出産拒否
「妊娠六年目にもなると色々と生活が大変でしょう」
定期検診で行きつけの産婦人科医院に訪れた私に、担当医の柳先生が顔をほころばせながらそう言った。私は臨月を迎えた妊婦よりも一回りも二回りも出っ張ったお腹を撫でながらそうですねと返事を返す。そして、二十キロ近くまですくすくとお腹の中で育っている我が子に対し、柳先生にご挨拶するように促した。
「こんにちは、先生」
「はい、こんにちは。タクミくん」
先生が私のお腹の中から聞こえてきた溌剌とした挨拶に頬を緩めた。そして、後ろの看護師からカルテを受け取り、メガネを外してパラパラとめくり始める。
「今回の検診の結果なんですが、特に異常は見られませんね。少々身体は小振りですが、脳の発達にも影響は見られませんし、こうして言葉も喋れる。まだ産まれていないということを除けば、健全な五歳児と変わりはないと言っていいでしょう」
柳先生はカルテを机の上に置くと、出っ張った私のお腹に顔を近づけて、タクミくんに話しかける。
「で、まだタクミくんはお外の世界に産まれてくるつもりはないのかな?」
「僕、まだ産まれたくない」
タクミくんのブレのない返事に柳さんが「いやあ、タクミくんは賢い子ですね」と笑い声をあげる。そのままメガネを掛け直し、その分厚いレンズを通してじっと私の目を見つめた。
「笹中さん、どうして赤ん坊が十月十日経つと産まれてくるか知ってます?」
なんででしょうと私が小首を傾げる。
「赤ん坊はね、世間知らずということもあって、この世界が素晴らしいものだと勘違いしているんです。だから、出産に耐えられる身体になるやいなや意気込んで産まれてこようとするんです。産まれ出る世界がどんなものか本当に知っていたら、誰が進んで産まれようとすると思います? その点、たくみくんは賢いですな。世間というものをお腹の中にいながらにしてわかっていらっしゃる」
タクミくんが賢い。我が子が褒められ、気分が良くなる。まあ、気長に待ちましょう。柳先生は特別な栄養剤の処方箋にサインを行い、私に手渡す。検診はこれで終わりです、いつものように受付窓口で薬を受け取ってくださいね。私は先生に頭を下げ、重たい重たい身体を持ち上げ、診察室を後にした。
*****
「すごく、おなかが大きいね」
待合室のソファに腰掛けている時、私とタクミくんは隣に座る可愛らしい女の子から話しかけられた。肩辺りまで伸びたセミロングの黒髪に、子供らしいまん丸で大きな瞳。可愛らしいピンクリボンのTシャツの袖からは細くて白い腕が覗いていた。私がそうだねと笑いながら相槌を返すと、隣に座っていた彼女の母親らしき人物がにこりと微笑み返す。
「なん才なの?」
「妊娠六年目だから、もう五歳くらいかな」
「そうなんだ! 七海も五才なんだよ。おなじだね」
七海と名乗った女の子が私のお腹に顔を近づけ、タクミくんに話しかける。
「お名前はなんていうの?」
「タクミくんっていうのよ」
シャイで恥ずかしがり屋のタクミくんに代わって私が答えてあげる。七海ちゃんが可愛らしい声で「初めましてタクミくん」と言うと、お腹のタクミくんは少しだけうわずった声で「は、初めまして」と返事を返した。急に話しかけられて驚いたであろうタクミくんを安心させるため、私はお腹を優しくなでながらタクミくんに大丈夫とささやく。
七海ちゃんと彼女の母親としばらく会話をし、偶然にも彼女がご近所さんで、同じ小学校の校区内に住んでいることがわかった。七海ちゃんは目を輝かせながら、「だったらタクミくんも、七海と同じ小学校に通うんだね」とはしゃぎ声を上げる。
「タクミくん、同じクラスになったら、いっぱい遊ぼうね」
「う、うん……」
そのタイミングで七海ちゃん親子の診察番号が呼ばれ、母親が慌ただしく七海ちゃんと一緒に立ち上がる。七海ちゃんはバイバイと私とお腹のタクミくんに手を振り、母親の手に導かれるまま受付の方へと去っていった。私は七海ちゃんの姿が見えなくなるまで手を振り、姿が見えなくなったところで可愛い子だったねとお腹のタクミくんに語りかける。
「ママ……七海ちゃんってどういう子だった?」
お腹の中からタクミくんが質問してくる。私はそのタクミくんの言葉に若干の胸のざわめきを感じた。そして、すぐに、タクミくんがこうして私や家族のこと以外のことについて質問をしてきたことが初めてだということに気がつく。私は自分の気持を落ち着かせながら、どこにでもいる普通の女の子よとだけ答え、出っ張ったお腹をさすり始める。
「僕が産まれて同じ小学校に行ったら、七海ちゃん、僕と一緒に遊んでくれるかな?」
タクミくんのその言葉に私の手の動きが止まる。私は小さく息を吸い込み、できる限り優しい言葉で返事を返した。
「馬鹿ねぇ、そんなわけないじゃない。あんなの適当に言ってるに決まってるでしょ」
お腹の中でタクミくんが小さく身体を動かすのを感じた。それから少しだけ黙り込んだ後、「そっか」というつぶやきが聞こえてくる。
「ママはタクミくんよりもずっと色んな人を見てきたからわかるけど、ああいう女の子は誰に関してもやさしくして、人を勘違いさせてしまうだけの悪い子なの。タクミくんは他の子供なんかよりもずっと賢いからママの言うことわかるわよね?」
タクミくんがうんと返事をする。
「タクミくんはタクミくんが好きなだけずっと私のお腹の中にいていいんだからね。ママはタクミくんが大好きだから、無理してお外に出そうなんて思ってないの。外の世界は怖いし、お腹の中にさえいれば、ママがタクミくんのことを守ってあげるからね」
私の言葉にタクミくんからの返事はなかった。私は念を押すようにして言葉を続けるが、たくみくんは無言を貫いている。
「ねえ、タクミくん聞いてる? ママ、何かタクミくんを怒らせるようなこと言った? ねえ、たくみくん。ママを怖がらせないで」
しかし、どんなに懇願しても、どんなに口調をきつくしても、タクミくんが返事を返すことはなかった。背中に一筋の冷たい汗が伝っていく。身体全体が急にだるくなり、奇妙な寒気を感じ始める。私の身体に、いやタクミくんの身体に何か異変が起きている。妊婦ならではの勘がそう告げているような気がした。
私は重たい身体にむち打ち、柳先生の診察室へと走って戻った。先生は驚きの表情を浮かべたが、私のただならぬ様子から状況を理解し、すぐさま緊急の診察を行ってくれる。脈を取り、触診を行い、レントゲンを撮り、待合室で結果を待つ。永遠かと思われたような時間を経て、柳先生が私の名前を呼んだ。
「いや、しかし……。賢すぎるというのも問題ですな」
柳先生は気まずそうな表情を浮かべながら、おずおずと先ほど撮影したレントゲン写真をモニタ上に映し出す。そして、その写真を見た瞬間、私は悲鳴をあげた。レントゲンに映っていたのは、へその緒を引きちぎり、それで自分の首を締めているタクミくんの姿だった。