第83話 勇敢な君に
携帯電話をテーブルに置くと、拓真と入れ替わりでブースに入った。二人はレコーディングの真っ最中だ。
「よろしくお願いします」
ヘッドホンを装着しながら告げると、録音が始まった。耳に届くメロディーに乗せて、声を出していく。
あぁー……まただ……また、鳴ってるんだ。
アレンジも納得する仕上がりで、だからレコーディングをしてるんだけど……ギターと違って、歌は相変わらずだ。
相変わらず、何テイクも繰り返していた。彼にとって、歌う度に何処かすり減っていく感覚があった。
「JUN、少し休憩にしようか?」
「ーーーーはい……」
……何回繰り返してもダメな時は、一度離れてみるしかない。
本当にダメな時は、音楽から離れてみる……って思っても、そんなの一日ももたないけど……
「はぁーーーー……」
大きな溜息が漏れた。上手くいかなければ、溜息もいつも以上に大きくなる。潤は大きく伸びをして、気持ちを切り替えるようにギターを弾き始めた。
理想と現実の差はだいぶ埋まったけど、全てがいつも上手くいく訳じゃない。
自分の曲なのに、知らない曲みたいだ……。
その時の感情が反映されるから、今のテンションと合わないみたいで……そんな事、言ってる場合じゃないんだけど……これは俺の……俺達の曲なんだから。
ギターを弾く彼に話しかける者はいないが、二つの音色が重なっていた。拓真が同じようにギターを弾き始めたからだ。家にいる時のようにリラックスした状態で弾く潤は、先程までとは違い何処か楽しげだった。
再びブースに入った潤の声は伸びやかに出ていた。先程までとは違い、その表情は晴れやかさが垣間見える。
ーーーーやっとだ……やっと、理想の声が出た。
周囲が納得していても、本人が納得しなければリテイクは繰り返される。ようやく彼の出したかった声色になったようだ。
「ーーーーらしいな……」
彼が歌う姿に、拓真はそう漏らしていた。実に真面目な彼らしいリテイクだったからだ。
「次は拓真の番だな?」
「はい、負けられないですからねー」
態と戯けたように告げた彼の言葉は本心だった。二人はデュオで活動する音楽仲間だが、学生の頃から変わらないライバルでもあるからだ。
誰もが納得の出来に、拓真がピースサインをすると、少し照れ臭そうにしながらもピースサインを返していた。
拓真は相変わらず上手いよな……。
自分と比べて凹む事は減ったけど、レコーディングとかステージ度胸みたいなのは、まだ……まだだ。
何でもそつなくこなす彼に、潤のライバル心も今だ健在のようだ。
ブースで歌う彼に、潤の頭の中にはまたメロディーが鳴っているのだった。
「……上手いだけじゃないんだよな…」
「ん? 潤は、また動画見てるのか?」
「あぁー、同じピアノ専攻だったのに……俺には弾けないや……」
「あれな。ニューヨークの菅原って、フォトグラファーの展示会のやつか……。俺にも無理だなー」
遅く起きてきた拓真が伸びをしながら、ノートパソコンの前に並んだ。彼女がピアノを弾く動画を見つめていた潤は、すっかりと身支度が整っている。
「何度聴いても、凄いんだよな……」
「ピアノは勿論だけど……声がなー……」
「あぁー、hanaじゃなきゃ無理だな」
潤の言葉に、拓真も納得なのだろう。頷いて応えると、意識を現実へ戻した。
「俺達も、頑張りますか!」
「あぁー、次は一発でいけると良いな……」
「だよなー」
二人はレコーディングの真っ只中だ。
この間よりは、リテイクしないで挑みたい。
本番は一回きりの勝負なのに……このままじゃダメなんだ。
ワンテイク……と、までは言わないけどさ。
それくらいの心意気で挑まなきゃ、誰の心にも残らない。
それくらいは分かってるんだ。
繰り返した所で、俺の場合は悪化する事の方が多いし、何なら別日に録り直した方が良かったりする。
ライブの始まりのようにハイタッチを交わすと、それぞれブースへ入っていた。
今日はライブ感重視って事で、別々のブースだけど一緒に録れる。
ナリさんやツジさん達もいるし、それだけでテンション上がるな。
初めてのスタジオだからっていうのもあるけど、それだけで鳴る。
一人でブースに放り込まれるのは、相変わらずだったけど……こういう、皆で作ってるのを直に感じると、負けられないよな……
「皆、いいかい?」
コントロールルームから指示を出す岸本に、彼等が頷いて応えると、音が重なっていく。
あぁー……やっぱ、ライブ演りたいよな……。
この間とは違って、頭の片隅でそんな事を考える余裕があるくらい、音がしっかり聴こえた。
拓真とのギターの掛け合いは、やっぱ楽しいし。
いつものメンバーの音色が響いて、ずっと……弾いていられたらって……何度だって思うんだ。
潤の予想に反し、ワンテイクで録音が終わった。重なった音色は理想通り、ライブ感のある仕上がりになっていた。
グラスを寄せ合う音が響くが、ノンアルコールで乾杯だ。まだレコーディングが続くからだ。
「はぁーーーー……今日のは楽しかったなーー」
「あぁー、レコーディングの仕方であんなに変わるんだな」
「だよなー、ライブ感っていうの? ちゃんと出てたよなー」
「そうだな。初めてだったけど……また演りたいな」
「俺もー」
買ってきた惣菜に、揚げたての唐揚げを食べながらノンアルコールビールを飲み干していく。
「色々試せるのは、嬉しいけどさーー」
「ん? 何だよ?」
「やっぱ、ライブがいいなーって話」
「あぁー、確かに。分かりやすくテイク数に差が出たし……」
「それは気にしないって。だって、一番良い音で届けたいだろ? 妥協してたら終わるし」
「あぁー、分かってる」
妥協なんてしてたら、見向きもされなくなる。
いつだって、今の最高の状態でないとダメなんだ。
音が沈んで、騒音と変わらなくなる。
そう、上原みたく……いつだって続けていかないと、消えてなくなるんだ。
今朝も見た動画がまた流れていた。学生の頃から変わらないけれど、変わっていく彼女の音色に勇気を貰っていたのだ。
「ーーーーやっぱ……凄いな……」
「だよなー、こんなの上原にしか無理だろ?」
「あぁー……」
ーーーープロになった。
CDをリリースして、音楽だけで食べていけるようになった。
だけど……いつも俺の遥か頭上にいるんだ。
埋まらない距離を嘆いたりはしないさ……そんなの始めから分かっていた事だ。
ただリスペクトしすぎて、似たような音色にならないようにするだけ。
初めて歌った時の気持ちを忘れないように、声を出すだけだ。
彼女の歌声に、当時を想い返していた。
葛藤だらけの日々が報われた今、また伝えたい歌があるんだ。
当時の俺は、まだ十六で……何も分かっていなかった。
プロになるって……こういう事だって、今なら伝えられるのにな……。
パソコンから響く音色は、変わらずに澄んでいるのだろう。彼等の心にしっとりと響いていく。
四六時中、音楽を演っていられる。
そんな場所に……今の俺はいるんだ。
レコーディングが進むにつれ、テイク数は減っていった。中にはこの間のように、一発録りしたものもあった。今の彼は、苦手なMVの撮影中だ。
あーーーー……やっぱ照明の明るさとか、この独特の雰囲気は慣れない。
最近、こんなのばかりだ。
ライブは好きだけど……何ていうか……難しいよな。
歌でなら表現出来るのに……
「ーーーー次、個別で撮るから」
「はい」
鳴らないギターも、音の出ないマイクも、他人の映像には、心の底から尊敬する。
今は顔出ししてない奴なんて大勢いるし、ネット環境さえあれば誰だって音楽が作れるし、楽しめるんだ。
そんな中で敢えて発売するCDだったりするから、気合いは入ってるんだけど……
流れる自分達の楽曲に気分は上がっているが、久しぶりの撮影に気恥ずかしさが混ざってしまうようだ。
……こんな時、あの音を想い浮かべる。
自分達の曲じゃないのは、あれかもだけど……そんなの気にしてる場合じゃない。
ベストを尽くすには、これしかないんだ。
新曲も好きだし、英詞だけの曲も好きだけど、やっぱ俺達の名にちなんだ曲だ。
顔出ししてないのに、鮮烈なデビューが印象に残ってる。
もう十年以上前の事なのに、今も残る名曲だ。
そう……water(s)の曲が鳴ってるんだ。
いつだって上原の……hanaの声に励まされてた。
そう何度も……心を奪われる感覚に落ちたって、嫌じゃない。
ずっと聴いていたくなって、離れられない。
気持ちを持ち直したのだろう。その後の撮影はスムーズに進んでいた。
彼の想い描いた声が出ているのだと、拓真には分かった。微かに頬が緩んだような彼に気づいたからだ。
ーーーー上原の歌に救われていたんだ。
迷ってる俺の道標みたいな存在は、ずっと変わらない。
「ーーーーはい、OKです」
「……ありがとうございました」
また……音が鳴ってた。
こんな時にも音が生まれる。
数日前の上手くいかなかった日々とは違って、希望に満ちたようなメロディーが浮かんだ。
潤は彼女の歌声を想い返しながら、残りのレコーディングに挑んでいた。




