7
気付けば金魚すくいの屋台から大分離れた場所にいた。意識はなくとも足は勝手に動いていたらしい。
いつもならすぐに様子が可笑しいことに気付いてくれる先輩も何故かぼんやりしている様だった。
「先輩、さっきの、どういう意味ですか」
「……えー」
「釣り合ってないとか、どうとか」
「うーん、そうだねー」
まともに取り合われていないと気付いた私は、腑が煮えくりかえる様な気持ちになった。口調も、段々刺々しいものになる。
「私じゃ、あなたに見合わないってことですか」
「あーごめん、後で聞くから……」
「後じゃ遅いんですよ!」
思っていたより大声が出て、自分でびっくりする。先輩は夢から覚めた様な顔でこちらを見ていた。やっとこっちを見てくれた。だけど、もう止められない。
「もう、先輩なんて知らない!」
そう叫んだ勢いで駆け出した私に彼は何ごとか叫んでいたが、周囲の喧騒に紛れてすぐに聞こえなくなった。
人波をかき分けて前へ前へと進む。時に誰かにぶつかり文句を言われながらも、走る足は止まらない。髪型が崩れるのも厭わず、がむしゃらに走った。
しかし、人より体力のない私が、ずっと走り続けられるわけがないのである。どんどんスピードは落ち身体はふらつき始めて、それでも無理矢理足を動かすが。
「あっ!」
遂には自らの足が絡まり前へと転倒した。不恰好なまま、道の真ん中に蹲る私。何だか、とってもみっともない。頰に熱いものが流れた。
「大丈夫?」
目の前に差し出された手。驚いて視線を上げる。その先には、若草色のよく似合う、浴衣を着た一人の女性がいた。
「ほら、私に掴まって」
「は、はい……」
そう促されて反射的に手を取ると、力強く引き上げられた。
「す、すみません」
「いえ、謝ることないのよ。困った時はお互い様じゃない」
そう言って微笑む彼女に何も言えなくなる。すると彼女が突然、手で制止のポーズを取って「あ、でもちょっと待ってね」と言うので所在なげに立ち尽くした。彼女は巾着の中を探っている様子だった。
「あったわ! ……はい、これ」
再度差し出される手。しかし今度は手の平にウェットティッシュが乗っていて。思わず彼女の目を見ると、苦笑された。
「本当は話を聞いてあげたいんだけど、生憎人を待たせてるから。せめてこれで涙、拭いて頂戴」
「ハンカチよりはいいと思うから」そう言って微笑む彼女の好意を無下にする訳にもいかず、ティッシュを受け取ると彼女は「それじゃ」と言っていつの間にか近くにいた女性の輪に戻って行く。慌てて彼女の背に向かって感謝の意を述べた。
「あんたって、本当に人がいいよねえ」
「そんなことないわよ」
そう言いながら去って行く集団を見えなくなるまでぼんやり眺め続けた。そして、受け取ったばかりのウェットティッシュを見つめる。
「私、そんなに酷い顔、してたかな……」
少なくとも、話を聞こうと思われる位には、悲惨な顔つきだったのかもしれない。そこまで考えて、ふるふると首を振る。ここに鏡はない。考えたって詮ないことだった。
とりあえず、これで顔を拭こう。そして、先輩の所に帰るんだ。もしかしたら、勝手に憤る私に呆れて探してくれていないかもしれない。もしくは、既に帰ってしまったかもしれない。でも、先輩ならきっと……。
そう思って、来た道を戻る。先程よりも増えた人波に溺れそうになりながらも、必死に掻き分け進む。しかし、ただでさえ全力疾走した後である。足の限界が訪れそうになった、その時。
「お嬢ちゃん、一つやっていかんか?」
横合いから声を掛けられ、振り向く。そこには先程私たちをからかってきた金魚すくいの店主がいた。
「さっきはすまんかったなあ。お嬢ちゃんにあんな顔、させるつもりやなかったんや」
「いえ……」
「その様子やと、相手さんとは喧嘩したっちゅう所か」
「まあ、そんな感じです」
正確には私が勝手に怒って困らせただけだが。どうしてあんなことをしてしまったんだろう、と今更ながらに後悔した。
「そんで、はぐれてもうたんか」
「……」
最早何も言えず黙りこくる私に店主は、すっと水色のポイを差し出した。
「まあ、なんや。はぐれた時はひと所におる方がええって言うし……。もし金魚すくい、やっていってくれるんやったらその間はここにおってもええで」
そう言いつつも、頰をぽりぽりとかく店主の優しさがくすぐったくて、私はくすりと笑った。
「……商売上手ですね」
そう言って、ポイを受け取った。
さて、どれを狙おうか、と水槽を眺めていると、一匹の紅が目の前を横切っていった。その金魚は周りと比べると一回り大きく、色合いも鮮やかだ。
店主が、私の目線の先を見て言った。
「おっ、お目が高い! そいつはうちの看板魚や。綺麗やろ?」
「はい、とても……!」
美しい紅に惹かれて一瞬狙いを定めようとした。しかし。
「……」
「何や狙わんのかい」
「いえ、……ただ、私には勿体無いなあと思いまして」
その金魚は美しすぎて、自分が飼い主として相応しくないような気がした。こんな綺麗な紅は、例えば……あの、助け起こしてくれた女性の方がお似合いだ。
「そんなことはない。お嬢ちゃんやって可愛いし……それに、何でこいつだけ大きいか、わかるか?」
「……わかりません」
「多分こいつな、他の奴の分まで餌食っとるんや。そないに勝手な奴やからお嬢ちゃんが遠慮する必要、一切あらへん」
店主はそう言って、励まそうとしてくれる。真偽の程は不確かで、店主が気を利かせて出任せを言っただけに過ぎないのかもしれないが、それでも勇気づけられたのは確かだった。
えいっ、とポイを水につける。狙うはあの金魚。すっと下に差し入れる。
「あっ」
後もう少し、という所で金魚が跳ね外に飛び出してしまう。もう一度、もう一度……と何度も繰り返したが、結局捕まえ切れず、最終的に紙が破けてしまった。
「残念やったな。そいつはそう簡単にはやれん」
「うう……」
心の底から残念に思っていると、後ろから声が聞こえた。
「はあっ、はあ……。やっと、見つけた……!」
「せん、ぱい?」
それは紛れもなく先輩の声で、私は身をよじる。果たしてそこにいたのは、肩で息をしている先輩その人で、とても安心したのを覚えている。彼に限ってそんなことはないとは思っていたが、それでも、探してくれていないんじゃないかと心のどこかで不安だったのだ。
「丁度良かったみたいやな。……ほい」
店主に声をかけられて前を向くと、目の前には小さな金魚が一匹。
「流石にうちの看板魚はやれんけど、こいつも奴に餌奪われとった一匹や。可愛がったってな?」
「……はい、ありがとうございます!」
先輩の様子が心配だったので、屋台の列から離れて一旦休むことになった。祭りの喧騒が遠くに聞こえる。
「探してくれたんですね」
「……そんなの当然だよ。こんな時間に一人きりになんてさせられないだろ、女の子なんだから」
「女の子……」
彼の言葉に顔が赤くなる。それが何故なのか、まだ私にはわからない。
ふと、今なら言わなくてはならないことを言えそうな気がした。袋を持っていない方の手を握りしめる。
「今日はすみませんでした。突然怒鳴って走り出したりして。ご心配、お掛けしました」
「ううん、こっちこそ気分を害させてごめんね」
そう言って申し訳なさそうにする先輩だったが、どう考えても今回は自分が悪い。彼の為に何かできることはないかと考えて、いいことを思いついた。
「あの、私何か買ってきます! 先輩はここで休んでいて下さい!」
「えっ、あっ! ……ちょっと待ってー!」
またもや駆け出す私を先輩が捕まえるまで、後少し。