*8*時間
どこをどう歩いて帰ってたのか、気がついたらちゃんと自宅の玄関のドア前についていた。
でも、帰宅したのは俺の体だけで、心はまだ桜の木の下にいる。
──君はいったい誰なんだ。
その疑問が頭の中に何度も何度も繰りかえし沸いてくる。
目を瞑れば、今もリアルに思い出される記憶。
彼女の笑顔も。
彼女の笑い声も。
彼女の腕の感触も。
彼女が消えていった後に俺の胸に残された痛みも。
俺は深くため息をついて、玄関を開けた。
「ただいまっと。雪、寝るか〜」
腕の中にいた子猫をそっと床に下ろした。
そっと頭をなでてやり、再び彼女に思いをはせる。
一つだけわかったことがある。彼女の言う『時間』のことである。
彼女に会った3日間とも正確な時間はわからないが、午前0時から1時の間。
今日は0時40分まで家にいて走って川原に向かった。移動時間はおそらく15分前後だろう。そして彼女に会えたのは、わずか数分。つまり彼女は1時には“消えて”しまうのだ。
明日…確かめてみよう。
この時、俺はすでに彼女を取り巻く不思議な現象への興味とは、明らかに別のものを少し自覚していた。
しかし、この気持ちを向き合ってもいいのだろうか。
自分にはその資格があるのだろうか。
そんな気持ちが胸を締め付ける。
それでも、やはり目を閉じれば、彼女の笑顔が自分の心を温かくするんだ。
もっと彼女の事が知りたい。
今はそれだけでいいじゃないか。
玄関から部屋へ上がった俺は、部屋の電気をつける気分になれず、そのまま倒れ込むようにベッドに横になった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
次の日出勤した俺は明らかにいつもと違った。
自分でもわかった。
もともと集中力は高い方なのだか、今日はそれにも増して尋常でないほどのスピードで仕事を消化していく。いや、消化できてしまうことに自分でも驚く。はかどるのだ。昼休みもろくに取らず、コンビニで買ってきたサンドイッチをかじりながら、とりあえず空腹を解消したという具合だ。
そして仕事は23時には自分で決めた範囲をすべて片付けることができた。
なんて気持ちいいのだろう。
こんな達成感と充実感に溢れた気持ちは久しぶりだ。
“今日は働いたぞ”と胸を張って自慢できる。他の人にではなく、自分自身にだ。
俺は、机のパソコンの電源を落とす、職員室を後にした。
そして、廊下に出たとたん自然に駆け足になった。
君は今日もあそこにいるのだろうか。
今日も君に会えるのだろうか。
絶対、なんてありえない。
約束なんて、どこにもない。
それでも俺は全力で走っていた。