Phase.1 冷たい男と熱い出逢い
さて今回の話だが、ごく月並みにテーマを言うならば『友情』と言うことになる。だが、私にとってはそれだけでは、語り尽くせぬ貴重な出逢いであったことは、間違いない。まだ見ぬ人との出逢いは、実に貴重な経験をもたらすからだ。
すでに語るまでもないがこの私、スクワーロウが信じる男の行く最良の道は、ハードボイルドである。この道を志してから私はわき目もふらずに、この道を進んできたと確信をもって言える。しかし道半ばにして、気づくのである。私と言う男が、ハードボイルドと言う道を択んで、たどり着くべき場所へ行くのには、別の道もありなのだ、と。
今回の出逢いは私に、奇妙な共感とともに新たな知見をもたらしてくれた。最良の道を行く朋友は、他にもいたのである。この物語を紹介するにあたって、私は彼自身と、彼が択んだその道に、最大級の敬意を表したいと思う。旅は道連れ世は情け、我がハードボイルドと並んでその男の往く道こそは、『任侠』である。
「スクワーロウさんッ、あっちですッ、あっちへ逃げましたよ!早く早く!」
「分かった!走るからちょっと待って!はあっ、はあっ、はあっ…待て!まてへええええ…」
クレアの声が、走る私の耳に木霊する。そのとき私は、対象者の逃げる路地を見ていた。雲一つない直射日光が干上がらせたその路地の果ては、陽炎が立っていた。
(あそこまで走ったら、死ぬかもな…)
と思ったらもう、私の足は停まっていた。
まったく今年のリス・ベガスの夏の暑さには、常識を超えていた。ニュースにはすでに『地獄』と言う形容詞が何度も使われていた。狂ったようなゲリラ豪雨と、大風が街を通り抜けていったかと思うと一転、フライパンの底にいるような、からっからの猛暑である。
クソ暑い路地を、太陽と道路から上がる照り返しの両面焼きにあぶられて歩いていると、それだけで何も考えられなくなる。今の私は、フライパンで煎られるナッツである。あああ、パリパリさくさくのバターナッツを頬張りながら、冷房の利いたごく冷え部屋で、キンキンの瓶ビールを煽りたい。私の思考がすでに、目の前の現実を放り棄てていると。
「スクワーロウさん、逃げちゃいますよ!あの指名手配、捕まえないと、今週のわたしたち、ノーギャラですよ!?」
クレアの声が、めげかけた私の尻を引っぱたく。そうだ、今、私の目の前を走り去ろうとしているイタチの小男は、州法に違反した罰金を滞納して逃げている賞金首なのである。ハードボイルド的に見ればちーっちゃな泥仕事だが、これが今の私たちの命綱なのである。
何しろ一週間だ。地道な調査と、張り込みで突き止めたこの容疑者をここで逃せば、この一週間の苦労がすべて無駄になるのだ。ノーギャラはいやだ。だが、これ以上のダッシュも無謀だ。ギャラがなければ干しリスになるしかないが、この直射日光に焼かれてフライドリスになるのもいやだ。ノーギャラが私を辛うじて突き動かしていた。だが、肝心の足は前に進まず、空を切り始めていた。もはや、無理が利かない年齢なのである。
だらしない言い訳に襟髪を掴まれる私の横を、クレアが走り抜けていく。もう後は若いものに任せるしかない。肉体派ハードボイルドは、そろそろ卒業である。わたしよりだいぶ若いクレアはかなり早かった。すいすい逃げて行くビーバーの男に、あと一歩と言うところまで迫った。
だが相手もさるものだ。
いや、猿と言うわけじゃないが、相手は逃げるの専門のイタチである。クレアが男の影を踏もうと言う瞬間、ぐん!と言う勢いで加速して、一気に引き離したのだ。さすがに若いクレアも、これにはお手上げだ。
「待てッ!…はあっ、はあっ、待ちなさいッ!…停まってお願い…こっ、今週のギャラ!生活費!待てえええ…うううっ、スクワーロウさんわたしもうダメです!走りすぎて気持ち悪いっ!」
熱中症である。
だーから言わんこっちゃない。
「日陰で休むんだ。…ほら、深呼吸して」
私はクレアを引き留めると、一緒に深呼吸した。これ以上太陽光を浴びたら、死んでしまう。リスは元々、洞穴や木陰で生きる動物なのである。真夏に全力ダッシュなんてとんでもない。
「もうダメです。スクワーロウさん、わたしたち干しリスですよ。今夜なにを食べればいいんでしょうか…?」
「いや、そこまでお金に困ってないだろうクレア。君は頑張り過ぎだよ。ほら、今私が何か冷たいものを買ってきてあげよう」
イタチの男が走り去る方向、テニスコートの角に小さな屋台が出ていた。走らなければあそこまではいけるだろう。あれはたぶん、アイスクリームだと思うのだが。やっているのは、ぴっちり胸を張ったペンギンだった。麦藁帽に麻の甚兵衛は涼しげだが、この暑いのに黒い羽根をぴんと伸ばし、客一人いないのにきりっとした顔で営業している。なーんか気合入ってるなあ。
「ちょいと待ちなよ兄さん」
ペンギンが歯切れのいい言葉つきで、通り過ぎるイタチ男を呼び止めたのは次の瞬間だった。一目散に逃げていたイタチが、思わず目を見張った。
「あんた凶状持ちだねえ。…さっきからあっちの方、年頃の娘さんが待ててって、あんたを追ってんだ。ここで見過ごすわけにゃあいかねえよ」
イタチはびっくりしたみたいだが、足は留めなかった。屋台のペンギンを睨みつけて、これ見よがしにべっ、と唾を吐いた。
「関係あるか、くそったれ」
さらには捨て台詞を吐くと、屋台の前を通り過ぎていく。するとペンギン、やおらに何かを掴み上げて、その背を追う。
「やれやれだ。これも他生の縁って言うのかねえ」
言いざま、ペンギンは大きく羽根を天に向かって振りかぶった。あれは野球ボールを投げるフォームである。
「やいコラ!こっち向けぼけイタチッ」
どすのきいた声でペンギンは言うと、イタチ男は振り返った。
「ああッ!?」
その瞬間だ。ペンギンが振りかぶった甲子園球児のような剛速球が、イタチの顔面にジャストミートしたのは。
「ぶべらっ」
投げたのは硬球である。だがいや、野球ボールではなかった。かき氷に使う、楕円形の綺麗な氷だったのだ。
そんなもん喰らったら、もちろんひとたまりもない。イタチは泡を吹いて、パトカーよりも救急車だ。だがそれでもかくて私たちの今週のギャラは辛うじて確保されたのである。
「本当にありがとうございます!どこのどなたか存じませんが、助かりました!」
「いや、いいってことですよ、お嬢さん。…まあ、通りかかったのも何かの縁。そう恩に着ねえで下せえよ…」
警察まで付き添ってくれた着流しのペンギンは決して、手柄を誇らなかった。今時珍しい、出来た人だ。
「あなたが捕まえたのは、州をまたがって逃亡中の手配犯だったんですよ。警察に代わってこの私からも感謝します。これから報奨金を受け取るんですが、あなたにもその資格があります。なので出来ればあなたのお名前などうかがっておきたいのですが…」
私が申し出ると、ペンギンは詰まらなそうに手を振った。
「よして下せえ。あっしはそんなつもりで手を貸したわけじゃござんせん。なので余計な銭は結構。後はそちらさんで宜しくやっておくんなせえ」
「いや、それでもただで行かせるわけにはいきませんよ」
立ち上がりかけたペンギンに、私は握手を求めた。
「私は私立探偵のスクワーロウ、そしてこっちは助手のクレアだ。報奨金を受け取らないなら、せめて何かお礼をさせて下さい。今日のこととは別に、この街のことで何か困ったら、遠慮なく頼って下さい。これも何かの縁でしょう」
と言うと、ペンギンの方も威儀を改めたようだった。彼は私の手を握った。
「…あっしは銀次郎、ですがそちらさんがお名前を名乗ったから名乗るんですぜ、あっしは恩を売るつもりはねえんで」
「そんな水臭いこと言わないで!ビールでも一杯、ご馳走させて下さいよう!」
それでもクレアは、しつこく食い下がる。
「酒は、よしてくだせえ、こっちはまだ商売の途中なんで…」
言われて私は、地面に転がった氷を思い出した。そうだ、イタチを仕留めたとき、彼は屋台をやっていたのだ。
「すると、商売物をとんだことに使わせて申し訳なかったですね」
「いいってことですよ。人様のお役に立ったんだ。…あ、そうだ、旦那がた、礼と言うならせっかくだ、一杯やってってくだせえや」
と、銀次郎が言うと、クレアは目を輝かせた。
「かき氷ですか!?わたし、大好物です!ぜひご馳走してください!」
「おいおい、そんな厚かましい…」
「いえ、これも何かの縁だって言ったでしょう。まあ味を見ておくんなせえ」
銀次郎はそう言うと、傍らのクーラーボックスから綺麗な楕円形の氷を取りだして、手動の氷かきでがりがりとやりだした。
やがて出来上がったのは、グラスにこんもりと盛られたあのかき氷である。シロップはイチゴと練乳。もちろん美味しそうだが、なんの変哲もない。
だが、
「なッ、なんだ…このかき氷は…!?」
さすがのハードボイルドたる私も、驚きを禁じ得ない。これだけこんもり盛られた氷の塊が、羽根のように軽いのだ。舌の上に載せた瞬間、なんの抵抗もなく溶けてなくなる。そして淡雪の溶けたあとに、じんわりと広がる涼感。地獄の釜のようなリス・ベガスの炎天下にたたずんでいるのを一瞬、忘れてしまう。
「かき氷も中々、馬鹿に出来ねえもんでございましょう。特にこんな、咽喉が渇きそうな日は最高だ」
ペンギンは胸を張る。だが、自負するだけあって、これはすごい。言われた通り、なんとこの炎天下、走りに走って締め上げられるようだった咽喉の渇きが、気づけばほどよく癒えているのだ。ビールやソフトクリームに出来る芸当ではない。
これは素晴らしい『料理』である。
素材の氷はシンプルなだけに、味の良し悪しは氷をかいて皿に盛りつける人間の技量ひとつ、と言う正しく職人芸。その潔さ、ハードボイルドに通じる。ううむ、所詮は子供が喜ぶ屋台の食べ物だ、などと軽く考えていた自分が恥ずかしい。
「すっごいですよ銀次郎さん!このかき氷、本当に美味しいです!こんな暑い日なら毎日食べたいですよう!いつもここでお仕事されてるんですか?」
「いえね、お嬢さん、今日は特別なんですよ。…ちょうどこの辺で、用事があったもんで」
「用事?」
「はは、野暮用でさ。忘れてくだせえ…」
銀次郎は照れくさそうに、鼻の下を指で掻いた。
「この銀次郎、勝手気ままな、渡りの商売でござんす。明日はどこへ行くとも知れず、ですがしばらくは、この街のどこかの盛り場で氷を掻いているでしょうよ。これを機会に、縁があったらまた冷たいの、たぐりに来て下せえよ」
謙遜する銀次郎から、私とクレアは強いて名刺をもらった。住所もアドレスもない。そこにはただ一言、こう書いてあった。
『幸りひと筋 銀次郎』
(で、出来るこの男…)
この潔さ。私はひそかに戦慄した。
ハードボイルドのセンスからすると、若干の温度差は感じる。が、有りか無しかで言ったら決して『無し』ではない。私にはわかる。この男、ハードボイルドでは確かにないが、男が一生懸けても守るべき『何か』を持っている。
「それじゃあ、あっしはこれで」
この炎天下に、男は木枯らしを肩で切るように去っていった。姿はさっそうだがぺったぺったと、のんきな音がする。ペンギンの雪駄は甲が広いのだ。それでもどこか涼し気な足音なのは気のせいだろうか。
(幸りひと筋、銀次郎か…)
まさかこのときもらった一枚の名刺が、やがて私たちにやってくる思わぬ再会を招くとは、想像だにしなかったのである。