第46話 在り続けるから
「樋口、行けるか?」
「はい! 出来てます!」
チェック済みの書類を持って、石川と共に取引先へ向かう所だ。
「車の運転もだいぶ慣れたな」
「はい、石川さんに鍛えられましたから」
にこやかに応える潤に、石川も微笑む。
石川さんに指導して貰ったおかげで、上手くなったとは思う。
今までの不器用さが、少し緩和された感じだ。
大学一年の時に取って以来、まともに乗った事のない車も、運転させて貰えたおかげで、人並みに運転出来るようになったし。
パソコン業務も、人との距離の取り方も……多くの事をこの一年で学んできた。
これからの音楽活動にも必要だと思う。
音楽をやっていく上で、必要じゃないモノなんてない。
俺の積んできた経験こそが、全て今に繋がってるって思うから…………曲を作る度に、言葉を知らない自分に凹むし、綺麗な言葉を並べただけの歌詞が、届かないのは分かってる。
切り替えるように冷たい空気を吸い込んで、高層ビルへ石川と共に消えていった。
再びビルから出てきた二人は、駐車場に着くなり顔がにやける。取引は上手くいったようだ。
「ーーーー石川さん、ありがとうございました」
「よくやったな。ここまでプレゼンが出来るなんてなー」
「石川さんのおかけですよ」
「本当、人たらしだよなー」
「えっ?」
「いや……CD出たら買ってやるから、頑張れよ……JUN」
「はい!」
態と呼んでくれた名前に鳴った。
思えば社内の人に、はっきりと口にしたのは、石川さんが初めてだったんだ。
「ーーーー本当、良い顔するようになったな」
自分では分からないけど……石川さんが言うなら、そうなんだろうな。
確かに……辞めるって決めてからの方が、スッキリしてる気がする。
最後だと思えば多少の無理もしたくなるし、睡眠時間を削ってでも教えて貰った時間を無駄にしないように、最善を尽くしたいから。
ーーーーこういう所は、音楽と似てるよな。
いつだって、最善にしたい。
どんな時でも、最高の演奏を出来るようにする。
それは俺の……俺達の目標でもあるから……
「……石川さん、昼寄ってから戻りませんか?」
「良いじゃん。久々に行くか?」
「はい!」
石川に感謝しながら、車を上機嫌で走らせていた。
スーツ姿のまま、レッスンスタジオに向かう。
今日は、拓真とは別の個人レッスンだ。
先生は同じ人だけど、生徒によって教え方は違うらしい。
声質にも、先生曰く何個かパターンがあるらしくて、俺と拓真では違うレッスン内容だけど、その効果は絶大だった。
声は格段に出しやすくなった。
自分の理想としていた声に、徐々に近づいてるのは確かだ。
音程がとりやすいし……今なら、ずっと歌えるんじゃないかってくらい、声が出る。
テンションが上がっていると、釘を刺された。
「ーーーー近いうちにレコーディングがあるから、歌い過ぎないようにね?」
「はい……」
どうやらバレバレらしい。
顔には、そんなに出ない方だと思うんだけど……嬉しい気持ちは、溢れてたみたいだ。
「明後日は、また二人揃っての練習だからね」
「はい!」
今日は金曜日だけど、今のところ社会人らしい花金は皆無だ。
そんなのに参加するなら他にお金を使いたいし、そんな時間があるなら音楽に費やしたい。
入社したての頃は、誘われる事も多かったけど、最近は滅多にない。
大きな飲み会に参加するくらいで、個別の誘いは無くなった。
参加する気がないから、いいんだけど……もうすぐ退社する俺の為に、飲み会が開かれる。
流石に不参加には出来ないから参加するしかないけど、考えさせられるよな…………この一年、両立してきた日々が不思議だ。
週末にライブをして……また月曜日になれば、スーツに着替えて業務をこなす。
覚える事が多くて、パンクしそうになりながらも、この一年何とかやってこれたのは、同僚のおかげだ。
石川さんだけじゃなくて、営業部の仲間に助けられていたんだ。
潤はイヤホンを付けると、彼等の曲が流れていた。
ーーーー変わらずに在り続けるって、凄い事だよな。
俺には想像もつかない。
いつか……枯渇してしまうんじゃないかって、疑ってしまいそうだ。
water(s)が枯渇する事は無いだろうけど……マイナス思考よりになるのは、不安定だからだ。
楽しさよりも……いつの間にか、一歩踏み出すのが遠くなってた。
踏み出さなければ何も変わらないって、自分に言い聞かせて……上原の歌声に救われてた。
夢に向かっていく応援歌のような曲に鳴ってて、諦めたくないと強く思ったんだ。
「ーーーーいい音だな……」
潤の漏らした言葉は、喧騒の中へ消えていった。
「樋口、それで終わりか?」
「はい、メールを送れば終わります」
「今日は送別会なんだから、定時で上がるぞ?」
「はい……」
正月明けに辞めるって決めてからの二ヶ月は、あっという間だった。
引越し先も決まったし、会社も今日で退社だ。
私物のあったデスクは既に持ち帰っていた為、空っぽになっている。
「樋口ー!」
「石沢、お疲れ」
「お疲れさまー。今日の飲み会、同期も結構参加するって」
「あぁー、また後でな」
「うん」
石沢が書類を持って戻る背中を見送って、俺の此処での仕事は終わった。
「お先に失礼します」
「あぁー、また後でなー」
「はい」
思えば……今日は一日、いろんな奴に話しかけられた気がする。
石沢みたいに同期もだけど、世話になった先輩とか……今日で、最後なんだよな…………なんか実感が湧かないや。
拓真も今頃、送別会だろうな。
「樋口、お疲れさま」
エレベーターを降りると、呼び止められていた。
「お疲れ……大野も参加?」
「うん、本社勤務の同期は参加者が殆どみたいだよ」
「そっか……じゃあ、一緒に行くか?」
「うん……」
嬉しそうに微笑む大野に、潤は気づかない振りをした。そのまま、ただの同期のまま終わる筈が、彼女によって阻まれた。
「……私、樋口の事……好きだったよ」
「ーーーーありがとう?」
「疑問形?」
「いや、だって……」
「樋口……振って貰ってもいい?」
やけに大野の声が、響いて聞こえた。
「ーーーーーちゃんと終わりにしたいから……」
「あぁー……俺……好きな奴がいるから……」
「うん……ありがとう……」
ーーーーーーーーこんな事、初めてだ。
振って欲しいと言われたのは。
潤が呆気に取られていると、彼女は同期として接していた。
「……樋口、CDの発売日が決まったら教えてね?」
「あぁー……石沢から聞いたのか?」
「うん! 綾子、嬉しそうに話してたよ」
「あーー、学生の頃から知ってるからな」
「いいなー、今度はSNSもチェックするから、ファンとして」
「ありがとな……」
柔らかく微笑んだ大野が急に大人びて見えた。
俺はいつだって、自分の事で手一杯だ。
「あっ、ここだよね」
店の前まで来ると、先に店内に入ろうとする彼女に告げた。
「ーーーー大野、ありがとな……」
「……うん」
今度は、ちゃんと伝えられたと思う。
振り返った大野は、いつものように笑っていた。
ーーーーーーーー今……ギターがあったら、弾いてた。
ピアノだっていい、音に出来そうで……
「樋口ー、大野ー、お疲れーー」
「お疲れ」 「お疲れさま」
同期の奴に呼ばれて、数名が集まった輪の中へ入った。
拓真のおかげで、だいぶマシになったと思ってたけど……まだ、全然だ。
ちゃんと気持ちを伝えてくれる相手に対して、誠意をもって接したい……なんて思ったりもするけど、あの曲みたいに上手くはいかない。
思い通りにいかない事なんて山程ある。
でも、それも…………今の俺なんだ。
四度目になるビールで乾杯をしてたら、いつの間にか石沢が目の前に座ってた。
「樋口ー、専攻仲間からもラインきてるよー」
「ーーーー本当だ……」
音なしにしてたから気づかなかったけど、グループラインには俺と拓真宛のメッセージばっかだ。
『一年間、お疲れー!』
『頑張れよー!!』
『CD出たら買うからね!』
『お疲れさまー』
つい頬が緩む。
エンドレのライブに来てくれた仲間は、一生の音楽仲間だって思ったりして…………
一際鳴っていたのは、彼女の文面だ。
『おめでとう!! エンドレと会えるの楽しみにしてるね!』
欲しい言葉をくれる奴って……いるよな…………ミヤ先輩とダブった。
上原は……俺達が同じ場所へ行けるって、思ってくれているんだって、自惚れてもいいんだろうか…………
社交辞令で言うタイプじゃないのは分かってる。
それくらいに親しくはなった。
『ありがとう』
短い一言には、言い表せない感謝が含まれていた。
俺が……俺自身を疑ってる時だってあったのに、みんなだけは違った。
最後まで信じてくれてた。
叶う筈のない夢って……馬鹿にする事なく、応援し続けてくれていたんだ。
頬が緩むと同時に、泣きそうになっていた。
「これからだね!」
「あぁー」
差し出されたグラスに、飲みかけのグラスを寄せ合った。何度目になるか分からない乾杯のかけ声に紛れながら、ようやく実感していた。
ずっと願い続けた夢が、あと少しで叶うんだ。
石沢の笑った顔に、学生時代を想い出していた。
変わらない彼女の存在に、いつだって救われていたんだって。
『待ってるよ』
個別に送られてきたラインに驚いた。
ーーーーーーーーこれは……miyaだろ…………
あの時と同じ言葉を送ってくれた上原に返信するよりも、先に返ってきた。
『↑miya &water(s)一同より』
「……ずるいだろ」
思わず漏らした言葉に、文面は見えなくても石沢には伝わっていたみたいだ。
「……奏とミヤ先輩から?」
「あぁー……頑張らなきゃな……」
いつまでも存在し続けられるように、これからやっていかなくちゃいけない。
それは、俺が夢見ていた場所だ。
終電に揺られて帰る中、潤は携帯電話にメモを残した。今日の一日で、生まれた音があったからだろう。
イヤホンから変わらずに聴こえる彼女の音に、期待していた。
いつか……同じ場所に立てる日を。




