
一人、多い気がするけど……
俺だけじゃなくて、会場から一際大きな拍手がしてるし……
「潤、今の……彼らだよ」
「!! ……マジ?」
「あぁー、マジ」
彼等って事は、water(s)!!
この距離じゃ誰が誰かは分かんないけど、keiとakiとhiroに、miyaって事か…………
拓真から帝藝大の生徒だって聞いてたけど、本当にいるんだな。
身近というか、こんな所にいるなんて思わないし。
何よりバンドの楽器じゃないから、目に焼きついていた筈なのに分からなかった。
演奏を終えた彼等は、綺麗に一礼して応えた。
あっ……この感じ……ライブの時みたいだ。
一際大きな歓声も、嬉しそうに微笑む四人の姿も。
ヴァイオリンとチェロに、サックスにピアノか……ピアノがmiyaだよな?
凄いな…………普段はギターにベース、ドラムって事だろ?
あれだけ弾けたら、楽しいだろうな。
あんな音色が出せたら……
四人の音に染まった会場で、耳に残る音色を反芻させていた。
「凄かったなー!」
「あぁー……そのうち顔出しするのかな……」
「だよなー。そしたら、もっと人気が出そうだろ?」
自分の事のように嬉しそうに話す拓真に頷く。
「ーーーー楽しみだな……」
メディアに出るようになったら、更に人気が出る筈だし、ファンも今まで以上に増えるだろうな。
二人は会場を出て、大学境内の出店を見て回っていた。
全て解放してる訳じゃないけど、本当に広い境内だ。
サークルって所が大学生っぽい。
「潤、講堂でも演奏してるみたいだぞ?」
「行く」
即答する彼に今度は拓真が笑って応えていると、人混みの中、彼と同じ制服姿の少女が通り過ぎていく。
「あっ、潤!」
「ん? どうした?」
「さっき通ったのがhanaだよ」
「えっ?!」
振り返るが、彼女の姿はないようだ。学園祭を楽しむ人々が行き交っている。
「ーーーー見逃した……」
「……だな。急いでたっぽいから、俺も声掛けそびれたなー」
何でもっと周囲に気を配ってないんだよ! 俺!!
口では小さく凹んでいた潤だが、その胸中は大きく落胆していた。
「まぁー、そのうち会えるだろ?」
「あぁー……」
ーーーーーーーーそう……会える筈だ。
俺が大学に合格すればな……
「樋口くん、練習しっかりして来てるわね。この調子でね」
「はい」
受験が終われば、ピアノの個人レッスンは辞める事になるけど、先生って凄いよな……練習してないと、速攻でバレるし。
毎週、同じところで引っかかる俺も、俺だけど……
この一年程は、ピアノの練習をサボる事なく続けている為、レッスンの進みもスムーズだ。彼と知り合ってからの潤は、目標が定まった為か、練習を怠る事なく続けている。
ピアノのレッスンって、よくしてあるよな。
最初に指を慣らす教本をやってから、課題の曲を弾くなんて……
いつものようにレッスンを終えると、潤は自宅に帰り、英単語の暗記に勤しんでいった。
あーー、ギター弾きたいな……
集中力が途切れたのだろう。ギターを横目に伸びをした。
……拓真も勉強してるんだろうな。
放課後とか休みの度に練習してたのが、何だか夢みたいだ。
今年の帝藝祭は、miya達の音が聴けたし。
hanaには会えなかったけど……話しかけてみたかった…………どんな事を想って、いつも歌ってるのか?
どんな風に曲を作っているのか?
ーーーーどんな景色を……
部屋を出ると、和室にある電子ピアノに指を滑らせた。
そういえば、もうすぐ拓真の所の文化祭だっけ……またwater(s)が出演したりするのかな?
だとしたら……羨ましいよな。
生で聴きたい。
CDで何度もリピートして聴いてるけど、彼等の息遣いを感じる度、その音が実在するって実感するから…………加工してない澄んだ声か……
「お兄ちゃん! “流れ星“、弾いてー!」
「ん? いいぞ」
妹のリクエストに応え、譜面を見ずに弾く潤は、楽しそうに口ずさんでいた。
帝東藝術大学の講堂では、拓真たち音楽高等学校の文化祭が行われている。そこには、どうしても昨年のように彼等の出演を期待してしまう拓真がいた。
「そういえば、上原いなくない?」
「だよなー。石沢、知ってる?」
「うん。奏、ラストだって」
「マジ?」
「楽しみだよねー」
クラスメイトは話しているが小声である。壇上ではアンサンブルが披露されていた。
「ーーーー何か緊張してくるよね……」
「分かる。奏が歌うんだって思うと……」
本来はシークレット的なライブの為、口外禁止だろうが、彼女は親しい友人にだけ伝えていたようだ。
「……楽しみだな」
「酒井なら、そう言うと思った」
「ファンだもんな?」
「佐藤、はっきり言うなよー」
小さな言い合いをしていると、壇上の配置が慌ただしく動いていく。ほとんどの者が最後の出演者を知らない中、彼等にはwater(s)が出る事が分かっていた。
スポットライトが壇上を照らすと、そこにはクラスメイトがいた。白い総レースのトップスに、ショートパンツ、足元はハイカットのスニーカーを履いた彼女。比較的ラフな格好のステージ衣装に身を包んだ五人が、視線を合わせ奏で始めた。
心地良いリズミカルな音色に、会場は一瞬で魅せられていく。拓真はそれを肌で感じていた。
二、三年生の反応が良いのは、去年の文化祭の期待が残っていたからだろう。一年生のほとんどの者は、water(s)が在校生だと噂程度にしか知らなかった為か、涙を流す者もいた。
「やば……凄い…歓声だな……」
「本当だね」 「……うん」
「ーーーー凄いな……」
他に……言葉が出ない…………数時間前まで一緒にいた上原じゃなくて、アーティスト……hanaが立ってるんだ……
拓真はただ、壇上から去っていく姿を眺めていた。
「ってか、拓真も叫んでんじゃん!」
「そこは、アンコールに応えて欲しいだろ?」
彼の周囲、すなわち彼女のクラスメイトも例外なく総立ちして、アンコールに期待を寄せていた。全校生徒百二十名全員が、彼等の音楽を待っていたといっても過言ではないだろう。
五人が壇上に再び姿を現すと、一際大きな歓声が鳴った。
「凄い歓声をありがとうございます! えーーっ、では……みなさんも一緒に歌って下さい! "終わりなき空へ"!」
miyaの声を合図に四人が手拍子をする中、彼女が思い切り声を出した。その手に、マイクは握られていない。
アカペラの直後、会場は静寂に変わっていた。彼女の歌に合わせるように、生徒達も歌い出す。拓真も歌う観客の一人だ。会場が彼女の声に染まっていた。
舞台袖にはけていく横顔は、幸せそうな笑みを浮かべている。意表を突かれたのだろう。会場は温かな拍手に包まれていた。
「もしもし?」
『潤! やばかった!! 明日、会えるか?!』
「あ、あぁー」
拓真の勢いのある声に押され気味になりながらも、彼には分かっていた。
こうなる時は大抵……音楽関係で、最近だとwater(s)の話題だからな。
もしかしたら、文化祭にまた出演したとか?
だとしたら、本当に羨ましいよな。
あの歌を生で聴けるなんて……
机の上には参考書やノートが広げてある。潤は受験勉強中であった。
ーーーー俺も……聴きたかったな。
まだ、そうと決まった訳じゃないけど……
「お兄ちゃーん、お風呂どうぞー」
「はーい。今、行く」
母の声に応え、階段を下りていくのであった。
電話の感じだとテンション高かったんだよな。
いつものカラオケ店の一室に揃っていた。ドリンクが運ばれてくると、拓真が昨日と同じようにテンションの高いまま、携帯電話を差し出した。
「ん? 動画?」
「まぁー、見てみ!」
潤が画面を見ると、彼等が映っていた。
「えっ! これ……」
「今年は一時間ちょっとあったから、見るだろ?」
「……ん」
彼は画面に視線を移したまま、小さく頷く。
ーーーーーーーー凄い……本物だ……本当に、また演奏したんだ……
ある程度予想はしていても、動画は予想外の事だったのだろう。最初は驚いていた潤も、小さな画面から流れる曲に集中していた。
凄い歓声……スタンディングしてるし……これって、大学にあった講堂だろ?
…………帝藝祭とは、違う光景だな。
鳴り止まない歓声に、東京ドームさながらの熱狂に近いものを感じていると、憧れた彼等が再び姿を現した。
ーーーーやば……miya、かっこいい……ってか、全員かっこいいんだよな。
「ーーーーえっ?」
思わず声を漏らし、アカペラで歌う彼女に視線が釘づけである。
ーーーーなんて声で歌うんだ……ってか、アカペラって…………観客も歌ってるっていうか、口ずさんでるのか。
やばい……泣きそうだ…………会場が、彼女の音色に染まってるのが分かる。
「凄いだろ?」
「……あぁー……動画、撮ってたのか?」
「これは上原に頼んだんだよ。口外禁止って事で、スタッフさんが撮ってたのを貰ったんだ」
「ありがとな……」
「いーえ」
きっと……心が震えるって、こういう時に使う言葉だと思う。
何気なくアカペラで歌ってるけど、あの歓声の中、狂う事なく歌える奴、そうはいないだろ?
イヤモニつけてなかったし……やばい…………もう、逸らす事は出来ないな……
俺は、water(s)の音に惹かれてるだけじゃない。
彼女の、hanaの音が…………好きなんだ。
馬鹿げてるって自分でも思うけど、止める事なんて出来ない。
これ以上、偽れないくらいに……hanaが好きなんだ。
一方通行な想いなのは、はじめから分かってる。
それでも、いいんだ……
想いが錯綜していた瞳は、涙で滲んでいる。
「……もう一回、見ていいか?」
「勿論! 俺も見るし! んで、歌うだろ?」
「……あぁー、そうだな!」
ーーーー歌うか……一瞬、忘れてたな。
それくらい、water(s)の演奏に心が奪われてたって事だ。
そう……miyaに、hanaに、ずっと前から惹かれていたんだ。
無駄だとか……分かってるけど、そんなんじゃなくて…………ただ……好きなんだ……
water(s)一色に染まった会場には、鳴り止まない歓声が響いている。一瞬で訪れる静寂と分かっていながら、彼の瞳はまた潤んでいるのだった。
椿姫/パリ社交界に咲いた真実の愛。屈指の人気を誇る名作オペラです。