*9*また会えたね
河原の沿いの道からさらに堤防の下へ降りていった。
暗闇の中を走った。
まだまだ細い月が目的地だけを照らしている。なんとも不思議な光景だ。そこだけがスポットライトを浴びるように、ぼんやりと明るくなっている。
目指すそこには大きな桜の木がある。その蕾は徐々に大きくなってきているが、桜華の乱舞を見るにはしばし時間を必要としそうだ。
俺は月明かりの中、目をこらした。
しかし、俺の望む笑顔はそこには見あたらない。
まだ彼女は現れてないのか?
それとも今日は現れないのだろうか…?
明らかに落胆している自分がいた。
でも、同時にこれは昨日浮上した疑惑を確かめる絶好の機会なんだ。
まず俺は携帯で時間を確認した。
23時37分。
よし、まだ日付は変わっていない。
俺は、息を整えるために少し深く呼吸した。
そして彼女が昨日そうしてたように、桜の木に背を預けた。冷たい3月の風が俺の頬を優しくなでていった気がした。
しばらくして、携帯のバイブ音が静寂を打ち破った。
思わず体がびくっと震える。
び、びびったじゃないか。
誰だよこんな時間に…。
携帯を確認するとメールを受信したことがわかった。
題名:緊急事態発生
From:内田純
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千尋が帰ってきた。
どこが緊急事態だ……。
緊張の糸がぷつっと切れた音が聞こえた気がした。
メールは幼稚園からの幼なじみで、今も地元の田舎にいる。“千尋”というのは純の妹のことで、地元の実家を離れて街で大学に通っている。その千尋が春休みで帰ってきたので、俺にも帰省せよと言いたいのだ。
ったく…。
今何時だと思ってるんだ…。
俺がこのくらいの時間なら仕事でまだ起きていることを知っていての犯行である。
そういえば、今年の正月は実家に帰る時間がなかったからしばらく純たちに会ってない。
いつから会ってないのだろうか。
そして、俺は夏休み以来、純たちに会ってないことに気がついた。
帰省命令がくるわけだ。
しかし、春休みは教師にとっては年度の切り替わりの時期だからとても忙しい。
無理だ。夏休みまで…いや、せめてゴールデンウイークまで待ってくれ。
きっとこれを純に納得してもらうにはかなり体力がいるのだろうと思うとグッタリ肩を落としたくなる。
俺は純に短く『善処します』とだけ返信した。すると間髪入れずに携帯が鳴く。
携帯の液晶には『内田純』と表示されていた。
うゎ…電話かかってきた…。
「……もしもし?」
恐る恐る、受話ボタンを押し、応答する。すると、けたたましい聞きなれた声が携帯から聞こえてきた。
『もしもしじゃねーよ。お前さ〜そこは可愛く“帰るよ”だろー“善処します”とか、帰る気なさすぎ、やる気無さ過ぎ、おれを捨てる気!?』
「捨てる気って…そもそもおまえ俺のものだったの…?」
『だって…現地妻だろ〜!愛人だしぃ』
「…可愛く言ってるつもりだろうが、俺は愛人を作った覚えはない」
『うゎ最低だなーおまえ。俺をおまえ無しでは生きてけない体にしといてそういうこと言うわけー?』
“おまえ無しでは生きていけない”とは俺が地元に帰ると、俺の趣味が料理であることをいいことに、味をしめた純が “腹へった、なんか作れ”といつも要求していることを指す。
「だから人聞きの悪い言い方するなっ!おまえが自分で飯つくればいいだけだろーっ?」
「とにかく、帰ってこい、いいな。じゃ俺は寝る」
抵抗むなしく、プチ、という音とともに電話が切れた。
なにそれ!
言いたいことだけ言って切りやがって…。
俺がげんなりして携帯を見つめていると、頭上からクスクスと可愛らしい声が聞こえた。
はっとして顔を上げると――そこには俺がずっとずっと待ち焦がれた笑顔があった。
会えた。
ほんとに会えた。
君に会えただけで、俺の心はこんなに満たされる。
あーだこうだーと考えても、俺の中から、君はちっとも消えないんだ。
だから、素直に君に伝えよう。
今の正直な気持ちを。
やっとの思いで俺の口から出たのは、情けないほど小さな声だった。
「会いたかった…」
そう、彼女に笑いかけるのと同時に、自分の目頭が熱くなったのがわかった。