事後ならば許される。
ちゅんちゅん、ちちちち。
朝である。
ここぞとばかりに爽やかな小鳥たちの合唱で、僕は目を覚ました。
視線だけを部屋にめぐらし、壁掛け時計を確認する。時刻は六時。いつもならもうとっくに起きて、学校に行く支度をしている時間だ。
重ダルい手で、のそり、と布団を持ち上げる。
「うっ、寒っ……!」
思わず、布団をかぶり直してしまった。
いつもならそんなに、寝起きが悪い方じゃない。だけど、ときは三月。春眠暁を覚えずに加え、今日は寝間着を着ていなかった。剥き出しの肩に、早朝の空気は冷たすぎる。
それでも、いつまでも寝ているわけにはいかない。僕は意を決して、今度こそ布団から抜け出した。
昨夜脱ぎ散らかしたはずの衣服、それより下着……いやそれはもういい。なによりもまず、眼鏡を探さないと――
手首をぐっと掴まれた。
「………シズル? どこいくんだ」
布団から伸びた、たくましい男の腕。
「あっ、タツキ。起き――」
と、いう言葉は、いきなりキスでふさがれた。力づくでベッドに引き戻される。僕はすぐにウーウー唸って暴れたが、まったく無駄な抵抗だった。タツキは僕よりも一回り大きく、力も強い。
僕の両手をベッドに磔け、タツキは笑った。
「おはようシズル。よく眠れた?」
「……おかげさまで、ついさっきまでぐっすりと」
「身体は、痛いところとかないか」
「もう平気」
「……そっか。それは良かった」
と、僕の両肩をがっちりホールドしたままで、おでこに口づけをひとつ。
「俺も、よく寝てた。こんなに気持ちいい朝は初めてだ。……あんなに気持ちいい夜も」
「……それは、良かった……」
僕が呟くと、タツキは声をあげて笑った。僕の体をギュウと抱き、髪をぐしゃぐしゃかき混ぜて、ちゅっちゅっと音を立ててキスの雨。
ばんばん枕を叩きながら、「あぁああーーっ」と謎の絶叫、また僕を抱きしめて大笑い。
人間、これ以上ゴキゲンになれるものなのかってくらい、嬉しそうにはしゃいでいる。
僕は嘆息した。
「うるさいなあ、もう」
「シズル。シズル!」
「だからうるさいって。声が大きいよ、なに?」
「好きだ!!」
タツキは叫んだ。
うわ。すごいなこいつ。よくもそんなにまっすぐに、想いを叫ぶことができるもんだ。
思わず顔をそむけた僕を、覗き込むようにして囁いてくる。
「好きだ。シズル可愛い。好きだ」
「やめろって、もう……」
「どうして? 言わせてよ、やっと許されたんだ。何年我慢したと思ってる? ずっと好きだった。こんなにもずっと好きだったのに、伝えることすらできずにいた。やっと言えた……」
……ああ、もう。わかってる、わかってるってば。
僕は嘆息した。
「わかったから。それよりもう起きろ。これから学校だろ。僕たちの、最後の」
「シズル……」
タツキの眉が、ハの字になった。男前づらがクシャリとつぶれる。
――おや? と思った瞬間、黒い瞳が水浸しになった。
泣きだしたのだ。
「うわっ!? ど、どうしたんだよお前ッ!」
「だって……最後のって。そうだよもう卒業式で、シズルに会えなくなるって、思ったら」
「は!? なんでそう――ていうかちょっとやめろ、僕のベッドが濡れる!」
僕は慌てて、ベッドサイドにあったティッシュを――昨夜、情事で大量消費したそれを取り、タツキの顔を拭ってやった。それでもとどまることを知らず、とうとう顎から雫が墜ちる。
タツキは洟をかんだ。
「う――……かっこわる」
「ほんとだよ。昨日あんだけ強引に押しかけて来たくせに」
「それは、だって、それは」
「男前ヅラが台無しだ。どうしたんだよ、らしくない――」
と、言いかけて口をつぐむ。
僕よりも十センチ背が高く、二十キロは大きな体で、子供みたいに泣くタツキ。
……もしかしたらこの姿こそが、彼の真実だったのかもしれない。
――そうだ。三年前――あのときも。彼はグシャグシャに泣いていた。
放課後、もう薄暗くなった教室で、僕はふと物音を聞いた。部活動時間もとっくに終わって、校舎には誰も残っていない。しかし確かに、ガンガンッと金属を叩くような音が聞こえたのだ。
誰かいるのか? と、呼びかけながら見回す。教室のすみっこ、ガタガタ揺れる掃除道具入れ。……ガムテープが巻かれている!
僕は大急ぎでテープを剥ぎ、金属の扉を開いた。飛び出してきた少年は、両手足を縛られ口をふさがれ、あげくに下半身が裸だった。ひんひん泣きながら、僕の胸に縋りつく。クラスで誰よりも小さくて、女の子みたいな十五の少年――僕は彼を抱きしめて、泣き止むまでずっと、その背中を撫で続けた。
――そんな、古い記憶を掘り起こし――
僕は深々と嘆息した。
「あのころのタツキは、小さくて可愛かったなあ……」
「三年で35センチ背が伸びた。俺も、ここまで大きくなるとは思わなかった」
笑うタツキ。まだ瞳は濡れていたが、キリリとした眉の、男前づらに戻っている。ほんと、ずるいよ。詐欺だ。こんなの誰が予想できた?
あの頃のタツキは本当に、小さくて可愛かった。小動物みたいにプルプル震えて、僕にラブレターを押し付けるあの姿。「お、おね、いおがおねおね、お願いします、つつつ付き合ってください」――こんなの、笑っちゃうじゃないか――可愛すぎて。
年齢よりも、幼く見えるタツキ。可愛い少年。たぶん、恩義と恋愛感情を取り違ってしまったんだろうなと僕は思った。
ああそうだ、当時の僕は、あまりに軽率だった。彼の気持ちを軽く考えすぎていたんだ。
「そうだなあ。もし三年後、まだ僕を好きでいてくれたなら考える」
――なんて。
「……ほ、ほんと? 卒業したら、もう一度告白してもいいの? もう一度、好きだって言っても怒らない?」
「ああ、待ってる。だからそれまでにいっぱい友達つくって、一生懸命勉強して、イイ男になりな」
――なんて。
なんで、あんなこと言ったんだ。ああ馬鹿、馬鹿。僕の馬鹿!
本当に僕は大馬鹿者だ。
頭を抱える――と、その腕ごと、タツキが体全部つかって抱きしめた。僕を慰めるように、あるいはすがりつくようにして。
「……ごめんな。シズル」
「…………なにを、今さら……」
「俺も、本気にしてたわけじゃないんだ。はぐらかされただけだってわかってた」
タツキは目を細めた。僕の顎をもちあげて、唇を重ねてくる。
「約束しただろって強迫みたいに押しかけたのも、抱きしめたのも、キスをしたのも」
恐る恐る――剥き出しのヤケドに触れるみたいに、そうっと。
「……ごめんなさい。最後の日に、好きだと言えたらそれでよかった。押し倒すつもりまではなかったんだ。それなのに……。ごめん。最初で最後。一度だけでもシズルを抱けて、俺は、もう」
タツキが身を離す。僕は、その首を捕まえた。
思い切り体重でひっぱって、ベッドに引きずりこんでやる。体格差があったってこっちも男だ、不意打ちして本気を出せば、タツキを押し倒すくらいできるさ。
「シズルっ?」
目をシロクロさせるタツキに、かぶさるようにして深いキス。
唇に噛みつき、歯の隙間に舌をねじ込んでこじ開ける。思いっきり啜ってやった。
体を起こし、どうだ、とばかりに見下ろすと、タツキは呆然としていた。目の焦点が合ってない。
僕は怒鳴った。
「なめんな! 黙って聞いてれば勝手な思い込みでダラダラと。この静流達明、がきんちょにいいようにされるかよ!」
「えっ、あ……え……」
「小娘じゃないんだぞ。約束うんぬんで自宅に入れやしないし、黙って押し倒されもしないよ。嫌ならきっぱり断るし、本気で抵抗すれば逃げるくらいできる。ついでにいえば言えば飢えてもない!」
「え? い、いや……でも。だって実際……」
「同意も好意もなしに、男同士でこんなことしないって言ってんだ。わかれ馬鹿!」
まだ目を白黒させているタツキ。僕はフンと鼻を鳴らし、ベッドから出ていった。
眼鏡はナイトテーブルで発見。寝間着と下着はもういい、新しいのを穿いていくし。
「あーもう、こんな痴話げんかしてる場合じゃない、もう七時だぞ遅刻する。くそっ、シャワー浴びてる時間ないなもう」
「え……でも学校……卒業式は、九時からじゃ、ないですか?」
「僕たちは準備とかいろいろあるの。始業ギリギリにこればいいってわけにいかないの。お前もこれから社会に出るんだから、そこんとこよく覚えときなさいね」
はい、とタツキは頷いた。よしよし。こいつは昔から、言うことだけはちゃんと聞く、真面目な生徒だったんだ。
僕はクローゼットを開き、事前に用意をしておいた、とびきり仕立てのいい仕事着を羽織った。ネクタイを結びながら、まだベッドにいるタツキを振り返る。
「――じゃあ、僕はもう行くけども、お前はシャワー浴びていけ。朝食は菓子パンでよければ冷蔵庫、ご飯が食べたければとなりのコンビニ」
「はい? はい。え、あの――カギはーっ?」
脱衣所にいる僕に向け、タツキが大きな声を出す。僕は寝ぐせを直しながら、
「下駄箱のとこー! ちゃんとかけてこいよーっ」
「かけたあとは、どうすればいいんですか、先生ーっ!」
僕はふと、手を止めた。
脱衣所から顔を出し、ベエと舌を見せる。
「……その呼び方は、学校についてからでよろしい。辰木くん」
本当は、一日たりともブッキングさせてはいけなかったんだけどな。
……まあなんというか、うっかり。
明日まで待つとか、なんかもう、いっかぁって。
情熱的で強引で、縋りつくように抱きしめられて……つい。
一日くらい、事前だけども、やっちゃっていいかなって……うん。まあね。
まあいいじゃん! 三十余年も生きてれば、そういうテンションになっちゃうことだって、一回くらいあるだろうっ。
革靴を履いて、よし準備万端。アパートの扉が閉まる直前に、部屋の中から声がした。
「シズルぅううーっ好きだぁっ! ずっと前から、めちゃくちゃものすごく好きだったーーーっ!!」
「うるさいだまれ、僕もだ馬鹿!!!」
怒鳴り返して、僕は聖地へと向かっていった。