第10話 瞬く間に
好きだって自覚したからって、何かが急に変わるわけじゃない。
むしろ、彼女との距離感を……改めて知ったって感じだ。
電子ピアノで練習している曲は、先日発表されたばかりの課題曲だ。
同じ曲をどのくらいの奴が弾くんだろうな。
耳に残るような音色も、正確に弾く技術力も、どっちか片方だけじゃダメなのは、分かってる。
いくら練習しても、これ以上……上手くなる気がしないな……
思わず溜息が漏れそうになっていると、リビングから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「あっ! お兄ちゃん!」
「water(s)の曲だよーー!」
弟達の声でリビングに顔を出すと、彼等の曲が流れるCMが映っている。
一瞬で虜になるな……難しいメロディーラインを、そう感じさせない声で歌ってるし。
傑と夢が、好きになるくらい、直ぐに覚えられるくらい耳馴染みの良い曲か…………自分を比較にすら出来ない。
そう……分かってるのに、何とも言えない感情が時折押し寄せてくるんだ。
「お兄ちゃん、年越し蕎麦するからね」
「ん、手伝う」
「ありがとう。ピアノ、上手くなったね」
「……母さん、分かるの?」
「これでも、音大出だからね。サボってないのがよく分かるよ」
「あーー……」
確かに……課題曲が分かってからは、毎日のように電子ピアノで練習してるしな。
キッチンでは、揚げたての天ぷらを蕎麦の入った器に乗せる。今日は大晦日だ。テレビはまもなく紅白歌合戦が始まる時間である。
年越し蕎麦か……今年もあと少しで終わるなんて、早いな…………
今年、耳にした事のある曲がテレビから流れる。ダイニングテーブルには家族五人が揃っていた。
ーーーー聴きたいな…………メディアに出演したら、良いのにな。
そしたら、音楽番組を独占しそうな勢いだろうけど……俺も含め、リスナーはそれを待ってる気がする。
CMの数秒の曲でさえ魅せられるんだから、一曲歌ったら、その引力は桁が違うだろうし。
夕飯に、お風呂と、いつもの習慣が終わると、自室に戻り筆記の勉強を始めた。これも最近の習慣の一つである。
携帯電話には、クラスメイトや友人から『あけましておめでとう』のメッセージが届いている。年が明けたばかりだ。
「初詣か……」
メッセージを律儀に返すと、数時間後に合格祈願を兼ねて初詣に行く事になった。
「潤!」
大きく手を振る相方に笑みが溢れる。
「拓真、あけましておめでとう!」
「おめでとう! やっぱ、人多いなー」
「あぁー」
元旦に初詣に来ている為、参拝までに長蛇の列が出来ていた。
「今月に出願で、来月下旬から試験か……」
「早いよな。拓真も試験か……」
「あぁー、実技によって学科が決まるからな。俺等の目指してる器楽科が、一番人数多いけどなー」
「そうだな。でも、そこから専攻に分かれるだろ?」
「そうそう。とりあえずクラスメイトは仲間だけど、ライバルだなー」
「そっか……」
全員同じ帝藝大を目指すなら、ライバルにもなるよな。
俺には分からない感覚だけど、競争率が激しそうだ。
「まぁー、でも試験は、ちょっといつもの延長線上って所があるからなー」
「延長線上?」
「そう。試験でも、先生とマンツーマンとかよくあるし。その点は有利だって思ってるけど、中々なー」
試験か…………三月には、進学出来るかどうかが決まるんだよな。
あと少しで……高校卒業か……
時が経つのを早いと感じながら、両手を合わせ、願っていた。揃って『大学生になります』と。
「受験が終わったら、また演るだろ?」
「あぁー」
大学生になる近い未来を夢みていた。
試験の課題曲が発表となってから、ピアノ教室でも練習させて貰ってるから、助かってるよな。
電子ピアノとピアノじゃ弾いた時の感覚が、全然違うし。
「樋口くんは、来月の下旬が試験日だったかしらね?」
「はい」
「この調子でね。また来週ね」
「はい、ありがとうございます」
一礼して教室を出ると、入れ違いで次の生徒が部屋に入っていく。
ーーーーーーーー歌いたいな……拓真と思いっきり奏でたい。
あと二ヶ月か……頑張らないとな。
入れ違いで教室に入っていった子も同年代だから、ある意味ではライバルになるんだろうな……
ピアノの発表会なら参加した事あるけど、コンクールとかに参加すれば良かったって、今更ながら思う。
そしたら、少しは度胸もついて、試験の緊張も少しは半減するんじゃないかって…………
今更だけど、もっと広い視野で見れば良かったな。
嘆いたって仕方ないから、本当に今更だ。
拓真はコンクール出た事あるけど、自分とのレベルの差を感じたって言ってたっけ…………それでも、時々思う。
今、どの辺を歩いているのか?
本当に合格出来るのか?
不安を上げたらきりがないけど、今の自分と向き合っていくしかない。
エンドレで、ステージに立ちたいんだから……
一月の冷たい風が吹き抜ける中、彼は曲を聴きながら歩いている。それは、water(s)の曲であった。
「お兄ちゃん、また同じ曲?」
「ん、試験があるからな。それまではな」
「また他の曲、弾いてくれる?」
「あぁー、夢が春休みの頃にな」
「うん!」
嬉しそうに応える妹の姿に、潤からも笑みが溢れる。課題曲を弾く時は、多少の緊張感を滲ませているが和らいでいた。
出願は済んだし、あと少しで実技試験本番か……
朝から晩までピアノの事ばっか考えてるって、初めてかもな。
どっちかなら、やっぱりギターの方が得意だし。
電子ピアノを一時間ほど弾き、大きく伸びをすると、リビングのテーブルでも英単語帳を暗記していった。
心臓を変えてもらえるなら、変えて貰いたい!
それくらい、ドクドクと音を立てているのが分かる。
潤は帝東藝術大学の一角にいた。これから実技試験が始まるのだ。防音設備が整っているからか、廊下はシーンと静まり返っている。
やばい…………静けさで余計に、緊張感が増すのが分かる。
震えそうになる手を抑え、深く息を吐き出すと教室へ入っていった。中央に置かれたグランドピアノの前に腰掛け、鍵盤へ指を滑らせていく。何度も練習した曲を。
ーーーーーーーー大丈夫だ。
自分を信じて弾くだけ、叶うと信じて突き進むだけだ。
彼の弾いた音色は、何処か楽しげな雰囲気をまとわせている。試験監の耳には少なくとも、そう届いていたのだろう。口角が上がる者がいた。
「ふぅーー……」
大学を出た潤は、大きく息を吐き出していた。
緊張した……初めてストリートで演った時も緊張したけど、その比じゃないくらいだ。
あんなに手元を見られたりして、視線を感じるっていうか……あれが……拓真のいる世界か…………
防音設備が整ってなかったら、確実に弾けてなかったな。
彼がそう感じる程に、気持ちのゆとりを持てずにいたのだ。
ただ……夢中に弾いてたから、よく覚えてない。
ついさっきの事なのに……
空を見上げる彼の鞄には、約二ヶ月間練習してきた楽譜が入っている。冷たい風が吹き抜ける中、試験を終えたばかりの大学を振り返っていた。
ーーーーーーーー此処で、音楽をもっと学びたい。
ほんの一握りの人だけだって分かってるけど、俺が進学するのは此処しかないんだ。
傑も夢もいるし、他の大学に比べれば学費は安いし……それに何より、レベルも高いんだよな。
多くの音楽家を輩出してきた名門大か……water(s)はすでに……その一組って事だ。
広い大学境内に、その整った設備に、驚いている場合ではないと分かっていながら、そう思い知らされていた。
イヤホンをつけると、彼等の曲が流れ出す。それは、これから迎える春に似合う"夢見草"であった。
何度聴いても、良い曲だよな……
俺の夢というか、理想を形にしたみたいだ。
合否は約二週間後……この二年間の願いが、叶うかが決まるのか…………早かったな……
自分の耳に届く色彩豊かな音色に、想いを巡らせていた。ギターを控えピアノに打ち込んだ日々が、次へ繋がるようにと願いながら。
ピアノのレッスンも、今日で最後か……自分の番を此処で待つのも、最後って事だ。
通い慣れた音楽教室に、毎週のように練習していた日々も終わるのか…………
そう考えると、小学生の頃から通い始めて……色々あった気がする。
毎年恒例のピアノの発表会とか、その度に暗譜したりとか……最初は家でバイエルだったな。
何だかんだいっても、親の影響を受けてるよな。
子供心に母さんの弾くピアノが凄いと思ったのは、確かだ。
今まで練習に明け暮れた課題曲ではなく、好きなクラシックを弾く彼は何処か楽しそうだ。受験から解放され、嬉しさが滲み出ていた。
「樋口くん、合格おめでとう」
「先生、ありがとうございます」
「大学生になっても、引き続き練習していってね」
「はい」
いつも通りの冷静さを保ったまま応えているが、彼は叫び出したいくらいに喜んでいた。
志望してた……器楽科ピアノ専攻に、合格したんだ。
帝藝大に通えるのは嬉しいけど、実感がな……
他人に祝って貰える度に、実感していく感じだし……拓真も受かったって言ってたな。
本当に……叶ったんだな…………
身近な夢が叶い、家までの足取りも軽いようだ。
「お兄ちゃん! この曲、弾いてー!」
「あぁー」
家に着くなり、妹からのリクエストを快く受ける。
合格が分かったのは、高校の卒業式まで一週間を切った頃の事だった。
 




