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「……うん。私で、よければ」
そう答える彼女の声を聞いて、ようやく我に返った。しかし、未だにこの光景が信じられなくて、私は後ずさった。そしてそのまま後ろを向いて走り出す。
走りながら、思う。彼女は承諾した。それはつまり先輩と彼女は付き合うことになったということで……。そのことに決して少なくないショックを受けている自分がいて。それはいち先輩に向けるには、友人に向けるには、大き過ぎるものだと経験のない私でもわかった。そして、ようやっと気付く。
ああ、私、先輩に恋をしてたんだ。
恐らく、一番最初に昼食に誘われた時から。カップルだと言われて嬉しかったのも、その後に先輩に否定されて悲しかったのも、全てそういうことだったのだ。
立ち止まる。
気付いた時には、全てが終わっていた。
――キーンコーンカーンコーン。
鐘の音が聞こえる。はっ、と正気に戻った。教室に戻らなきゃ。そう思って知らず流れていた涙を拭い、重い足を動かした。
ここには一緒にご飯を食べてくれる先輩も、倒れた私を助け起こしてくれたあの人もいない。自らの足で、歩かなければ。そこまで考えて、ああ、と思った。
先輩と相対していた女生徒は、若草色のよく似合うあの人だったのだ。
何とか教室まで辿り着き、自分の席に座る。ついでに外を眺めると、憎たらしい程に雲一つなく晴れていて。だけど今の自分を表すには一番丁度いいと思えるのが余計腹立たしかった。
ふと、視線を感じた。そちらを見ると、先程張り手をしてしまった男子生徒がこちらを心配そうに見ていた。怒るのならまだしも、何故そんな顔をするのかと不思議に思ったが、そこで先生が教室に入って来たので、浮かんだ疑問を掻き消し、前に向き直った。
集中しなくては、と思うのだが、なかなか先程の情景が頭から離れない。結局、授業中は終始ぼんやりしていた。当てられなかったのが幸いだった。
それから時は経ち。ここ最近、私は心の中で頭を抱えていた。先輩のことはまだ吹っ切れていなかったが、それでもその前に、噂を流した本人かどうかもわからないのに、ひっ叩いてしまったことを謝らないといけないよな、と思ったのが原因である。今までクラスメイトと諍いにならないようにうまく立ち回って来たのに、今更こんな下らないことで軋轢を生みたくなかった。
だが、私の中の誰かが、かの男子生徒に謝りに行くのを邪魔していた。どうして私から謝らなくてはならないのか、と。何故そんなことを思うのかわからなかったが……ふと、先輩の言葉を思い出した。
――嫌いになるってことは、例え相手に何か気に障ることをされたのだとしても、少なからず自分に非があると思うからそう思うんだって。
私はクラスメイトが嫌いだ。同級生だって嫌い。だけど、先輩の発言が正しいとするなら……。私は一体、彼らに対して何の負い目を感じているんだろうか。
そもそも、私は何故彼らのことが嫌いになったのだったか。入学当初はここまで毛嫌いしていなかった気がするのに。そう、最初は単に昼休みが嫌いだっただけで。じゃあ何故休み時間が嫌いだったのかと言えば……。
頭が痛い。これ以上考えたくない。でも考えなくては。だってこれは、先輩が最後に残してくれたアドバイスな気がするから。
「……ああ、そっか」
気づいた、気づいてしまった。私は「寂しかった」のだ。
「あの、あの時は本当にごめんなさい。突然叩いたりして」
「え、……ええっ!?」
私が件の男子生徒に謝りに行くと、急に周りが騒然となった。それには構わず頭を下げ続けていると、男子生徒が慌てた様に言った。
「い、いやいや! 顔上げて!」
「だけど……」
「だけども何もないって! 本当に謝らないといけないのは俺の方だよ! いきなり不躾な質問してさ……。だから顔上げて、ね?」
そう言われて渋々顔を上げると、彼は眉を下げて苦笑していた。
「正直叩かれても文句は言えないな、と思ってたんだ。だから、その……君が気に病むことはないよ」
「でも、せめて何かお詫びを……」
物理的暴力に出たのはやはりやってはいけないことだったと思う。渋る私に彼は困った様に。
「うーん……。それなら、さ」
そこで一旦間を置き、一つ咳払いをして、真剣な表情で言ったのだ。
「俺と、友達になってよ」
私が昼休みを恐れていた理由。それは周囲の人間が皆誰かとご飯を食べているのに、自分だけが一人で過ごしているのが嫌だったからだ、それなら自分で声をかければいいのに、高過ぎるプライドが邪魔をしていた。かといって一人でいる、と周囲に思われるのも嫌だった私は、こそこそ隠れる様な真似をしていつもの場所に向かっていたのだ。結局一人なのは変わりないのに。
しかし、先輩が現れてお昼ご飯に誘ってくれたお陰で、私は一人でなくなった。そのこと自体には感謝しているし、彼に非はないと思っているが、それがあの時の私には毒だったのだ。いつの頃からか私は誘って貰えることが当たり前になり、逆に誘ってくれないクラスメイトに悪感情を抱く様になっていった。
だから、私のクラスメイトに対する負い目は、自分で行動しない癖に期待することそのものだったのだ。なんて身勝手だろう。あの紅い金魚のことを悪く言えないな、と笑った。
「やあ。久し振り」
突然声をかけられて振り向く。そこにいたのはいつか私を昼食に誘ってくれた先輩だった。
「はい、お久し振りです。……あの頃は本当にありがとうございました」
「いや、僕は何もしていないよ。それより……」
ふと、先輩が私の隣を見る。隣の彼は先輩を睨みつけていた。彼は私と一緒にいる時、たまにこんな顔をする。それが何故なのかはわからないが、不思議と不快ではなかった。
「その調子だと大丈夫そうだね」
そう言って安心した様に笑う先輩に呼びかける。
「先輩」
「ん? どうかした?」
首を傾げる先輩に向かって、かねてより聞きたかったことを尋ねた。
「先輩、私はちゃんと『歩み寄れ』ましたか?」
窓の外。青空に、沢山の白い雲が寄り添っている様に見えた。