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*7*ココロノコンパス(後編)

「ごめん…今日は…遅くなって」


 息が上がっていてそれだけ言うのが精一杯だった。

 言ってから気がつく。

 何がごめんなんだろう。別に今日会う約束をしたわけじゃないし、時間を指定していたわけでもない。

 でも、まるでデートに遅刻した気分だった。


「お仕事お疲れ様。走ってきたの?」

 そんな俺を、彼女はうれしそうに眺めやる。

「……今日は家から来たんだ。ほら…」

 俺は胸に抱いていた子猫を彼女に見せた。

「あーっ!雪ちゃんだ」

 彼女はまるで華が一気に咲くように、笑顔になって子猫を抱き上げた。

「よかったね。優しい人に拾ってもらえて。」

 無理やり君が飼えって強制したくせに、よく言うよ。

 心の中で俺がぼやいていたら、彼女が「ん?」と不思議そうに動きを止めた。

「え、わざわざこの子を連れてくるために家に戻って走ってきたの!?元気だね〜お仕事の後なのに」

 いや、結果的にそうなってしまったけど、最初からそういうつもりだったわけじゃないし。

 なにしろ、疲れてたから家でゆっくり寝てるつもりだったんだから。

 なのに走ってきてしまった。しかも全力で。


 体は仕事でくたくたな上、その体で走ってきたはずなんだ。

 俺何やってんだろう。

 余計疲れることしてるじゃん。


 でも、目の前で微笑む彼女の顔をながめていたら、そんなことはどうでもよくなった。

 そればかりか、疲れも吹っ飛んでいってしまった気がした。

 不思議だ。

 こんなことは初めてだ。

 すっと気持ちが楽になった気持ちだった。 

 もう、誤魔化すことなんてできない。

 君の事がもっと知りたい。

 この気持ちをなんて呼ぶかは知らない。

 今までに感じたどんな気持ちともちがうから。 


 一瞬、彼女の瞳が俺を捕らえた。

 俺にとっては、とても長い時間に感じた一瞬だった。

 

「あ、そうだ」

 沈黙を破ったのは彼女のほうだった。

「私の名前ってミオ?」

「え?」

 俺の思考が停止した。

 なんでその名前を…?

 よっぽど不思議そうな顔をしていたのか、口に出してそう質問したわけではないのに、彼女はこう続けた。

「昨日私が居なくなる前にそう呼ばなかった?」

「…言った……かな…」

 確かに、言った。その名前を口にしてしまった。

 でもそれは、彼女の名前を不意に思いついた、というわけではなかった。どうしてその名前を口にしたのか、実は俺にもわからなかったのだ。そして、同時に色々なことを思い出した。

 …もう大丈夫だと思っていたのに…。


「ありがと〜気に入っちゃった!」

 俺は苦々しい表情になった自分をどうにか隠そうとした。

「…そうなのか…」

 できればほかの名前がいいな、と切なる願いもあったが、彼女の本当にうれしそうな笑顔に言い出すきっかけを無くした。

「うん、ありがとう。今日はそれが言いたかったの」

 満面の笑みで彼女は、俺に頭を下げた。

 参ったな。

 その名前だけは…もう自分の口からでてこないと思っていたのに、まさか自分がその状況に自分を追い込む形になるとは…。

 自己嫌悪と罪悪感と…黒い絵の具のようなものが俺の心をじわじわと染めていくのが自分でわかった。

 言葉をなくして、喜ぶ彼女の笑顔を見つめるしかなかった。

 すると、彼女が小さく声を上げた。

「あ、ごめん、時間だ」

 俺ははっとした。

「え、もう…」

 俺の無自覚に、普段なら口にしないような言葉が飛び出した。

 それだけ、正直な気持ちだった。

 もう少し、彼女と一緒に話していたい。

 もっと彼女のころころ変わる表情を見ていたい。

 そう思ったんだ。


「うん、ごめん。でも会えてよかった。今日は会えないのかと思ったから」


 彼女は子猫を俺に手渡した。続けて別れの言葉を言おうとしているのがわかる。

 ぎゅっと胸を締め付けられるような痛みを感じた。

 言葉がうまく出てこない。

 どうやって引き止めたらいい?

 言葉にできない気持ちがあふれて、俺は思わず彼女の腕をつかんでいた。

 そんな俺に、彼女の笑顔が一瞬ゆがんで見えた。

「…ごめんね、また会えるよ」

 その言葉が合図のように、彼女の体が段々と色をなくしていく。

  

 ほんとにまた会える?

 ここにくれば君にまた会える?



 “また”が絶対くるとは限らないのに──?



 俺の中を黒い闇が一気に埋め尽くして、息が苦しくなってくるようだった。


 だめなんだ、“今”の気持ちは今伝えないといけないんだ。

 俺はそれを散々後悔してきたんじゃないか。

 この気持ちを伝えなくては。

 

 でも、自分でもこの気持ちを説明できないのに、どう伝えたらいいのだろう。


 あせる気持ちともどかしさで、彼女をつかむ腕に力がこもる。 

「大丈夫、また会えるよ」

 彼女はその言葉と、俺の手のひらに彼女の確かな腕の感触と温もりを残して、川原からの冷たい風の中に溶けていった。

 俺は彼女を掴んでいたはずの手のひらを強く握りしめた。

 その感触と温もりの余韻に浸りたかった。

 その感覚だけが彼女が今ここに居たという確かな証拠なんだ。

 これしかないんだ。

 

 俺はぐっと唇をかみ締めた。

 桜の木を見上げると、少しだけ蕾が膨らんできていた。


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